第7話 保養地ラコニア

 ラコニアの街の空気はフチン共和国の多くの都市と全く違っていた。気候は温暖で雪が降ることはない。降り注ぐ日差しは暖かく、柔らかく、富豪の多くはその町に別荘を持っていた。イワンもその中のひとりだ。彼が大統領になるとすぐ、石油採掘企業の所有者が提供してきた。それが今いる屋内温水プール付きの邸宅だった。


 当然、贈り物には見返りが必要だ。彼が必要とした土地にあった山村をひとつ、そっくり移転する大統領令にサインした。その行為にやましさはない。石油の採掘で国家も企業も潤い、雇用が生まれる。立ち退いた村人も、都会に出て便利な生活を満喫しているだろう。


 屋内プールは母屋から南側に突き出た温室のような形状だった。3方向と天井が防弾ガラス張りで、3月でも夏のような室温を維持していた。天井のガラス越しに差す太陽光がプールを照らしている。透明な水色の光が水面で踊っていた。


 ひと泳ぎしたイワンはプールサイドの白いカウチソファーに横になり、うつらうつらした。昔の皇帝は、どうしてここを首都にしなかったのだろう、などと夢想していた。


 国家に対する、あるいは人生というものに疑問を覚えたのは、高校生のときだった。イワンは天文学者になりたくて大学進学を望んだが、父親に反対された。彼の父は労働者階級で、工場で機械のように働く労働者に学問はいらない、むしろあれこれ考えるだけ邪魔になる、というのが意見の持ち主だった。


 しかし、事実は違った。イワンを大学にやれるだけの収入がない、と母親が詫びた。弟と妹がいるので、彼女もイワンが卒業するとすぐに仕事に就くことを望んだ。イワンが働くことで収入が増えれば生活が楽になり、少しはましなアパートに越せるかもしれない、と夢を語った。


 イワンは進学を諦められなかった。当時は資本主義国家と共産主義国家間が冷戦を繰り広げていて、軍人の待遇は良かった。本意ではなかったが、卒業すれば工場で働くより良い暮らしをさせてやれると両親を説得し、学費のいらない陸軍大学へ進んだ。


 陸軍大学では諜報ちょうほう活動を重点的に学んだ。敵対する国家の思想、共産主義も必要に迫られて学んだ。理論上、そうした世界なら貧しい家庭の子供でも能力に応じて好きなことが学べると知って胸が躍った。が、現実の世界は違っていた。多くの共産主義国家では、共産党員幹部とその親族ばかりが良い暮らしをし、国民は貧しさにあえいでいるのが実態だった。イワンは、そうした理論と現実の乖離かいりにも興味を覚えた。


 夢の中を黒い人影が過った。


「ン……」


 瞼を持ち上げるとレナの姿があった。大統領秘書官ヨシフの娘だ。ヨシフは忠誠の印に、大学を卒業した自分の娘を差し出した。かれこれ4年前のことだ。ラコニアに来る際は、いつも彼女が身の回りの世話をしている。


「大統領、お目様ですか?」


 透明なガラス製の水差しを持つ彼女も水着姿だった。黒いビキニが白い肌をひきたてている。


「ああ、少しウトウトしていただけだ」


「冷たいお水、お飲みになりますか?」


「ああ、もらおう」


 レナがサイドテーブルのグラスに水を注ぐのを見ながら身体を起こした。


 レナはふたつのグラスに水をそそぐと、テーブルの向こう側の赤いカウチソファーに掛けた。厚めの唇をすぼめてストローをくわえる。毒など入っていないことを示すために違いなかった。


「泳いでもいいですか?」


「もちろん。自由に泳ぎなさい。それから、毒見などいらないよ。レナのことは信じている」


「ありがとうございます。大統領」


 彼女は薄い笑みを浮かべてグラスを置くと、プールの飛び込み台に向かう。


 イワンは彼女の引き締まったヒップが左右に揺れるのを鑑賞しながらグラスを取った。氷が沈んだグラスには、薄らと水滴がまとわりついていた。


 そうだ。水だ。雨が少なく、大河もないこの地に、多くの人間が住むことは難しい。……ラコニアに首都がおかれなかった理由に思い至り、グラスの中の氷に眼をやった。水は石油以上に重要な資源だ。改めて教えられた気がする。


 そして、もうひとつ思いつく。氷の中に毒を混ぜていたなら、それが融けるまで水は安全だ。目の前での毒見など意味がない、と……。


 目を上げると、飛び込み台に立つレナと視線があった。


 彼女が手を振る。手を振り返すと、それが合図のように彼女の身体が宙に浮いた。イルカのジャンプのような弧を描き、白い身体がプールに突き刺ささる。彼女はわずかな音と、わずかなしぶきだけを残し、水と一体化してイワンの目から消えた。何度見ても美しい肉体、そして跳躍だと思った。


 ほどなくレナの頭が水面に浮かぶ。イワンは潜水艦が浮上する場面を思い出した。


 彼女はクロールで泳いだ。ゆっくりとしたリズムで、それでいてとても速い。あんなスピードで、どうしてフチン軍は進撃しないのか……。イワンはここ数日、感じ続けた失望を思い出した。それを忘れるためにラコニアまで来たというのに……。


 イワンは、レナが泳ぐ隣のレーンの飛び込み台にたった。彼女の飛び込みをイメージし、真似て飛び込む。


 ――ドボン……、大きな音と腹部に感じた圧力が失敗を教えてくれる。それでも水中でドルフィンキックを繰り返し、水上に出ると大きな水しぶきを上げてバタフライで泳いだ。25メートル先でターン……。飛び込み台の下まで泳ぎ切ると、レナの拍手が聞こえた。


「大統領、見事なバタフライです」


 隣のレーンで彼女が微笑んでいた。


 イワンは水がしたたり落ちる顔を片手で拭い、「レナのようには飛び込めないよ」と正直に言った。頭の中からフチン軍は消えていた。


 レナの後頭部に手を回して引き寄せる。彼女が目を閉じていた。ふっくらとした唇にキスをして離れる。


「お楽しみはベッドの中だ」


「はい……」


 彼女の顔が歪んでいた。イワンは気づかないふりをした。


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