第12話 七月二十一日、午前八時三十二分。

「…………織葉、やんな?」

 綺麗な人は、関西弁口調で僕の事を『織葉』と呼んだ。

 彼女の凜とした双眸の奥に『僕』が映ったような気がした。ふと、そんなことにさえも感動を覚えそうになってしまいそうな、それほどまでに綺麗な人であった。お陰で返しの言葉も朧げな、霞がかった返答しかできずに、

「あ、あー。たぶん」、と。

 …………しまった。ついつい、言葉を濁してしまった。

 目覚めてから此の方、僕の感情の起伏は然ながら山を越え、谷を抜け、砂漠を駆け巡らんばかりの勢いであった。あったのだが、しかし。もしかすれば今が一番の峠なのではないか、とさえ思えてしまう。率直に言ってしまえば、僕はアガッてしまっているらしい。

「……あ、あの。…………何か?」

 絞り出した理性のかけらで、僕は綺麗な人に問いかける。

 どうやら相応テンパっているのだろうが、何か面白いジョークでも披露すべきなのだろうか、なんてしょうもない浅知恵を回そうとしているあたり本当に相当らしい。俗に言うところの、僕は血迷っている、らしいのだ。

「…………」

「……あー、えっと?」

 しかし、綺麗な人は閉口したまま、射抜くような眼差しで僕を見つめるだけで。

 何か、何か、いらんことでもシデかしただろうか。

「……え、えっと――――――」

 右頬をシバかれるまでは耐え抜いてやろう。

 左頬をぶん殴られるようなら直帰してやろう。

 どう話を切り出せばいいのやら。どう話を広げてやればいいのやら。相手を不快にさせず、相手に悪く思われず、相手の好きな話題を提供してやれるのだろう。きっとそれは試練の技で、気の置けない仲の人間相手にやっとできる行為で、そんな不可能を僕は、僕は――――――

 そんな、価値のない苦心を繰り広げている最中の、

 ほんのまばたき一回分にも満たない刹那の出来事。

「――――――――――――え?」

 互いの距離がグンっと、縮まった。

 下手な比喩表現などではなく、

 甘い香りが鼻腔に付く程度の、

 それほどに近い物理的距離の話だ。


 すなわち、僕は、この綺麗な人に抱き寄せられたらしい。


「…………良かった」

「…………え?」

 ……何が、良かった、なのだろう。

 ……んん、これ、何起こってんだ。

 現状を正しく正確に文章化するに、『教室のど真ん中で綺麗なあの子に突然ハグされちゃいました(はーと)』なのだけれども、そんなもん全国のお兄様ご愛読の薄い本的な幻想の出来事であって、空想の出来事であって、妄想の出来事のはずなのだけれども。

 控えめに言って、大事件である。

「…………あ、あのぉ?」

 …………返事はない。どうやら、僕の胸に顔を埋めていらっしゃるようだ。

 ど、どないしよう。責任とか取るべきだろうか。結婚とか、養育費用とか、家のローンとか。

 無責任な大人にはなりたくない僕ではあるけれど、ちょっと早すぎるというか、友達から始めるべきというか。

「…………織葉。……今まで、どないしとったんや?」

「…………え?」

「ここ一週間、ずっと何処で何しとったんやって聞いてるんや……っ!!」

 怒号が、力強い剣幕が、されども綺麗な眼が、僕の目線と交わった。

「ずっと、ずっと、心配しとったんやからな……っ!!…………ホンマにっ、心配で」

 消え入りそうな声音、それにポツリと罪悪感が芽生える。

 記憶喪失以前、彼女は一体何をされたと言うのだろうか。『岸辺織葉』は一体、何をしたと言うのだろうか。見れば彼女は涙目だ。抱き締め方も力強いものである。相当の禍根を残したに違いない。会話の内容から察するに『岸辺織葉』がここ最近、一週間程度、まるで姿を見せなかったかのような物言いではあるのだが。

 …………いや、待て。『一週間前』?

「……あ、あの、つかぬことを伺いたいんやけど」

「…………なに?」

 しゃがれた声で応答する綺麗な人。

「……僕、……じゃない、私。……私が貴方の前から失踪したのって今月の十五日付近やったりしますか?」

「……なに変なこと、聞いてんねんっ。…………ほんま、ほんまに、心配したんやからなっ」

 より一層、ギュッと、力強く抱き締められる。おうっふ、なんだか、マーベラス。

 ……いや、正気を保て、僕。たぶん修正が入らなかったってことは言質通り、約一週間前から『岸辺織葉』の動向がわからなくなっていると言うことで相違はないだろう。それは例の復習ノートの落丁の日付、確かアレに付合するのではないか。

「…………」

 ……だったら、あの落丁はただのサボりではないのか?

「……もう、織葉っ!!聞いてるん??」

 ……あぁ、やめてくだされ、やめてくだされ。僕の肩をブンブンと前後に揺らすのはやめてくだされ。

 これは暁光だ。ラッキーってやつだ。僕の知り得ない『岸辺織葉』の動向のヒントにな情報を彼女から聞くことができる。さすればこれで僕の本来の登校の目的も完遂できるってもんだ。なんだ、なんだ、こんなにもあっさりと、、、

 ……こんなにもあっさりと。

 ……どうして、僕、会話できているのだろう。

「…………あ、あ、えーっと、まだ色々と聞きたいことがあるんやけどさ――――――」

 いらぬ疑念を振り払おうとした。

 邪魔な動揺は忍び隠そうとした。

 そんな時だった。

――――――くらり、と。

 ……くらり。くらり?

 ……あれれ、おかしいぞ。

 激しい眩暈がしたかと思えば、唐突に視界がボヤけてきてやがる。

 すると同時に、身体全体から四肢の先っぽまで、力が抜けていく。

――――――ボスん。

 ……視界が、暗転する。

 僕は、柔らかい何かに包まれる。

 

 後に聞くに、僕はこの時、気を失ってしまったらしい。

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