第5話 七月二十一日、午前六時四十五分。

なるほど、世にも珍しい教養を一つ得てしまった。

 世界は広しと言えども僕だけが持ちうるであろう知見を一つ披露するのであれば、『自分の身体が仮にある日、まぁまぁ可愛い女の子に女体化したって、それはあくまでも自分の身体なのだから性的興奮なんてもんは湧かない』ってのはどうだろうか。

「……そんな世紀末トレビアはさておき、これからどないしたもんかな」

 このまま暫く放心に浸る、なんて訳にもいかないだろう。

 緊急事態故に事態の重大さを把握しきれているとは言えないけれども、まだ僕自身は挫けちゃいないらしい。これをタフさと自己肯定すればいいものか、はたまた能天気だと嘲笑えばいいものなのか。わかったもんではないけれども。

 ともかく、根性でも、パワーでも、フル活用せねばならないのだ。

 さもなくば、残るのは記憶も身体も覚束ない現状のみなのだから。

「……しっかし、この女の子。垢抜け無さが目立つ割には気難しく眉間に小皺まで作ってら」

 自分に関する記憶も無ければ少女の個人情報もまるで皆無だが、完全な憶測で言えばおそらく年下。中学生、いや、小学生高学年ぐらいだろうか。しかしカワイゲがこうにも無いと家庭の事情やら学校生活の苦悶やらを勝手に推察してしまう。

「……そうや。この子の情報、もっと集めてみよっかな」

 我ながら妙案ではなかろうか。『この子』だなんて言っている手前他人行儀な言い回しのように思えたが、実際のところ記憶も身体も直感的に符合しない違和感があるのだから、他人と言い切れる距離感ぐらいがもってこいなのかもしれない。

 それに、他人と割り切った方が『この子』の人柄やら経歴やらを客観視しやすいだろう。

 デバガメ根性がぶくぶく湧き立つって訳じゃないし、秘密のポエム集とか毎晩九時以降から都度都度認めている小説とかを拝みたいって訳でもない。なんだったらクラスメイト全員分のデスノートなんて文春すっぱ抜き案件をスクープしたいって訳でもない。他人の方がやりやすいってだけだ。

 もっとも、本当に『他人』であるならば、それはオカルト小説さながらになってしまうのだが。

「……あー、でも。…………うわぁ」

 と、散策活動にイキイキでイケイケな僕だったのだが。

 どうにも、『パジャマっ子姿』ってのがイケなかった。

 いやはや幼気な少女のパジャマっ子姿が血も涙もない世間様に露見することを阻止せねばならないとの倫理的危機感もさることながら。どうにも汗がへばりついて気分が滅入ってしまいそうになるっていう利己的思考が強いものだった。

 パジャマっ子姿。萌え萌えキュンだが高度な吸水性が仇となった。

 しかし、これ幸いと洗面所の横には丁度いい塩梅のユニットバス。

 加えて、着替え一式の入った籠も確認済みだ。

「……これは、入れ、と言われているのでは?」

 妄言甚だしいが、

 脱ぎたい、

 浴びたい、

 さっぱりしたい、

 なる欲情は増長するばかりだ。浴場だけに。へへ。

 だが、胸やら股ぐらやら確認した直後に入浴とは流石にやりたい放題が過ぎる気もする。しかし、うーむ。汗ばむ季節の不衛生は病気の元ですし。自分、めっちゃ汗だくまみれですし。『この子』だなんて呼んでいるけれども実質は僕の身体だし。

「……僕の身体を洗うか洗わないか。そんな選択に僕以外の判断って要りますかね?」

 ……ってな訳だ。『他人』『この子』と割り切る作戦はひとまず休止。

 早速すっぽんぽんに。さて、いざ、風呂場へ突入じゃい――――――。

――――――そして、退室。いやぁ、いい湯加減でしたねぇ。はいっと。

 僕も鬼やら悪魔やらの類ではない。むしろ紳士たり得ようと心がけている。

 だから風呂場の鏡に映る艶かしい肉体を淫らに叙述するなどの真似はするまい。とはいえ、風呂場の鏡はずっと曇りっぱなしで僕自身ちゃんと裸体を拝見したわけではないのだから叙述のしようがないだけなのだが。

「……あー、気持ち良かった。…………お風呂、サイコー」

 ここで冷えっひえの牛乳を小指を立てながらグイッと一本飲み干せりゃ言うことないのだけれども。

 籠から適当な部屋着と下着を見繕う。さて、下の下着は必要として上の下着はこの場合必要なのか。

「……まー、購入していて手元に置いてあるんやから。察するか、うん」

 もっとも欠片程度も必要性を感じないので装着する気などさらさらないが。

 風呂上がりに風通しの悪い洗面所に居残る理由などない。

 ほっくほくな体温のまま、和室へと戻る。

「……さーて、どっから漁ってやろっかなー?」

 あらあら、まあまあ。『漁ろう』だなんて人聞きの悪い。眉間に皺を寄せるようなロリっ子のお部屋探索になにを期待しているのやら。きっと気苦労の絶えない日々を送っていたのだろう。可哀想に。きっと擦り切れそうな日々だったのだろう。

 きっとメルヘンで愉快な王子様的存在に飢えていたに違いない。

 なんならストレス発散に自作長編ラブストーリーがあるのかも。

 それの主人公が自分だったりすれば笑えるのだが。

「……お邪魔しまーす、っと」

 まず壁際にある箪笥を漁る。

「……なるほど、一段目が小物収納、二段目、三段目と服飾関連かな」

 さっきの洗面所にあった着替え一式が部屋着の類であれば、こっちは出先の衣装や冬物だったりするのだろう。袖の長い制服の生地は些か厚く、酷暑の際立つ今時期に着用しようものなら熱中症で卒倒ものだ。ひとまず着用の用事はないだろう。

「……うーん、それにしても『制服』やねんよな、これ」

 折り畳まれていた冬物の『制服』を引っ張り出し、そのまま広げてみる。

 断じて女の子の制服にのっぴきならない興味関心がった訳じゃない。いや、嘘である。興味津々から津々を抜いた程度には興味の唆られる代物ではある。しかし、貧相な語彙では落とせない感情がどうにも渦巻くのだ。

「…………お、あった、あった。『校章』だ」

 胸元に『校章』のワッペン。無難な印象が第一にくる校章のデザインではあるのだが、やはり妙だ。

 もし仮に僕が記憶喪失前に全国津々浦々の学舎という学舎の校章を教養として蓄えている変態であれば話は幾分か早かったのだが、何せ無難一辺倒な校章のデザインだ。ど変態である可能性が万が一にでもあれども、これはとびっきり難問なんじゃなかろうか。

 つまるところ、校章一つで学校名までの特定なんて出来るはずがなく。

 しかしながら、どうしようもなく心が騒ついて抑えられないのである。

「……にしても、なるほどね。セーラー服ね。…………ほうほう?」

 なかなかに愛らしいデザインではないか。白を基調としたシンプルさと、黒寄りの藍色をベースとした直角襟。

 もし仮に僕が記憶喪失前に全国津々浦々の学舎という学舎のセーラー服を皺の一本まで網羅している変態ならば一目置いていたのではなかろうか。僕は変態とは縁遠いために知らないけれども、この制服デザインならば校章を無難に逃げ切る気持ちはわからんでもない。

「……んー、でもなんやろ。…………見覚えがある、気、が?」

 無難な校章、そして可愛らしいデザインのセーラー服。

 あながち僕は変態だった可能性は濃いのかもしれない。

「…………西大津高等学校?」

 …………あ、そうだ。西大津高等学校だ。

 何故、この高校名を口にしたのか。何故、この高校名に聞き覚えがあるのか。自分の名前や住所さえ判然としないのだ。『西大津高等学校』なる学校名など知る由もない。だが、僕の場合の記憶喪失は自己に関する情報の障害だ。言葉や一般常識なんかの知識は問題ない。

 だったら何故、『西大津高等学校』の知識が欠落するなんて事があるのだろうか。

「……もうちょっと、確認してみるかな」

 箪笥の一段目、小物入れを漁ってみる。

 小物や書類、貴重品なんかが所狭しと、しかしちゃんと整理整頓され収納されている。余程の几帳面な性格の持ち主なのだろう、具合を知らない僕でさえ目的物を探り出すのに然程の時間も要しなかった。

「……お、あった、あった。『財布』だ」

 ……んー、しかし目論見は外れそうだ。

 個人情報の宝庫ではなかろうかと踏んでいたのだけれども、野口が数枚、あとは硬貨が数枚。カード類も目ぼしい物はないように思う。これはハズレだろうか。学生身分のガマ袋としての内容物としては妥当なのだろうが、情報的にも金銭的にも、こりゃハズレだ。

「……しっかーし、お次の『生徒手帳』はどうだろうか」

 例の如く、無難一辺倒な生徒手帳を開く。


『西大津高等学校三年一組 岸辺織葉』


 ようやく判明したこの子の名前、『岸辺織葉』というらしい。

 そして在籍校は『西大津高等学校』。ビンゴだな。僕はものの見事に校章と制服のみで彼女の個人情報の一つである高校名を言い当てられていたらしい。あまり人前で誇れるような奇跡でないのが惜しいところだ。

「……マジメな話、どうして正解を言い当てられたんやろ」

 例の変態の可能性も正直否定しきれていないが、可能性としては薄いと見ていい。

 もっと濃い可能性。

 より相応な可能性。

「……僕自身、西大津高等学校に『ゆかり』があった、とか」

 だから僕の情報のついでと言わんばかりに僕に縁のあった『西大津高等学校』の事を忘れていた、とか。基礎的な情報は忘却していないのだから、忘却した訳を精査すれば自ずとそんな結論に至るのではないか。きっと、そのくらい単純に考えたっていいはずなのだろう、が

 いや、しかし、どうにも、どうにも、しっくりとこないのだ。

 十中八九の可能性、『僕』が『岸辺織葉』である可能性を受け入れられないのだ。

「……いやー、でも学校名は思い出せたしなー。自分の名前はわからんままやけど」

 ……ホンマに、なんでやねん。

 しかも制服と校章で高校名を言い当てる荒技ときた。

「……あれ、っていうか。…………高校生??」

 流石に見間違えだろう。高校生な訳がない。中学生、なんだったら小学生でもまかり通る。

 急ぎ生徒手帳を確認すると、文言は変わりなく『西大津高等学校』『三年生』。つまり、あれだ、彼女は来年、新卒生か大学生となるらしいのだ。

「……うっそやろ。…………背伸びしたって中学生の背丈のちんちくりんやないか」

 不肖、私、喫驚を禁じ得ません。

 えらく世間擦れした小学生高学年もいたもんだなぁ、とばかり。

「…………いやぁ、えぇ、もうこれ、詐欺とかに使えるレベルやんけ」


 脱線はしたものの、いくつかの重要な情報は得られた。

 曰く、この子の名は『岸辺織葉』であり、『西大津高等学校』の『三年生』、きっとセーラー服の似合うちびっ子だ。僕との関連性はおおよそ決まっているようなものだろうが、なんとなくの理由で保留とする。


 やはり、僕は『岸辺織葉』ではない気がするのだ。

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