第5話 祝福⑤

次に目が覚めた時、カラスマはテーブルに食事を並べているところだった。


ヨーグルトサラダとお味噌汁。


「起きた? 顔洗ったら一緒に食べよう」


これって。

テーブルに並べられた、ちぐはぐな取り合わせをまじまじと見やる。


カラスマが照れたように笑った。


「少し、ミスマッチだよね」


さあさあ、と背中を押されて、洗面所まで促される。


顔を洗ってテーブルに着くと、カラスマがグラスに水を注いでくれた。


「いただきます」


彼は行儀よく手を合わせた。


ヨーグルトサラダは、キャベツときゅうり、林檎が入っていた。


お味噌汁は豆腐と茄子、そしてミョウガだろうか。

柔らかそうな茄子の紫が、ぷかぷかと滲んでいた。


お箸でそっと、サラダの林檎をつまんで齧ってみる。


マヨネーズのほんのりとした酸味と、林檎の甘さが好きだった。


噛むとしゃくしゃくと、心地よい音がするのが好きだった。


ヨーグルトが掛かったキャベツときゅうりは、少し苦手だといつも思うのに。


あなたが作るから、なぜか食べられてしまうのだ。


あなたが、作るものだから、なぜか。


「あれ、なんで、私。この記憶は」


気がつけば、目の端からは透明な雫が落ちていて、頬を伝っていた。


目の前の白い、甘酸っぱいサラダの輪郭がぼやけていく。


「やっと、君の声を聞けた」


滲んだ世界のまま、カラスマへ顔を向ける。


「私、声が」


カラスマが、優しく私を見つめていた。


「すこしだけ、力を使わせてもらった。君の咽喉には大きな球があって」


カラスマがそっと私の咽喉に手を当てる。


「僕と会った時にはもう、殆ど声が出せていなかった。だから、ここと、繋がったんだ」


カラスマはそのままゆっくり手を滑らせながら、二つの鎖骨に挟まれた場所のすこし先で、その手を止めた。


「ゆっくりでいい」


「あなたは」


カラスマは小さく笑った。


「林檎ばかり、食べないの」


カラスマの声がいつの間にか、歳を重ねた、女性の柔らかな声になっていく。


「お味噌汁は夏でも飲みなさい。温かい食べ物は体と心を温める」


カラスマはそっと手を離し、お味噌汁のお椀を差し出してくれた。


涙を拭うことも忘れて、その優しい声の導くままに口をつける。


爽やかなミョウガの匂いが香って、くちびるにふにゃりと柔らかい茄子が当たった。


そのままとろりと口の中へ入ってきたその柔らかさは、ひどく強張っていた体を静かに解いていってくれるような気がした。


「ゆっくりでいい。食べられるものからでいいから」


カラスマは、穏やかな眼差しで私を見つめていた。


「あなたの中の私を、忘れないで」


こらえきれなくなって、思わず彼に手を伸ばす。


「おばあちゃん」


涙が、カラスマの首を濡らしていく。


花の香りが強くなる。


カラスマは、やっぱり、優しい体温だった。


「シンプルに生きる時があってもいいさ。ただ、深く息を吸って、吐いて。余計なものを削ぎ落として」


彼の体温が、私の中に入ってくる。


首につけたおでこから、抱きしめた腕から。

抱きしめられる背中から、胸を打つ鼓動から。


「君が本当に望んでいることに、気付けるように。君の中から出てくる声が、聞こえるように。耳を澄ませて」


「分からないよ。自分が本当に望んでいることなんて。もう、何も分からない」


幼い子どもが駄々をこねるように、カラスマの腕の中でかぶりを振る。


カラスマがゆっくりと私の背中を撫でた。


「そんな時は、君を大事に思ってくれる人達のところへ、大事な場所へ帰ればいい」


「どうやって、どうやって帰ればいいの。だって、もう、おばあちゃんは」


カラスマはそっと私の肩を掴んで、ゆっくりと、まっすぐに目を合わせた。


「君は知っているはずだよ。君の体を、心を作ってくれたものが何なのか」


彼の目は優しくて、でもどこか悲しくて、とても綺麗だと思った。

それは、もうすぐ訪れるであろう別れを、私に予感させた。


「そして君は分かっているはすだ。今君がしてほしいことは、本当は自分でしてあげられることだって」 


本当は分かっている。


私は、私を。

私が、私を。


ずっと残してくれていたんだ。

私が、戻ってこれるように。


大切な人の中にいる私を。

私を形作り、私を彩ったものを。

思い出させてくれるその一つに、料理があるのだとしたら。


誰かを思いながら、作ったもの。

食べる人の幸せを、祈りながら作ったもの。


それはきっと、あなたから私へ送られた、生きることへの祝福のようなもの。


あなたが作ったものの中に、あなたを感じる。

あなたからの、私への愛を感じる。


食べることは生きることだから。


カラスマがそっと私を覗き込んだ。


「さあ、一緒に、ごはん食べよう」


私はまた泣いて、そして、笑った。

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