第11話 浮上

 電車に揺られ、私は渋谷に向かう。車内は誰かの日焼け止めの匂いがしている。電車を降りると、息を詰まらせる湿った空気と、街中を焼き尽くすような太陽が、私を襲った。思わず顔をしかめる。

 夏は昔から嫌いだ。黒い服は熱を集めるため、余計に暑くなってしまうし、夏に長袖など正気の沙汰ではない。それでも、薄い色の服を着て下着が汗で透けるのにはとても耐えられないし、細い手足も誰にも見られたくなかった。

 暑さで倒れそうだ。夕方なのにこれほどの暑さとは、天候のコントロール機関が、壊れてしまっているんじゃないだろうか。東京に来てから三度目の夏だが、こんなに暑い夏は初めてかもしれない。心なしか眩暈がするのは、緊張からか、それとも地元を思い起こしてしまうからか。

 今日は、渋谷のカフェでちょっとした打ち合わせをする予定だった。ユーチューブで見かけた歌い手、ナナミさん。私の理想の声の持ち主だった。赤坂凛のデビュー曲、「悪」を歌っている動画が、おすすめに出てきたのだ。何気なく開き、引き込まれた。薄暗い部屋の中、シルエットと歌詞が浮かび上がる動画だ。ハスキーな声と幅広い音域。赤坂凛の声とは似ても似つかないが、曲の新しい解釈が開かれたようだった。すぐに他の動画も開き、何度もリピートしているうちに、メロディーが浮かんだ。

 これを、ナナミさんに歌ってほしい。

 すぐにギターを取り、楽譜に起こした。それから数日の逡巡を経て、ナナミさんのツイッターにダイレクトメッセージを送った。

〈はじめまして。青と申します。ユーチューブにて、作曲活動を行っております。ナナミさんの「悪」の歌ってみた動画を拝見し、是非私の曲を歌っていただきたいと感じました。以下にデモをお送りします。もし歌ってもよいと思ってくださったら、お返事を頂けますでしょうか。突然のメッセージで申し訳ございません。どうぞよろしくお願いいたします。〉

 人に仕事の依頼をすることなど、初めてだった。メッセージの送り方もあっているのかわからないし、失礼に当たる言葉があったらどうしようか、という不安もあった。ナナミさんからの返信を待つ一週間は、不安で何も手につかず、バイト中にもミスを繰り返した。

 果たして一週間後、ナナミさんは簡潔な承諾の言葉と一緒に、一つ条件を提示した。

〈私は基本的に、相手の人となりを知ってから、一緒に作品を作りたいと考えています。どこかでお会いすることは可能でしょうか。私は東京在住ですので、関東圏であればスムーズに進むと考えられます。〉

 幸い私も東京にいる。すぐに日程を調整し、今日の十六時からと決まった。どんな人なのだろう。期待と不安が入り混じる。メッセージの文体から考えるに、無駄なことや回り道は嫌いそうだ。しかし、相手を知りたがるあたり、冷たい人ではないだろう。

 カフェに入ると、冷たい空気が火照った身体を落ち着かせる。注文したアイスコーヒーを飲んでいると、寒さすら感じ始めた。

 深く呼吸する。心が不安定なときは、深呼吸。それが、この一年間で手に入れた、唯一の成果だった。

 去年の記憶はあまりない。スランプ続きで心は落ち込み続け、剣持さんとの外出も、虚しくなるだけだった。瀬名ちゃんと語り合う夜は、確かに私の心を浮かばせたが、翌朝にはすでに、心は重力に負けていた。とにかく生きなければ、とバイトにだけは行くようにしたが、音楽をやる余裕は、徐々になくなっていった。ユーチューブで音楽を聴いては、こんなにいい曲がたくさんあるのだから、私が音楽をやる必要なんてないのかもしれない、と嘆いた。

 深呼吸をすれば、ほんの一瞬、そんな気持ちを忘れられるというのは、地元で身に着けた技だった。ずっと必要がなかったが、あの頃と同じくらい狂ってしまった私の心は、きちんと対処法を覚えていたらしい。

 そんな私を救ったのが、ナナミさんの歌声だった。ナナミさんは、私にもう一度音楽をやる理由を与えてくれた。この声に合う曲を作りたいと、あの日、久しぶりに私は新しいメロディーを形にできた。

 だからこそ、緊張しているし、恐ろしく不安だ。赤坂凛に会えると言われても、ここまで緊張はしない気がする。

 カフェの扉が開き、ベルが軽快な音を立てた。はっと視線を向ける。同時に、スマホが鳴った。

〈着きました。どの辺にいますか?〉

 唾を飲み込む。

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