第9話 七月二十一日、午前八時十二分。

「……あっ、しもーた。洗面所のドア、開けっぱやんけ」

 ギギギーッとドア的には不健全極まる錆の擦れる音を引きづり、玄関から廊下を見納めてやろうかと覗いたものの、それは洗面所ドアによって遮られてしまっていた。留め具が玄関側にあるもんだから気合いで閉じられそうなもんだが。

「…………まー、ええっか。時間も気力もないし。換気にもなってええやろ。たぶん」

 いや、決して面倒くさがった訳じゃない。ほ、本当なんだらね!

 …………ほら、兎にも角にも、やっとの『外』だ。娑婆の空気だ。

「……ここが大津市ってことは、あれ、琵琶湖やな」

 訳のわからない状況に陥って約一時間、なんとかはなって、今は『外』。

 玄関ドアは老朽化の煽りをド直球に受けているガタガタ仕様だが、なんとか鍵で施錠。


 眩しさに瞼が焦がされる。『外』の世界。そこに広がっていた風景は燦々たる太陽にねじ曲がるような蜃気楼、そして宝玉箱のようにキラキラ輝く琵琶湖の湖面が視界一面を埋めている。二回からともあって壮大に見え、また、愛着のようなものを感じられる風景だった。


「……琵琶湖。……なんでやろ、ただならぬ愛を感じる気がする」

 ほら、一見何の関連性も見出せない商品の名に『琵琶湖』の冠を被せたくなる衝動が。激情が。

 琵琶湖米、琵琶湖牛乳、琵琶湖〇〇事務所から琵琶湖〇〇病院まで。これはあれか、静岡県民が取り敢えずで『富士』を使いたがるのと同じ心理だろうか。あれ、山梨だっけ。富山かもしれない。ま、その辺の田舎事情はあまり存じ上げないが、琵琶湖はほら、滋賀県民固有のオアシスだから。

 だからと言って富士山関係ないのに『富士』を名乗っちゃう系日本人は琵琶湖も同列でお願いします。

「……はぁ。ふざけてないで、さっさと学校に行こっか」

 学生手帳曰く、ここからそう遠くはないらしいけれども。

 現在地、つまりココっぽい場所が赤丸で囲まれている。地図を見慣れていない現代っ子な僕にでも、これくらいの地図は余裕のよっちゃんのはずなのだが。いかんせん現在地周辺さえ覚束ないのだから不安でしかない。

「……まー、行ってみるしかないんよな」

 そう決心を固めると、ギシギシと迫力満点で軋む通路を通って、外付けの階段へ向かう。

 そこいらの幽霊屋敷よりもよっぽどスリリングだ。なんせ直接のボディアタックも普通に危惧せねばならんのだから。

 しかし、とは言っても、仮にも人の住むアパートなのだから、もしも、は流石にないだろうけど。

 ……ッと、これはフラグってやつかな。いかん、いかん。よからぬ事が起こる前にさっさと登校しないと――――――。

――――――ボヤ。

「…………んっ?」

 階段に差し掛かった辺り、くらり、と立ち竦むように身体中から力が抜けそうになった。

 ブワッと全身が感覚を失いそうになる感覚。典型的な目眩の症状だろうが、場所が場所だった。

 足を踏み外しそうになる。

 ただ、ほんの寸前に、

 ギリギリのタイミングに、

 手すりを握る握力だけはなんとか取り持つことが叶い間一髪で助かった。

「…………あ、あっっっぶな!!…………はぁ、気を付けんと」

 その後はより一層、一段一段注意しながら丁寧に降りた。

 そして、そうこうあったが無事、このどうしようもなくボロいアパートから抜け出す事に成功する。


 七月二十一日、午前□時□□

 一方、おんぼろアパート二階『岸辺』の表札が掲げられる一室にて。

 静まり返る室内だった。だが不意に、パタリ、と大きく響く閉扉音。

 そしてすぐに、パリン、と破壊音。

 まだ彼は知り得ない。彼が不在の一室にて、彼の帰るこの部屋にて、また一つの異常事態が刻々と進行を始めていることを。

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