第41話 大フチン号

 ほどなく4機のヘリコプターは降下した。大フチン号の巨体が眼下にあった。通常のクルーザーとは違いデッキや窓が少ない。上空から見てフラットなのは、ヘリコプター用の後部甲板とその格納庫上のプールのあるアミューズメントデッキだけだ。その特異な形状は、コッペパンのような大型潜水艦の上にクルーザーの艦橋を乗せたような格好をしていた。実際、核戦争勃発時には潜水し、衝撃波や放射線から乗員を守るよう設計されている。船体に凹凸が少ないのは、水中での航行を用意にするだけでなく、水上にあってはステルス性能を高める目的があった。


 親衛隊の戦闘ヘリは港のヘリポートに着陸し、大統領専用機は大フチン号の甲板に着艦した。


 真っ先に親衛隊長がヘリコプターを降りて大統領が降りるタラップを整えた。ヨシフもカバンを抱えて降りた。足元に気を取られ、回転翼の巻き上げる風でふらついた。


 足を踏ん張り、態勢を立て直してイワンを探す。眼に留まったのは、風に巻きあげられたスカートからのぞくソフィアの白い太腿だった。思わず喉が鳴った。


 彼女の手を取り、胸を張ったイワンがキャビンへ向かって行く。ヨシフは、慌てて2人を追った。


 イワンが、埠頭ふとうからタラップを上ってくる親衛隊員らを認めて足を止めた。その中に驚くべき人物がいた。フチン聖教の大司教だ。彼もまた30年前はイワンと同じ諜報機関で働いていた。年齢は少し上だが、その経歴は謎に満ちている。


「大統領、お招き、感謝する」


 大司教はかんむりにも似た大きな帽子を乗せた頭をわずかに傾けた。


「こちらこそ。新しい世界にはフチン聖教が必要です」


 イワンが似合わない笑みを作った。


「神の荷物を載せていただけるかな?」


 大司教が埠頭のコンテナを指した。


「もちろん」


 イワンは、荷物の積みこみを、親衛隊員に命じた。


 大フチン号は先行していた親衛隊の手によってすべての準備が整っていたが、大司教の荷物を積み込むために出港を遅らせた。


 イワンが自分のためにつくったキャビンは3階の前方にあって、窓の少ない大フチン号の中にあっては、視界の開けた数少ない大空間だった。前方からキャビンの半分ほどまでの壁が大きな窓になっている。半分から後ろには、小さな丸窓が左右に三つずつ並んでいた。


 内装は高価な建材と豪華な装飾品が使用され、数カ所に配置された家具も一流品でホテルのパーティー会場を思わせた。ただ、出入り口側の一角に政府機関や軍とつながる無機質な機械が並んでいて、部屋の優美な印象を台無しにしていた。


 ヨシフは持参していたカバンをその機械の隣に置いた。そこが所定位置だ。並んだ機械のひとつは核兵器使用の命令ボタンだ。カバンのボタンと合わせて2人分の命令が出せるのだから、人間が作るシステムというものはいい加減なものだ。もちろんそれぞれの機械には別々の人物のコードを入れるのだけれど、それもイワンの手の内にある。ヨシフは胸の内で苦笑した。


 イワンは、前方の見晴らしの良いソファーにソフィアと並んで掛けていた。大司教を前に、大フチン号が潜水できることや、その際には大きな窓にシャッターが下りることなどを説明して上機嫌のようだ。ヨシフはイワンたちと離れた、出入り口に近いテーブル席に掛けた。


「飲み物はいかがでしょう?」


 若い親衛隊員がメニューを差し出した。大フチン号では船長もコックも、掃除係も親衛隊員だ。見れば、イワンはソフィアや大司教とシャンパングラスを交わしている。ヨシフは紅茶とサンドイッチを頼み、早めの昼食にした。


 最後のサンドイッチを飲みこんだ時、親衛隊長が姿を見せた。イワンのもとに足を運び、荷物の積み込みが終わったと報告した。


「そうか。進路を北極海に向かってくれ。外洋に出たら私が舵を取ろう。……ヘリは格納庫に収容するように。潜って、大司教を驚かせてやろう」


 イワンが親衛隊長に命じた。


「ハッ」


 親衛隊長は厳粛な面持ちで敬礼すると、4階の操舵室に向かった。


 イワンが自ら舵を取るのも船を潜水させるというのも、ソフィアや大司教に自慢するためだ。その安っぽい自己顕示欲に嫌気がさし、ヨシフは耳をふさいで外の景色に眼をやった。


 大フチン号は当初の計画より30分遅れて岸壁を離れた。進路は北……。歴史的な港湾都市の街並みが小さくなっていく。


 そこに住む人々は、いつもの日常を送っているだろう。イワンが核兵器の使用をほのめかしても、彼らはユウケイ民主国が降伏すると思うだけで、その反撃のミサイルが自分たちの頭上にやってくるとは、想像さえしていないだろう。ヨシフは彼らが不憫ふびんでならなかった。


 イワンと大司教があるべき未来について歓談し、ソフィアはつまらなそうにシャンパングラスを傾けている。ヨシフは席を離れ、出入り口に近い小さな窓の前に立った。


 青い海の向こう、港の灯台が小さくなっていた。雪をかぶった山脈は、船がまだ湾の内側にいることを示している。これから世界はどうなるのだろう? レナはシェルターに入っただろうか? 家族は生き残れるだろうか?……不安ばかりが胸を占めた。


 ほどなく船は外洋に出て、見えるものは波だけになった。船は揺れ始めたが、密閉された船内に風や波の音が届くことはなかった。潜水艦同様に設計されているために、エンジン音も静かで、ここでは聞こえない。空気を震わせるのは、BGMのラプソディー・イン・ブルーだけだ。


 見るものがなくて、ヨシフは室内に眼を向けた。


 いつの間にか、イワンは大司教を誘ってあの無機質な機械の前に座っていた。モニターには核兵器のアクセスコードが並んでいる。


 彼は備え付けのファイルを開き、そこに並んでいる作戦を説明していた。作戦は、特定の施設を攻撃する局地的なものから、世界中に向かって一斉に戦略核ミサイルを発射するものまで様々だ。部外者にそれを公表するなど、大統領であってもやってはならないことだった。


 しかし、誰もイワンを止めることはできない。フチン共和国にとってイワンは、大統領を越えた存在だった。大司教の言葉を借りれば、イワンと大司教と神は三位一体、……イワンは神に等しい存在なのだ。


「今回の目標はセントバーグだ」


 イワンの声は低く小さかったが、唇の動きもあって良くわかった。彼の指が動くと、モニターに作戦コードが表示されていく。


「大司教、このボタンを押す栄誉をあなたに捧げたい」


 イワンの申し出に、大司教は「エッ」と声をもらし、顔をひきつらせた。ヨシフも驚いた。もしやイワンは、自分がボタンを押すのが恐ろしくて、大司教にその責任を押し付けようとしているのではないか……。


「私は、こちらのボタンを押す」


 イワンは側にあったあの黒いカバンを取ると、暗証番号を入力してそれを開けた。中身は大きなノートパソコンといった形状だった。彼は電源を入れるとアクセスコードを打ち込んで大司教に微笑みかけた。同時に押そう、とでも言っているようだ。


「さあ、大司教……」


 彼がボタンを押せと勧める。


「そ、そのボタンを押せるのはイワン、あなただけだ。神は、あなただけにその任務を与えたもうた」


 大司教が半歩さがった。


「それじゃ、私が押しても?」


 それまで関心なさそうにしていたソフィアが、甘えるようにイワンの肘を握った。


「ソフィア、君が?」


 イワンの眉間に縦皺が浮いた。女性はでしゃばるな、というのだろう。


 その時、「大統領閣下」と声がした。2か所ある出入り口のドアのひとつが開いていて、親衛隊員が直立不動の姿勢でいた。彼が、ユーリイが挨拶に来たと告げた。


「ナニ?」


 驚くイワンの声が意外に大きく聞こえた。


 彼が会うとも会わないとも答えるより早く、ユーリイが凛々しい姿を見せた。


「大統領、それに大司教まで。ご無沙汰ぶさたしています」


「ユーリイ、どうしてここに?」


 イワンが眉をひそめた。大フチン号にいることを知っているのは親衛隊ぐらいだ。不信を抱くのは当然だった。


 ヨシフだけは、自分の電話を盗聴して居所を知ったのだろうと推理、確信していた。とはいえ、航行している船に、彼がどうやって乗り込んだのかは想像もつかなかった。


「潜水可能なこの船なら、核爆発の影響から限りなく逃れることができるからな。……長年の友にアドバイスをするために待っていた」


「待っていただと?」


 イワンが目を細めた。ヨシフも疑問を覚えた。先に着いていたのなら、今まで何をしていたのだろう?

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