音楽東京

深澄

第1話 憧れの街

 ――東京は、憧れる価値のない街だ。


 *


 東京、渋谷。キャリーケースを引きずって人混みを歩く。ギターケースは肩に食い込み、頭蓋を爆音で揺らすヘッドホンのせいで耳が痛い。道玄坂を少し行き、ライブハウス街に出ると、そのうちのひとつを見上げた。薄暗くて、どこか不気味な雰囲気が胸を高鳴らせる。

 十年前、あの人のライブを見た箱。あの人に憧れ、音楽の道を志した。ギターを習い、曲を書き、故郷を捨てた。東京で四畳半のワンルームに住み、路上ライブに明け暮れた。夢に向かう、純粋で充実する一方、不安も尽きない日々。憧れの火を絶やさないよう、私は定期的にここを訪れた。今ならきっと、目を閉じていても家からここまでたどり着けるだろう。

 入り口には、今日ライブをするアーティストの名を記した紙が貼られている。爽やかな風が襟足を撫でた。

 今日、ようやく夢がひとつ叶う。

 ずっと、ここで歌いたかった。私に雷を落とした、あの人と同じ場所で。

 懐かしいそのライブハウスに足を踏み入れる。十年前と同じ、少し埃っぽいような匂いがあの日の記憶の嵐を巻き起こした。感傷が喉の奥に痛みをもたらす。目を強くつむり、深く息を吸い込んだ。


 *


 甲高いアラーム音が鼓膜に突き刺さった。布団を頭の上まで被りなおすが、しばらくしてスヌーズが無慈悲に鳴り響く。これ以上は近所迷惑だと観念し、私は呻きながら身を起こした。窓を開けると、朝七時の涼やかな風が金木犀の濃い香りを運び入れ、思わず深呼吸をする。

 なんだか今朝はいい夢を見た気がする。

 それだけのことで息がしやすくなるのだから、人間は複雑なのか単純なのかわからない。

 布団を畳み、床に座り込んで朝食を摂る。解凍したご飯に醤油をかけただけのものだが、今日の私には十分幸せを与えてくれる。米はいつも鍋で炊いているため、おこげができていて美味しい。節約のために家電は冷蔵庫と電子レンジくらいだが、そんな生活も悪くないと、今のところは思えている。

 食べ終わると、部屋の大半を占める作曲スペースでパソコンを立ち上げる。昨日書き上げた歌詞を、推敲しなければならない。それが終わったら、別の曲のオケを考え直そう。なんとなくしっくりこないと思ったまま、数日経っているものだ。それから……いや、とにかく目先の仕事を片付けてからだ。

 ギターを爪弾き、メロディーに歌詞を乗せる。歌詞を書き連ねた紙に、時々赤ペンを入れる。何度か繰り返し、今度は歌詞だけを読み込む。最後にもう一度、修正したものを歌って語感を確認する。音楽を始めた当初から、歌詞が気持ちよくはまった時の感覚は大好きだった。録音から投稿までをすべて終えたあとよりも、この瞬間にもっとも達成感を得る。

「うん、いいかな」

 半ば恍惚状態で小さく呟き、私はギターを置いて伸びをした。ずっと同じ姿勢でいたので背骨がバキバキと音を立てる。時計を見るとまだお昼前だった。この曲はスムーズにできそうだ。

 「金木犀の歌」と仮題をつけ、いったん紙をクリアファイルに戻す。以前はクリップでとめるだけだったが、何度も書き直しているうちに一曲で何十枚と紙を使うことになるので、クリップでは間に合わなくなったのだ。クリアファイルを使うようにして以来、一日が終わる頃には机の周りに紙が散乱してどれがどれだかわからない、といった事態は防げるようになったけれど、これではファイルがどれだけあっても足りない。節約を音楽の次に大切にしている私としては、死活問題だった。

 昼食は、ほとんど食べない。別にお腹は空かないし、一食分でも食費を節約すれば、塵も積もって新しい機材を買えるようになるはずだ。

 水分だけを摂り、私はパソコンの作曲ソフトを立ち上げる。ヘッドホンで耳を覆うと、ぼろアパートが防ぎきれずにいた外の音が、ほとんど遮断された。この瞬間が好きだ。私ひとりの世界に閉じこもる感覚。マリオで言えば、スーパースターを取った時の無敵状態に近い。たぶん。

 とはいえ、無敵状態でも穴に落ちて死ぬことはあるわけで、今の私は崖っぷちに立っている。貯金はなくはないけれど、曲を作るためにバイトは週四日が限度だし、路上ライブでもらえるチップはごくわずかだ。ユーチューブは収益化にまでは至っていないし、実家は捨てるようにして上京したため仕送りもない。音楽にかけるお金だけは出し惜しまないと決めているので、生活費を切り詰めるしかないのだった。

 いつかは音楽で食っていけるようになるんだ。

 そんな一丁前の決意だけが、私の人生のエンジンだ。

 今日も夕方になったら、キャリーケースとギターを手に街へと繰り出す。上京してからおよそ半年、バイトの日や雨の日以外は必ず行っている路上ライブは、もう私の生活の一部になっている。少しでも、一瞬でもいい、私の声を聞いてほしい。いつか絶対にあの人の歌に並んでやるんだ。それだけの力が、私の歌にはある。私はそう信じている。

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