第5話 老いた独裁者の悩み

 書斎の壁の一面は大フチン帝国から現在に至るまでの歴史書と資料が並び、別の壁面には世界地図があって、フチン軍の軍事行動の目標が記されていた。それはユウケイ民主国を越え遥か、大海の先、ライス民主共和国へと……。


 反対側の壁面には電子機器と巨大なモニターがあって、大統領執務室と同じ機能を有していた。いざとなれば、ここから軍に指示を出すことができる。もちろん核ミサイルを発射することも……。


 テレビをつけた後、パソコンを操作して防犯カメラの記録を確認した。1時間で2日分、3時間で6日分ほど確認したが、間男がエリスのもとを訪ねてきたことはなかった。


「思い過ごしだったか……」


 予想が外れていたことに安堵し、同時に、少し残念に思った。


 テレビニュースに目をやる。金髪のアナウンサーが、フチン軍が圧政に苦しむユウケイ国民の開放に全力を尽くしていると報じていた。


 テレビのチャンネルを変えても、放送局はどれも似たようなニュースを繰り返し流していた。世界ウインタースポーツ大会が東亜大公国で開かれることや地球の急激な気候変動、太平洋で大規模な海底火山の爆発があったことなどだ。それらの合間にフチン軍とユウケイ軍がぶつかった場面や、世界経済が後退していて多国籍企業が国内から撤退する兆候が見られる、といったニュースが流れた。


 インタビューを受けた国民は一様に、イワンを支持している、その手腕に期待している、といったコメントを述べた。


 放送局が政府の方針に従って事実を隠ぺいしていることに満足を覚える。同時に何も知らない国民を笑った。


「愚民どもが……」イワンは舌打ちし、決意を述べる。「……もう少し待っていろ。私が、豊かにしてやる」


 そのためにはフチン共和国の版図を拡大することが重要だった。属国が増えれば、安い労働力と安価な資源が手に入る。ヒエラルキーの底辺が拡大するほど、上部構造にあたるフチン共和国が利益を収奪できるという理屈だ。それを帝国主義的だと批判する者もいるが、イワンは気にかけなかった。


「これが資本主義だよ」


 かつて共産主義革命を検討したイワンは口元を歪めた。第二次世界大戦によって世界中にはびこっていた帝国主義が滅び、地図上から植民地が消えても、先進国が発展途上国の安い労働力の上で繁栄している構造は変わっていない。ヒエラルキーの頂点に近いほど競争は有利で富が集中するのだ。


「そうだ。これが資本主義なのだ……」


 イワンは繰り返した。自分がやっていることは、企業が成長と繁栄のためにやっていることと同じ、……つまり、世界の普遍的なシステムだ、という確信がある。


 予想外だったのは、フチン軍が、理解していたほど強くなかったことだった。20分の1以下の戦力というユウケイ軍の抵抗にあって、進軍が遅れているのだから……。


「私に核の発射ボタンを押させるな!」


 イワンは叫び、机の上のペーパーナイフを取って投げた。それは世界地図の中央、アフリカ大陸に突き立った。


「待てよ……」


 フチン軍が予想外に弱かったのとは真逆に、エリスは予想外に賢いのかもしれないと思った。親衛隊が監視する自宅に間男を連れ込むことなどないのかもしれない。あるいは、出入りの植木屋やクリーニング店の店員の中に不倫相手がいるのかも知れない。それどころか、親衛隊の中の誰かが相手ではないか?


 膨らむ疑惑の解消策を真剣に考えたが、突然、自分がしていることのバカバカしさに気づいて考えるのをやめた。エリスが不倫していようといまいと、自分がその気になれば、命を取るのも収容所に送るのも、自分の胸三寸なのだ。不倫の証拠を探す必要性がどこにある。


 地下の書斎を出ると、邸宅の周囲を警備する親衛隊員の顔をひとつひとつ確認してから大統領専用車に乗り込んだ。運転手や秘書官の顔までがエリスの不倫相手に見える。


「君たちに、私はどう見える?」


 尋ねると、彼らは表情を強ばらせ、唇をあわあわさせるだけでろくな回答ができなかった。そんな彼らに呆れ、シートに身体を預けて目を閉じた。


 グリム宮殿に戻り、予定されていた西部同盟諸国首脳らとの電話会談を、外務大臣と国防大臣同席の上で実施した。会談は1カ国おおよそ30分ずつ、4カ国。述べ2時間を超えた。


 まとめて話せば1時間ほどで済むものを、1カ国ずつ対応するのには理由がある。それぞれの国と首脳によって利害が異なるからだ。別々に交渉することで相手の協同を阻止し、夫々の弱点を突くこともできる。


 彼らの目的は停戦とフチン軍の撤退と分かりきっているから、その対応は単純だった。ある国には天然ガスや石油の輸出を停止すると恫喝し、別の国の首脳にはフチン国内に隠し持っている彼の資産を公開すると脅かし、別の国には貴国にもフチン人が多数住んでいる、と侵攻の可能性を示唆して良く回る口に釘を刺す。


 いずれにしても、停戦要求を断固拒否し、追加の経済制裁やユウケイ民主国への武器供与に対しては核兵器による対応をちらつかせて牽制した。いずれ打つ手を失った彼らは、ユウケイ民主国を見殺しにするだろう。


「大統領、本当に核兵器を使用されるおつもりですか?」


 通話終了後、外務大臣のアンドレが訊いた。


「君はどう思うね。ミカエル君?」


 話を振られたミカエルは表情を強ばらせた。


「我がフチン共和国は西武同盟諸国の横やりで揺れ動くようなやわな国ではありません……」


 言葉を並べる彼の瞳は、イワンの顔色をうかがっていた。どういった回答が独裁者の意向に沿うのか、脳がフル回転しているに違いなかった。


「……フチン軍としては、……大統領の命令さえあれば、核兵器を使用します。兵器は、使用の覚悟があってこそ兵器」


「よろしい。アンドレ君、そういうことだ」


 イワンはミカエルの回答に満足してアンドレに眼をやった。


 一瞬、彼の表情が曇った。が、すぐに従順なものに戻して口を開いた。


「大統領の意に沿うよう、外務省も動いてまいります」


「うむ。所詮、外交は力が背景にあってのものだ。そのために我が国は軍の近代化に努めてきた。おまけに我が国は、近代国家の血液ともいえるエネルギーをも牛耳っている。アンドレ君、自信を持て。強気で臨み、このチキンレースに勝利するのだ。大いなる力には大いなる責任がある。国民を、誰よりも私を失望させないでくれ」


 そう述べて、アンドレを帰した。


「……で、ミカエル君、戦況はどうだ?」


 イワンは20メートル先に座るミカエルに声をかけた。


「申し訳ありません」


 彼が目を伏せ、イワンは失望する。


「またそれか……。ドミトリーの隠れ家は見つかっていないのか? やつはネットで居場所を明かしているのだぞ。わからないはずがあるまい」


「申し訳ありません。ネットの動画はリアルタイムではないようです」


 つまらない言い訳に理性がカチンと鳴った。


「そんなことはわかっている。投稿された場所を分析すれば、彼の行動範囲、拠点は明確になるのではないか? そこを同時に急襲するなり、爆撃すればいいということだ」


「拠点のいくつかは判明しているのですが、何分、地底のシェルターですので……」


「ならば、あれを使え」


 イワンは地底30メートルの構造物を破壊できる地中貫通ミサイルの使用を示唆した。


「あれは地下シェルターに避難している市民まで……」


「勝利と、敵国の愚民と、どちらが重要と考えているのだ?」


「それはもちろん……」


 ミカエルが口をモゴモゴさせた。


「それさえできないのなら、官邸でも議事堂でもホテルでも、隠れていそうな場所や出入り口を空爆で徹底的に破壊しろ。街を平地にしてしまえ」


「それでは更に一般市民の被害が増えるでしょう……」彼はふと何かに思い至ったようで言い直す。「……市民の被害はともかく、世界の反発が強くなります。経済制裁が強化され、我が国のダメージが増大するかと……」


 彼の瞳が泳いだ。


「君は軍人だ。経済のことは案じるな。世界の批判など、勝ってしまえばどうとでもなる。今は、生き残りをかけた軍事作戦の最中なのだ。すべては歴史が証明している。勝者が正義、同情や憐憫れんびんは己の身を滅ぼすということだ。それとも君は、東洋のブッダよろしく、その身を飢えた虎に与えるか? よく考えろ」


 イワンは強い声で叱責した。


「ハッ」


 ミカエルが立って最敬礼の姿勢を取る。


「核兵器の使用によって世界が非難するのは私だ。ミカエル君が案じる必要はない」


 慰めるような穏やかな口調で話した。


「いえ、その時は自分も責任を取らせていただきます」


「うむ。それは良い心がけだ。しかし、私が世界を変えてやる。そうなれば責任など羽毛のようなものだ」


 イワンは席を立った。


 ミカエルには強がりを言ったものの、ユウケイ民主国の抵抗も世界各国の反発も想定をはるかに超え、暗雲のように頭上に広がっているように感じていた。その雲の中に潜むのが、核のような最終兵器なのか、神の鉄槌なのか、悪魔の微笑みなのか……。いずれにしても、異様な気配に迷いと不安を覚えた。


 一度作戦の見直しを図らなければならないだろう。イワンは考えた。


「ヨシッ」


 南部の保養地、ラコニアで疲れた身体を癒しながらそれをしようと決め、大統領秘書官とその娘、親衛隊40名だけを連れてトロイアを離れた。

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