第37話 □月□□日、午後八時二十五分。

「…………っ」

 窓ガラスを突き抜け、旭光眩しく目を眇める。

 若干の汗臭さと香水の匂いが鼻腔をつく三年一組。

「…………」

 合成音が丸出しなのはもはやご愛嬌のチャイムを背景に、久遠詩織は、その透き通るような瞳で僕の姿を写していた。セーラー服を着る少女の皮を、彼女は見ているのだろう。教室の後ろ、週間の時間割が乱雑にチョークで綴られている黒板の前、その眼にはどうにも複雑な感情が混み合っているように思えた。

 チョークの粉で埃っぽく、雑踏犇く喧々囂々その中に一人、

 物言わず、ジッとこちらを見つめる久遠詩織がそこに居る。

 ……実に、二日ぶりの再会だ。

「……おはよう、ございます」

 待ち侘びた再会だったはずだったってのに、喉から思っていたような声すら出ない。結果、選ぶ言葉のポキャブラリーさえ持ち合わせのない僕では、貧相で味気のない挨拶となってしまう。『不気味な』事態が、事態なもんだから、頭の回転も鈍化しているが、きっとそれだけではないはずだ。

 ……この事態を差し置いても、久遠さんには言わねばならんことがある。

「……あ、あの、さ」

 ……おとといは、一人で帰ってすみませんでした。

 ……誘ってくれたのに、ひどいデートでごめんなさい。

 ……約束したことも守ってやれなくて、ごめんなさい。

「……久遠さん、話が――――――」

 その回答が決して睦ましいものではなくっとも、罵られるものでも、それでもよかった。僕は、僕の言葉で、久遠さんと話がしたかった。岸辺織葉の代弁ではない、誰かの目線を気にして発する戯言でもない、腹の底にある言葉を口にしたかった。それがよほど僕に都合がよくたって、やらずにはいられなかった。

 ……ただ、僕は、彼女の言葉を聞きたいだけだったのだ。


「――――――織葉っ!!」


 彼女は開口一番、『皮』の名前を口にした。

 そしておぼつかない、ゆらゆらとした足取りでこちらに近づく。その間もジーッと僕の姿を見つめながら、紅色の綺麗な唇を震わせながら、彼女はおもむろにバサッと僕に重みをのし掛けた。人間的な重さと女性らしい匂いが、僕に端的かつ明瞭な事実を告げてくる。

 それは、夏の暑さよりもずっと熱っぽかった。


 僕は、久遠さんに抱擁されていた。

 ギュッと、力強く、抱き寄せられていた。


 これまで散々、本当に散々、酷い目に遭ってきた。

 理不尽が荒い波のように押し寄せてきたかと思えば、引き際を弁えていないのか間髪入れずに艱難辛苦を波は押し付けてくる。僕は僕の知りうる人生観において苦難に犯され続けた生き様だと評する。陵辱されてきたと言っていい。それでも、それでも、だ。こんな感情に陥るのは初めてだと断言できる。


 …………ここまで吐き気を催すほどの、猛烈な生理的嫌悪感を覚えたのは。


「……なんですか、久遠さん。どうしたんですか?」

「……どうしたや、あらへんやろっ!!」

 何における『吐き気』なのかがわからない。

 だが、目が回る。ここに居たくないと、心が叫んでいる。

「一週間も、ずっとっ、何処ほっつき歩いてたんやっ!!」

 だが、僕の苦悩なんぞ知る術がないであろう久遠さんは、矢継ぎ早な勢いで僕へ質問を叩きつけてくる。質問というよりもはや説教だ。だが、そんなこと、どっちだっていい。耳元で潤む声は、焦りで汗ばむ肌は、それが如何に真剣であるかを殊更訴えてくる。聞き間違いや、おふざけではない証左だ。

 ……だったら、この人は、なんの『狂言』を捲し立てているのだ?

「……一週間って、え、……なに言ってんの?」

「わからんはずないやん!ずっと連絡も寄越さないで!!」

 ……ずっと、連絡を?

 ……なんだこれ。なんだこれ。昨日は確かに会わなかった。いや、会えなかったのだ。なぜならば久遠さんが文化祭一日目を休んだのだから。それに一昨日だって、……一緒に、……遊んだじゃないか。それなのに、「一週間」とは何のことだ。……なんだ、この齟齬は。……なんだ、この噛み砕けない食い違いは。

「……変な冗談なら、そろそろ怒るで?……文化祭休んだん、久遠さんの方やないか」

 ……そうだ。オカしいのは僕じゃない。

「……え、織葉、なに言ってんの?」

 ……なにって、え。なんで、、、

「……いや、いやいや。……デートすっぽかしたことを怒ってるんやろ?僕が勝手に帰ったから。デートの後味最悪にしたから。そうなんやろ?それは僕が悪いんは百も承知やし、僕が謝らんとアカンのは疑いようが無いんやけど、こんな嫌がらせは本当にタチが悪いって。謝るからさ!こういうのはやめようよ!……ほんと、気味悪いって。気持ち悪いんだって。……謝るからさ!……謝るからさ!!」

 ……ほんと、謝るから。いくらでも謝罪するから。

 そんな、奇怪なものを見るような目つきで僕を見ないでくれ。

「……あ、あのさ、そのデートっていうのもよくわからんけどさ」

 困惑顔の困り眉の表情のまま、久遠さんは僕を見つめながら、


「文化祭は、明後日やで?」


 ……………………は?

 なにを言っているんだ、そう問い詰めようと口を開こうとしたその時だった。

 窓辺からふわりと風が靡いた。一陣の微風だ。真夏をほんの気持ちばかり和らげる、なんの変哲もない風。ただ僕はパンクしそうな頭で些細とも取れる引っ掛かりを覚え、窓辺を、窓枠を、久遠さんの息遣いを横に見たのだ。

 途端、僕の中の『不気味』は、決定的なまでに明確さを露わにした。

 それと同時に、ポキリと、僕の心が折れる音がする。


 窓枠のガラスが全て、一つも欠けることなく元に戻っていたのだ。 

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