第6話 桜餅と冬の名残

 東京での生活は二年目に入り、強い北風も手をゆるめ始めた。冷たい鉄の匂いを含んでいた空気は甘い土の香りへと変わっていき、アパートの下に独り佇むソメイヨシノも控えめな花で自身を飾り立てた。住人の中には、その下で簡単な花見をする人もいて、通り過ぎる時に声をかけられることもしばしばだった。

 久しぶりの買い物から帰宅すると、今日もおじさんたちが酒盛りの最中だ。この人たちはどんな生活をしているのだろう。平日の昼間から安酒を飲む生活。金銭的な貧しさも心の豊かさも、親戚とは大違いだ。

「あれ、あなたもここ住んでるの?」

「そうですけど」

 通り過ぎようとすると、突然声をかけられた。少し掠れた低い声の主は、豊かな髪を風になびかせ、発泡酒を手にした女性だった。先ほどの男性たちの中に混ざって酒を飲んでいるようだ。転がっている空き缶はかなりの数だが、彼女だけは特に酔った様子はない。

「そっか、知らなかったなぁ。ねぇ、一緒にどう?」

 彼女は上目遣いで私に笑いかける。私は思わず目をそらした。この人はきっと、深く太く根を張った自信を持っている。ぴったりとした服の上からわかるグラマラスな身体は、彼女の誇りであり努力の賜物に違いなかった。

「いえ、忙しいので……」

「うーん、そっかぁ。まぁ、今日初めて会ったくらいだもんね」

 彼女があっさりと引き下がったことに、私は驚いた。こういうタイプの女性は、断られるとあからさまに機嫌を損ねるのだ。もしくは、表面上は平然としていてもしっかりと恨んでいる。少なくとも、中学校にいたいわゆる「一軍」の女子たちはそうだった。

「あ、じゃあこれだけあげるね。私、二〇三号室の瀬名。よろしく」

 瀬名と名乗った彼女が私に渡したのは、つい先ほど近所のスーパーで見かけた桜餅のパックで、部屋は隣同士だった。本当に、なぜ今まで会ったことがなかったのだろう。

「ありがとうございます。私、二〇二の峯石みねいしです」

「えっ、嘘! 隣?」

「みたいですね」

「わぁ、すごいね。運命かな?」

 瀬名さんは私に腕を絡め、私を見つめる。長い睫毛とそっけないアイシャドウの中で生き生きと輝く瞳が、私の心の鍵穴をすり抜けて入り込もうとしていた。これで酔っているのではなく、ほぼ素面らしいのだから恐ろしい。初対面でこれほど距離を詰められるのはなぜなのだろう。

「あの……そろそろ行きますね。桜餅ありがとうございます」

「ふふ、気が向いたら一緒に飲もうね」

 瀬名さんと別れ、狭苦しいワンルームの扉を開くと、孤独が吹き抜ける。桜の周りの賑わいが、薄い壁の向こうから聞こえた。

 もらった桜餅は、関西式のものだった。粒感の残る桜色の餅に、あんが包まれている。二個入りのパックからひとつを取り出し、葉の部分を持ってかぶりついた。柔らかさと弾力が、甘くてほろ苦い風味とともに春を運ぶ。塩漬けの桜の葉も餅と一緒に口に入れると、ほどよい塩気が空腹を突く。懐かしさが込み上げる。

 そうだ。祖母と作る桜餅が好きだった。甘いものに目がない祖父のために祖母は頻繁に菓子を作り、私にも教えてくれた。手に粘りつく餅の感触、熱の残るコンロ、出来立ての粒あんの香りが満ちる。皿に積み上がるかわいらしい俵形。不恰好な形のものは私の作品だ。急須の緑茶とともに家族で囲んだ夕暮れ時の食卓は、確かに私の愛おしい思い出だった。

 ふいにひんやりとした空気が忍び込む。建て付けの悪い窓から隙間風が吹くのだ。確実に春は訪れているのに、ここにはいつまでも冬が居座り続ける。私も同じかもしれない、とふと感じた。地元を飛び出して自由を得たはずの私は、明日の生活に頭を悩ませ、夢の遠さに怯えている。相も変わらず人目を気にして、相手の感情を必死に読み込んで、足掻いてもがいて空回りしている。

 そんな自分に気がつくたび、私はどうしようもなく叫びだしたくなる。自分の身体を引き裂くことができるなら、どれほどいいだろう。きっとそれは、苦しみを越えた狂喜に違いない。代わりに私はギターを構える。自分を掻きむしるつもりで六本の弦を掻き鳴らす。

 こうやって生み出される曲が一番再生を伸ばすのだから、皮肉なものだ。音楽は、自分をすり減らす生き方なのかもしれない。だからあの人は、突然引退したのかもしれない。キャップをつけても使えないほど削られた鉛筆のように、自分のすべてを削りきって姿を消したのだろうか。苦しい生き方だ。でも、きっととても美しくて華々しい、スターにふさわしい生き方だ。そんな終わり方だから、私は今もあの人から離れられないのだろう。

 あなたを、越えてみせる。

 いつか、必ず。

 どこでどう生きているともわからない憧れの人に向けて、私は歌った。

 部屋の扉がノックされたのは、高かった日が落ちてからかなり経った頃だった。

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