第25話 七月二十三日、午後十三時三十五分。

 憲法が健康で文化的な最低限度の生活を保障するってんなら、真夏のクソ猛暑を憲法違反とすべきだろう。

 もう僕は、あの灼熱地獄へは戻れない。空調のガンガン効いたショッピングモールは、人間の叡智の結晶、人間の至るべき極楽なのだ。天国は琵琶湖沿いのショッピングモールにあったのだ。これを真夏のオアシスとでも命名してやろうかと思ったが、あいにく滋賀県民にとってオアシスは琵琶湖でなければならない。だからここは一つ、真夏の最低限度としよう。そうすれば真夏の最低限のボーダーが低くなり、人間はより人間ができる。

 ……ふ、ふはは。やばい。これは僕、結構疲れているんじゃ?

「……っと、これで全部やねー。織葉も買いたいもんないん?」

「……いや、自分の欲しいもん買っちゃアカンやつやろ、これ」

 なんだか洒落ている買い物カゴをゴソリと鳴らす久遠さん。その内訳は文房具に画材、他にも雑貨で敷き詰められており、箇条書きをしていた商品名に横線をひきながら、うんうん、と満足げに頷いている。おそらくメモ内容をコンプリートできたのであろう。

 なるほど、何をしに教室にまで戻っていったのかと思えば、、、

「……これ、全部文化祭準備用の買い出しなん?」

「そうそう。足りなくなりそうな分の買い出し!」

 あとで領収書もらわないろなー、とスマホの電卓アプリを起動させる久遠さんを横から覗く。ざっと計算して、野口さんが数枚と言ったところか。今の僕の手持ちにはそんな大金があるはずもないんで、一旦のお金も出してやれないけれども。大丈夫なのだろうか。

 確定して大丈夫ではない僕の昼飯代に思いを馳せながら。

 なんだか人が働いている横で暇をするってのに居づらさを覚えた。

「……持つよ。手持ち無沙汰やし」

「おー、あんがとー。重かったから助かるわー」

 ほいっ、と持たされた買い物カゴはずっしりと重かった。だが、このくらいはなんのそのだ。これで泣き言を言っているようじゃ、僕がここに居る意味ってのがマジで無くなってしまう。それってのは非常に良くない。頑張れ、僕。頑張れ、身体。

「……ふー、ひー。……これ学校まで運ぶんよな」

 ……しかし、思えば、僕はこの為に呼ばれたのだろうか。

 ほんのちょっとした小間使い、暇を潰せる雑談相手。正直、誰だってよかった人選。

 すると、これは烏滸がましいことこの上ないのかもしれないけれども、胸の奥がズキンと痛むのだ。

 ……これじゃあ、まるで、僕が一人で舞い上がっていたみたいじゃないか。

「こっち、こっちー。こっちにレジがあるよー!!」

「……はーい。……今行くよ」

 ……はぁ。良くないぞ、僕。

 きっと、僕の陥っている感情ってのは幻滅ってのや、失望ってのや、はたまたワガママってもんだ。自分本位でものを考えすぎた挙句、また他人を身勝手に期待した挙句、その他人を非難しようってんだ。そりゃ、見る資格さえない夢物語を真に受けて滑稽な物思いに耽った僕の自爆でしかない。

 だからせめて、爆発の被害は他人に負わすべきではないのだ。

 それくらいは、僕の矜持を持って完遂させなければならない。

「よーし、後はお会計だけやねー」

「……そうやね。後はそんだけ」

 見てみろ、これが現実ってもんだ。

 そして、現実は大抵こんなもんだ。

「……あぁ、そう言えば、手提げ袋あるんやけど使う?」

「えっ、めっちゃ用意ええやん。なんでこんな持ってるん?」

「……なんでやろ。……なんか、鞄に入っていたから、、、」

 自分自身、全く要領を得た説明ができていないのがわかる。今朝方、登校するのであれば、と岸辺さんが用意してくれていたスクール鞄を碌に確かめもせずに持ってきたのだが、あの人は預言者かなんかだったりするのだろうか。いや、実際は移動教室の為とかだろうがあまりに用意が良すぎる。

 頭がいいと先見の明ってのが利くのだろう。そういうことにしておこう。

 さもなければ霊体化している彼女を、いよいよ人間として見れなくなる。

「…………あー、うん。納得。納得」

「……ほんまに納得してくれてる?」

「いや、全然。でも、偶然でも、ありがとって感じ」

 手を合わせ、拝むポーズをする久遠さん。案の定毛ほども納得してもらえてはいないが、僕も岸辺さんのスゴ技を納得しきれていない分、特に話題を掘り下げようってしないでくれると大変に助かる。それこそ、ありがとうって感じだ。ありがとうって感じって語彙がよくわからないが、それだ。

 だが、いつか、本来の幽体化した岸辺さんから助言を頂いた、なんて。

 そんなことを、彼女の前で言ったりできる日が来るのだろうか。

 ……話せばわかってもらえる。

 ……一緒になって、考えてくれる。

 ……本当の『僕』を認めてくれる。

 よせばいいのに、夢のような、幻想のような、そんな未来を希ってしまう。


――――――――――――

 

「よーし、よーし。お買い物終了!!」

「……お疲れ様でした。レジ、ありがと」

 そうこう思案しているうちに、久遠さんはお会計を済ませてしまっていた。領収証を財布に入れる久遠さんを横目に、僕はちゃっちゃと手提げ袋に品物を詰め込んでしまう。重たくなっていく手提げ袋と同じく、胸や足が鉛のような重量になっていくように思えた。

 さて、これで後は下校のみ。さっさと他のクラスメイトの手伝いに取り掛かろう。

「……じゃ、用事も済ませたことやし。今度は待ち合わせとかせずに帰ろっか」

 これからは忙しくなるだろう。なんせ、僕はこれまでまるで三年一組の出し物への貢献をしていないのだから。ひたすらに負い目ばかりが積もるばかりなのだ。これはそもそもを辿れば僕ではなく岸辺さんが負うべき良心の呵責であるはずなのだが、そこはまぁ、それでいい。

「……帰ったら、まずは何を手伝うべきやろか。よくわからんけど、多分色々と――――――」

――――――くいっ、と。袖を引かれる。

 ……使い潰されてやろうって覚悟ぐらいはしてやろうと、そう意気込むつもりだったのだが、しかし、おもむろに袖元にしっかりとした抵抗感を覚え反射的に振り返る。久遠さんだった。それはもう怪訝そうで、心底不思議なものを見るような眼をしていていた。

「……なんですか、久遠さん?」

「いやいや、織葉こそ。なにゆーてんねん」

 堪えられずに尋ねてみたのだが、やはりというべきか、話が噛み合わない。なにって、これからさっさと学校に戻って、買い足した品物をクラスに配らないとアカンのとちゃいますの。何か変なことでも言っているのだろうか、僕。記憶喪失故に微妙な世俗とのズレが怖いところだが、、、

「……なんか、他に買い忘れとかあったりしたっけ?」

 とりあえず意図が読めない。だから顔色を窺いつつ話を進める。

 それに対し、久遠さんは初めこそポカンとした表情を浮かべており、まるで思考がまとまっていないようであったのだが。しかし徐々に曇り模様に変貌したかと思えば、次第にムッとした表情になっていく。そんで終いには「ばーかっ」と、唐突に僕の罵る暴言を吐き捨てるのだ。

 なにがなんだかの僕であったが、お構い無しに眉を逆立て僕に詰め寄る久遠さん。

「……織葉はさ、私達がここに何をしに来たんか、まさか忘れたん?」

「……え、買い出しちゃうの?」

「ばーーーーーかっ!!」

 もう知らない!!っと、そう言いたげに頬を膨らませ、久遠さんはそっぽを向いてしまった。

 やはり不正解だったらしい。ばか、ばか、ばか、と久遠さんの罵倒は止まらず続く。

「……ほんまに忘れてもうたん?」

「……え、……いや、、、」

 逡巡する僕に、ジーッと眇める目線で見つめる久遠さん。

 だけれども一向にピンと来る気配すらしない僕の姿に呆れ返った様子で「……ばか」と呟く。さっきまでとは異なり、それは力無く、寂しそうに、肉垂らしそうであった。「……ばか、……ばか、……ばか、」と、その後も呪詛のように僕の罵倒を連ねる久遠さん。

「……しようって、……ゆーたやん」

「…………え?」

 

「『デート』しようって、ゆーたやんっ!!」


 そんな、いつまでも愚鈍な態度を取る僕にいよいよ憤慨する久遠さん。

 溜まり兼ねた鬱憤はさながら烈火の如く真っ赤っかな顔色によく現れており、久遠さんはずしずしと勢いそのまま僕に詰め寄ってくる。詰め寄られて、壁際に追い込まれて、彼女の透き通るような瞳の奥が見えて、ようやくながら僕は彼女の『真意』のようななものがわかった気がするのだ。

 ……なんてことない。彼女は、本気だったのだ。

 ……本気で、『デート』したいと、そう思っての行動だったのだ。

 瞬間、淡い夢がドロドロに溶かされるような、『事実』が見えた。

「……はー。忘れられるとか、なんか、いやーな気分」

「……忘れていたとかじゃなくって。その、さ、、、」

「じゃあ、何さ、……ばーか、」

 不貞腐れるように、ジッとした眼光で僕を睨む久遠さん。下手な言い訳を並び立てようものなら、もう二度と口を利いてもらえないかもしれない。だけれども、僕は適した語彙なんてもんは見つかりそうもない。と言うより、白状すれば、それどころではなかったのだ。

 ……まるで、冴えた悪夢のような現実が見えているような気がしたのだ。

「……その、茶化されているんやろなって、思って、、、」

「……織葉にとってさ、私って、そんなに信用ないかな?」

「……そうやなくって、……そうじゃ、なくってっ」

 もがきたくない。見たくない。見たくない。見たくない。だが、苦しいが、それでも僕は逃げ出す勇気さえもなかった。それは思わずチープと叫びたくなるほど安っぽい感情で、こんな異常事態の見本市のような僕でなくとも、誰にでも降りかかるような厄災的な現象であったのだ。

 これは、そんなどこにだってある、馬鹿みたいに苦しい現実。

 どうしようもない一つの『事実』ってのが、そこにあった。

 

 なんてことない。彼女が本気でデートに誘った相手は、僕じゃなかったってことだ。

 本当に当然だった。彼女は僕なんて見ちゃいない。岸辺織葉しか見ちゃいないのだ。


 彼女の眼には、瞳の奥には、僕なんか写っちゃいなかったのだ。

 それをなんというのか、それぐらいは知っている。それは、『失恋』ってやつかもしれない。恋なんて高尚なもんした覚えがないが、頭がすっと回らなく程度には動揺し苦しんでいる。胸を掻き毟ろうとも手に入らないそれを、僕はいつの間にか望んでしまっていたらしい。

 ……だから、とっくの前に気づいておくべきだったのだ。

 彼女の、久遠詩織の恋する人は僕じゃないってことぐらい。

「……私だって、織葉相手に軽々しく、デートしよ、やなんて言わんし」

 俯きながら、頬を赤らめながら、吐き出すように愚痴を溢す久遠さん。

「……ごめん、なさい」

「……なにが?……どうせ、取り敢えず謝っておこうってだけやろ??」

 本来、ごめん、ってのは許しを乞う言葉だ。だったら僕は、いったい、なにを許し乞うのだろうか。彼女に、なにを、わかって欲しいのだろう。口にした途端にアテにならなくなる言葉なんてもんで、それでも僕はなにを伝えたいのだろう。

 たぶん、それは『罪悪感』だったりするのかもしれない。

 今更ながらの、自己満足でしかない。

 ひたすら自分本位の謝罪の弁である。

 だが、しかし、久遠詩織の待ち人は岸辺織葉だ。僕ではない。

「……違うくて。…………あの、さっ」

 ……僕が勝手に傷つくことは構わない。それは、仕方のないことなのだ。

 だが、だからと言って、久遠さんを裏切るって道理まで許容はできない。


「……信じてもらえないかもしれんけど、『僕』はっ――――――」


 刹那、喉が干上がるような乾きを覚えた。強烈な乾き。そのまま詰まった言葉は続きを述べることもできず、ゴホッゴホっと、咳き込むばかりであった。……なんとも間の悪い。むせ返る僕の様子を間近で見ていた久遠さんは動揺した表情で背中を柔らかい手でさすってくれる。

「……大丈夫??」

「……ごめん」

「……私の方こそ、ごめん。……なんか、一人で盛り上がってもーて」

 ……なんで、なぜ、謝るのだ。君が、僕に。

 それは、それは逆じゃないのか。謝っちゃダメなのではないのか。君はなにも知らないし、なにも悪くないのだから。だったら、君は謝っちゃダメだろう。謝るのは僕で、君の『真意』に答えてやれない僕で、君の待ち人でもない僕なのだから。

「……違う。違うんや。……そうじゃなくって、」

 ……そうじゃない。だったら、僕はどうしたいのだ。

 ……僕は岸辺織葉ではない、と名乗り出したいのか。

 ……そこで謝って、気が晴れりゃ、それでいいのか。

 ……いや、そんなもの、ただの僕のエゴじゃないか。

 僕が久遠詩織の待ち人ではないと告白することに、僕の謝罪の弁ってのに、何の意義があるのだ。それは僕のちっぽけな罪悪感からの解放だけなのではないのか。そんなものを聞いて、僕は久遠詩織に何を望むのだ。彼女に不安がって欲しいのか。納得して欲しいのか。認めて欲しいのか。

 ……なんだ、それ。それこそ、僕の裏切り以外のなんだってんだ。

「……どうしたん、織葉??」

 言葉を詰まらせている僕を気遣う久遠さん。

 いいや、きっとそれは僕への心配じゃない。

「……あの、さ。……久遠さん」

 …………ダメだ。

 …………ダメだ。

 …………ダメだ。

 …………これは、ダメだ。これは、いま答えようとしている結論は、僕にとって都合がいいだけの方便だ。これは僕にとっての今までの生き様の否定だ。これは僕にとっての自我の自殺だ。……刹那的で、真実を知らないってだけの幸せな虚実を作り出すために、やっていいことじゃない。

 ……でも、そうじゃないと久遠さんが悲しんでしまうじゃないか。

 ……だったら、仕方がないじゃないか。

 ……だから、もう、それでも、いいや。

「……ね、久遠さん。ご飯でも食べに行かへん?」

「……え、なんで急に。……どうしたん?」

「……『私』、お腹減ったんや。何処でもええし、ご飯、食べに行こっか」


 だから、僕は、『僕』を殺す。

 僕の心ごと、岸辺織葉になる。

 そうすれば、僕が『岸辺織葉』になれば、彼女が傷つくことなんてないから。


 僕の内心がどうあれ、僕の自我がどうあれ、彼女にとっての僕は岸辺織葉である。そして世界に岸辺織葉はただ一人である。だったら、こういった結末以外に選べないじゃないか。それでも、いいじゃないか。争って、強がって、苦しんで、発露する僕の自我ってのにそこまでの価値があるのか。

 そんなものを選ぶぐらいであれば、僕は目先の久遠さんの笑顔を守りたい。

 ……それは、そんなにダメなことなのだろうか。

 それは、取り返しのつかない後悔になるのだろうか。

「……え、……ええ??」

 おもむろに僕が誘ったものだから困惑を隠せない久遠さん。そんな彼女の手を、そっと僕が掴んだ。包んでやれるってほど手の平が大きくなかったもので格好はつかなかったが、僕は岸辺織葉であって、岸辺織葉の等身大を表したいのであれば、それぐらいが丁度良かったのかもしれない。

「……ほら、行こ?……『デート』、するんやろ??」

 そう言いながら僕は彼女の手を引いた。思いの外、彼女はずっと軽かった。

 軽く、柔らかく、それでいて脈打つ暖かさに、情けないぐらい辛くなった。

 そうだ、彼女は、普通の女の子なのだ。

 天使でも、さもなければ女神でもない。

「……え、えへへ。じゃあ、私がご馳走しちゃおっかなー??」

 ただただ、何処にでもいる、僕とは赤の他人の女の子なのだ。

「……奢られてばっかやな、『私』」

「もー、全然ええし!むしろ私がしたいんやし!!」 

 そしていつしか、僕は手を引く側から引かれる側へと変わっていく。


 ゆっくりと僕が砕けていく。

 ゆっくりと僕は死んでいく。

 それを甘受する今の僕は、いったい何処の誰だったりするのだろうか。

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