第16話 七月二十一日、午後一時三十三分。

 ちくしょう、暑い。暑い。七月の暑さじゃねぇ。

 ほれみたことか、蝉畜生もこの暑さに半狂乱で騒ぎまくっているではないか。塩梅ってもんを知らないからこうなるのだ。暑いか、寒いか、その二択。四季はどうした、日本の誇る四季折々は。どうせ冬が来れば雪の凍る寒さなんだろうが。

「……あはは。お空が青い事に憎しみが溢れそう」

「え、なんか言った?……にしても、あっついね」

 明日、明後日は雨でもいいかも、となおも涼し気に見える久遠さん。

 本当に暑がっているのだろうか。くっつけば冷え冷えとしてそうな。

 しかし、しっかり汗ばんだ彼女のセーラー服は妙に色っぽい訳で。

「……でー、うち、食べにくるでしょ??」

「……え、ホンマにええん?」

「もちろん!!どうせ一人で寂しく食べる予定やったし、織葉がいてくれたらご飯が倍は美味しくなりそうやから嬉しい」なぁーって。……あー、けどー、織葉が自分の財布で食べる分には止めないけどー?」

 ……と、意地の悪い笑みを浮かべる久遠さん。

「……蝉でも揚げれば食えるかもやし、それでも」

「なんでそこで強情やねん!もー、一緒に食べようやー!」

「……そこまで仰られるなら、ご相伴に預かる事も吝かやないな」

「……もー、意地悪なんやからー。……じゃ、決定って事で!!」


――――――――――――


「よーし、到着やー!!」

 西大津高等学校から徒歩圏内、十分程度の距離の立地。

 例のボロ屋から通学路子そ逸れるが十分近所の一軒家。

「ほーい、遠慮せずにお邪魔してくだされー」

「……なら、お言葉に甘えて。お邪魔します」

 ご在宅なら親御さんへ挨拶をしておきたかったが、どうやら不在らしい。

 他人の家屋の匂い。語弊を恐れずに言えば、意外なほどに平均的な住まいだった。ガーデニング趣味の方がいるのだろう、庭先には一面カラフルな花々が咲き誇っているぐらいが唯一の特徴と言えそうだ。勝手な妄想をのたまえば、城か、それでなくともシャンデリアぶら下がる豪奢な豪邸を想像していた。改めて思えば本当に勝手な妄想だった訳だが。

「ふふふ。……邪魔するんやったら帰ってー」

 ニッコニコな笑みで、巷で噂の例のツッコミを待つ久遠さん。

 特に面白くならなさそうだったので無視して靴を脱ぎ揃える。

「……この関西人の名折れめぇ!!」

「……関西人ならおもろい事言えや」

 そもそも滋賀県民は正確に言えば関西人扱いなのだろうか。そもそも関西人とはなんだ。『関』とはなんだ。何処か知らんが、関の西が関西なわけだで。関の西なわけで。関の西なら九州や沖縄までも関西になる理屈になるのではないか。だから滋賀県が関西で、滋賀県民が関西人かどうかってのは些細でかつ狭量的な視野であって、これ以上詮索すると近畿内における滋賀と三重がハブられそうだからやめておこう。

 不思議なことに玄関から通路で迷う事はなかった。

 案内される事もなく、無事にリビングへ到着する。

「…………?」

「織葉ちゃんはー、なーにが食べたいのかなー?」

 ……ッと、徐に背中にのしかかった柔らかい感触。

 思ってもいなかった奇襲に「……ひっ」と変な声が出かける。久遠さんだった。無邪気にも後ろからガバッと抱き着くや否や、耳元で優しく囁くように「お寿司?あ、ピザ?」と僕に問いかけてくる。

「…………な、なんでも、いいよ?」

 まったく。まったく。マジで心臓さんに悪過ぎる。

「何でもが一番困るんよー。ほら、こっから選んで!」

「……カタログって。わざわざ出前なんて取らんでも」

 とはいえ僕のお料理技術は保証しかねるのだが。なにぶん、記憶喪失なもんだから。知識の闇鍋だぜ。ご馳走と聞いていたものだから、僕はてっきり久遠さんのお手製料理を期待していたのだが、流石に値段が付くものを並べられると気が引ける。

「別にええんやで?出前持って来て貰う間、織葉を独り占めするし」

 にっしっし、と弓形に口角を上げ、わざと悪ぶって笑う久遠さん。

 いやはや。いやはや。僕でよければ生涯独り占めされるってのも全く吝かではないのだけれども。

「……なんか、悪い事させている気分や。……ずっと甘えっぱなしやし」

「こーら。塩っぽいの禁止やってー。私がええって言ってるんやしええやん」

 可愛くないぞー。慇懃無礼だー。と、次から次へと囃し立てる久遠さん。

 ……そうだな、礼も過ぎればナントヤラ。もっとも、施しを受け過ぎている感は否めないが。

 ……それに、僕としても是非、久遠さんとはお話がしたい。情報収集を含めたお話し合いを。

「……じゃあ、ピザで。…………この、マルゲリータってやつがいい」

「はーい。ピザ一丁、マルゲリータ、入りましったー!!」

 マルゲリータ、入っちゃいました。どうでもいいがピザの数読みはおそらく『丁』ではないのだろう。出前の電話先のあんちゃんにまでそんな調子で言ってしまわない事を切に願うが、電話口の様子を見るに杞憂で済んだらしく、サムズアップする久遠さん曰く配達は直に来るそうだ。

 であれば、であれば、出前までの間には少々の暇が生じ得よう。

 その間、特段生産性のありそうもない談話でも洒落込めそうだ。

 昨今もっぱら主流な薄型テレビ前のソファにて、二人、ギュッと詰めて腰掛ける。

「……あのー、久遠さん?…………いや、近くない?」

 これは危うい距離ではなかろうか。肩が、腰が、僕に密着してしまっている距離。

 首をほんの少しでも捻ろうものなら久遠さんの顔が、紅い唇が、文字通りめと鼻の先にある距離。

「……んー、そうかなー?こんなもんちゃうかなー?」

 なるほど、こんなもんなのか。なるほど。世俗に疎いと申しますか、世俗の記憶が記憶喪失故に信用ならない訳ですけれども、今ばかりは世俗の常識とやらに深い謝意を述べたい気分であります。ありがとう。ありがとう。ありがとう。

 これが噂の『エモい』って奴なのだろうか。

 これ『エロい』の親戚だったりするのだろうか。

 ……い、いかん。このままではムフフな妄想で理性がエクスプロージョンで爆発四散しそうである。

「……そ、そーいえばー、文化祭、あるんやってねー??」

 裏返りそうな声音で本来の目的である情報収集を試みる。

「あー、あったねー。明後日やっけ?」

「……そんなもんなん?文化祭やで?」

「そんなもんやろー。……あー、そういえば、織葉は知らんのか。文化祭で何をするとか」

 コホンっと咳払いもどきを一つわざとらしく立て、その後ニンマリと笑みを零す久遠さん。

「では、では、では、一週間お休みだった織葉ちゃんに詩織先生がご教示致しましょう。今年の文化祭は明後日からの二日間開催やねんけど、我がクラスの出し物は『占いの館』やな。……占ってやるぞー!!」

「……はえー、占いねぇ。タロットとか、ダウジングとか?」

 寡聞にして存じ上げないのだが、『占い』と言うとカードやら金属の延べ棒なんかを用いて「貴様の恋心を丸裸にひん剥いてやるぜ、ウヘヘ」的な解釈で問題ないだろうか。それは、言い当てられる方も災難と言うか、何と言うか。楽しいのだろうか、それ。

「……うーん、やっぱー、興味ない?」

「……え、いや。正直、実感が湧かないなーっと」

 率直なところを言えば、文化祭は『祭』な訳だが、今さっき小耳に挟んだ程度の情報のせいか、はたまたあの担当教諭のインパクトが遮っているのか、気分が乗らない。まるで人の家のカレンダーの丸印をボーッと覗き見してしまっているようだ。何処となし、他人事と言うか。

 そもそも雰囲気を楽しむ催しだろうが、『今』を思えば、それどころでないのが事実だ。

 ともあれ、気が晴れれば儲けもんだろう。

 純粋に楽しめるかどうかは別として、明後日まで待とう。

「そういや、明後日の天気予報やと雨らしいでー?」

 最近暑かったからねー、と手うちわの仕草をする久遠さん。

「……あらら。間の悪い。どのみち室内が主やろけど」

「織葉的には文化祭の日は晴れて欲しかったりする?」

「……いやー、ここまでの猛暑だと雨の方がありかも」

「そっかー。まー、ともかく、大学受験の手前、あんまり乗り気じゃないって子も多いみたいやし。私も織葉次第ってスタンスやから、別に出席も欠席も考えてないかなー、みたいな。…………織葉は?どう?参加してみたい感じ?」

「……適当やなぁ。そもそも、学校行事に不参加の自由意志はまかり通るもんなん?」

「えー、まじめー。私はテキトーに考えているから、思う存分サボる気やねんけど?」

 ……なるほど。文化祭なんてもんは彼女の言葉通り、『そんなもん』な行事らしい。


――――――――――――


 会話も一段落付き、久遠さんは横でグーッと背筋を伸ばしている。

「…………んーっ」

「……出前、まだかな?」

 いい加減にしてくれないと腹の虫が小洒落たソングをシングしてしまいそうだ。

 この小さな身体は、その小ささに反比例してエネルギー消費が激しいのだろう。今なお腹が減って仕方がない。勤勉ロリッ子高校三年生、まさかの腹ペコ属性持ちとか、そこいらのアニメキャラよりずっとキャラ立ちしていそうな萌え萌えキャラなのだけれども。やめてほしい。是非とも。

「…………」

 これは誰の沈黙だったのだろう。

 通常だと授業をしている時間に学業をサボっているだけあって住宅街には非日常的のような日常的な閑静さが漂っている。人間の生活サイクル上、まだまだ活発な時間だってのに、人間の音がしない。とても妙な気分になる。

 キッチンの蛇口から滴る水飛沫も、僕の空腹音も、赤裸々な静謐。

 だからこそ、ボスんっと。

 僕の膝に久遠さんが頭を載っけた音もよく聞き取れた。

「…………」

「……え、あ。……く、久遠さん?」

 俗に言う『膝枕』状態。素っ頓狂な声を上げる僕に対し、久遠さんは依然無反応。

 無反応のまま、僕の膝を妄りに占拠する久遠さん。苦悩と葛藤と煩悶、それぞれの苦行をやっとの思いで耐え凌ぐこと約一分とちょっと、今にもプツリと途切れてしまいそうな小さな声音で、久遠さんは僕の顔なんて見ずにボソッと呟く。


「…………お願い。もう、私を一人にしないで」

  

 この声が、声の主が、あの爛漫な印象でしか構成されていない久遠さんの声だとは、脳が認識するまでに異様に時間を要した。寂しげで、甘えっぽくて、ちょっと恨めしそうな声。僕の解釈するところの久遠詩織ではない、他の誰かの声音のようだった。

 その告白に、僕は口を紡ぐ他になかった。

 悩めども適切な言葉は検討つかなかった。

「…………」

「……え、あー」

 僕の下腹部に顔を埋めたままの久遠さん。

 一向に動こうともしない彼女の姿は、さながら幼い子供が親に拗ねているようで。よれた制服の裾を執拗に指に絡ませ、掴み、何か大事な事をジッと待っているようで。ともすれば、彼女は、久遠詩織は、『僕』の返事を待っているような気もして。

「…………あ、あの。えっと」

 舌先まで出掛かって言葉はいくつかあった。

 されども、その全てがどうしようもなく嘘っぽく、初雪の積雪を無造作に踏み躙るような蛮行のように思えるばかりの胸焼けしそうな言葉ばかりであった。何が悪いのか。僕の頭が悪いのか。禄な言葉が出る気配さえも無かった。

 その沈没しそうな言葉で、一体、何を成せようか。

 しかし、彼女は『岸辺織葉』の言葉を待っているのだ。

 さりとて、僕は『岸辺織葉』を知らない。言葉も無い。

「……そのさ、君に満足して貰えるか微妙な返事になるんやけどさ」

 ただ、烏滸がましくも、僕がこれに答えるのであれば。

「…………」

「……善処、させてもらえればな、って思っているかな」

 きっと満足のいくものではなかっただろう。だが、これが僕の、僕としての所信表明だ。僕は『岸辺織葉』を知らない。『岸辺織葉』の言葉を知らない。久遠詩織の切望する『岸辺織葉』など、わかるはずもない。だから僕は、僕のなし得る限りの言葉でこれに答えようと思う。

 おそらくきっと、僕は僕以外の何者でもないのだから。

 僕の言葉で僕を語ろうとも、バチは当たらないだろう。

「…………」

「……あの、久遠さん?」

 あらあら、これは困った。当人の久遠さんは怒るでも呆れるでもなく微動だにされやしない。むしろなんだったら埋めた顔をさらにグリグリと押し込もうとする始末である。僕としたことが、言葉選びをミスってしまったかもしれない。

――――――ピンポーン。

――――――宅配でーす。

 そうこうと一進一退の攻防を繰り広げいる最中、突如として反芻する呼び鈴と声。

 ようやっと出前が到着したらしい。急かすように、もう一度、チャイムが鳴った。

「……久遠さーん、ちょっとばかし離れちゃくれないかい」

「……いーやーだー」

 いや、いやだ、じゃないのだが。困っちゃうのだが。

「……もう、全然嫌だし。全然良くないし。善処だなんて政治家の言葉濁しみたいで信用なんてこれっっっぽっちも儘ならないけど。ずーっと、ずーっと、こんな風に君を捕まえていてやりたいけど、さ」

 しかし、いよいよ抵抗を諦め、僕の膝から撤退する久遠さん。

 ちょっと名残惜しいな、なんて思ったことは絶対に表情にだけは出さないよう努めた。

「…………善処のほど、よろしくお願いします」

 小声でボソボソぼやくように、彼女は、そう言った。

 結局、僕たちは暫く目を合わせる事もできなかった。

 記憶も朧げだ。出前で頼んだピザの味も、マルゲリータがマルゲリータである所以も、あんまり覚えちゃいなかった。ただ、もうちょっと歯切れのいい言葉は出なかったものなのか、僕は終始そんなことばかりで頭が一杯だった。

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