第30話 七月二十二日、午後六時三十二分。
…………はぁ。…………はぁ。…………はぁ。
一向に整う気配のない呼吸を、僕は薄暗くなった路地裏の石塀にもたれ掛かりながら精一杯落ち着くよう努めた。しかし、ひどい息切れなもんでしばらくまともな呼吸をしてやれそうにない。それに、今だけはただ、浴びるように水を飲みたい。
「……いっつ。……あぁ、これ、風呂入ったら絶対に染みるよなぁ」
尋常じゃない汗水にへばりつくセーラー服、その合間から覗くのは色白の肌と傷だらけの赤血だった。
ジンジンと今更ながらに痛みが尾を引く。特に手のひらと膝はわかりやすく擦り傷だらけの傷だらけだ。
……だが裏を返せば、それ以外の外傷は無かった。
……憮然としたような天候の空を力なく仰ぎ見る。
……いやぁ、ほんと、、、
「……なんで、あんな場面から生き残れたんやろ」
――――――――――――
遡れば、それは一世一代の思い切りの場面からである。
僕は確かに叫んだのだ。なんて言って叫んだかなんて覚えちゃいないが、確かに、僕はこれでもかとの声量で叫んだのだ。それは今なお、喉仏が震えの余韻を残す程度には大きな声だったのだと思う。残響が耳の奥に反芻している。ただ、その声が『化け物』に届いたかといえば……。
……きっと、その声は『化け物』には届かなかったと思う。
「――――――「おい、君、何をしている!!危ないじゃないか!!」」
我ながら渾身ともいえる僕の雄叫びは、二人組の厳しい怒号によって難なく掻き消されてしまった。
二人組は矮躯なこの身よりも十分すぎるぐらいに恰幅が良く、身元を判別しやすい制服に身を纏っていた。
それは本日二度目の邂逅である。
そう、二人組は警察官であった。
「こんな人通りの多い歩道で金属バットだなんて、何を考えている!!」
「怪我人が出るかもしれない。悪いが、拘束させてもらうぞ!!」
それかというもの、ものの数秒の出来事であった。
体格からまるで違うのだ。警察官の二人組であれば暴れる青年なんて文字通り赤児をあやすようにいとも容易く沈静化させてしまい、路肩に停めてあった滋賀県警のロゴ入りパトカーまで連れ去ってしまう。「放してくれっ!!」、「まだ、アイツがっ!!」、焦燥に満ちた悲鳴の木霊だけが残る。
しかし、相手は屈強な警察官だ。こう言った手合いには慣れているのだろう。
青年の必死な抵抗虚しく、パトカーはサイレンを撒き散らしこの場を去った。
結末は、随分と呆気のないものだった。
「……………………あ、え?」
動揺に翳りを落としていた街道の雰囲気も、次第に霧散し、凡庸な日々に戻る。
そうして街道には再び『いつも』が取り戻された。それは一方は退屈で、一方は甘美なもので。ありていで、ありきたりで、月並みで、そんな街道へと戻っていく。……本当に、見えていないもの、見ていなかったものは、まるで無いものかのように振る舞いながら。日常は取り返される。
……そう、ただ一つの異常事態だけを取り逃して。
……あぁ、そうか、そうだよな。そりゃ当たり前だ。
青年が立ち去った今、『オマエ』は行き場を失うわけだ。すると、次、『オマエ』の取り得る行動に考えを及ぼせば、それは自ずと答えを導けてしまう。なぜならば、僕は先ほど、声を荒立てたのだから。……まだ、そこにいる『化け物』の前で。
「……………………っ!!」
聞こえていたかはわからない。
だが、貧弱な言葉では掬いきれない乱れた感情が伝播するのだ。
これは錯覚なのかもしれない。だが、ジッとしている余裕もない。
ただ衝動が赴くままに、僕は歩道橋の階段を飛び越え、事件のあった街道とは逆側の街道へと逃げた。何人もの通行人を押し退け、払い退け、ときにすっこけた。膝や肘の血流はその時のものだろうが、ともかく僕は疾く走ることだけを考えた。早く、速く、疾く、僕は逃げた。
いろいろなものをほっぽって、僕はその場を後にしたのだ。
――――――――――――
そうこうあった経緯の後、今に至る。
「……誰かが、パトカー、呼んでくれたんやろか」
その手があった。あともう少しの思慮を働かせられるぐらいの頭があれば、誰でもいい、携帯を借りてでもして通報すればよかったのだ。それはきっと僕のやろうとしていたことよりもよっぽど文明的で効果的な手法である。猪突猛進は時に美学として語られるが、残念なことに大半は救えない間抜けである。
「……にしても、……あの『化け物』なんなんや」
不可視の『化け物』。ここまでくれば、もうなんでもアリな気がしてくる。
自我が存在するのか否かもわからんが、怨念じみた深い闇を感じた気がする。
もっとも人間的感情でありながらも、ずっと獣の方が近いようにも思えたが
まったく、『化け物』に遭遇するわ、決死の覚悟も無駄骨に終わるわ、……大事なもんを置き去りにしてくるわ、もう散々も散々だ。なんでこうなるのだ。功績らしい功績もないんだから不幸中の不幸である。その不幸中でもちっぽけな幸いごとは連行された青年の身柄は一時的にしろ安全だろうが、、、
「……あー、余りある失態や。……久遠さんを街道に置いて来てしまった」
おかげでちっぽけな幸いごとはぶっ壊されて叩きの召される勢いである。
あー、どうしよう。どうしよう。通行人の様子を見るに、十中八九、久遠さんが『化け物』を知覚していることはないだろうが。だったら何故、僕と青年だけは知覚できたのであろうか。これが青年だけであれば、青年が何かしらの恨みを買った、なんて適当な答えで納得できるのだけれども。
青年はともかく、僕は何にも……。
……いや、本当に何も心当たりがないのか。
「……だって、あれは不可視だっ――――――」
……やめよう。その憶測は気分が悪い。
……推測に推測を重ねたって、それが帰着する先は妄想に過ぎない。
……そうだ。だから、情報もないのに疑うだなんて、もっての外だ。
「……はぁ、とにかく、もう今日はさっさと帰って、そのまま――――――」
そのまま、どうしたものだろう。風呂に入りたい。そんでご飯を食って、ぼーっとして、そのまま布団にくるまりたい。思いのまま、眠ってしまいたい。それって、とっても普通で、とっても生きている感じだ。眠い。眠い。眠い。……あれ、どうしちまったんだろう。僕。……なんだか、変だ。
「…………あ、あれ。……なんか、視界がぼやけて――――――」
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