第1話 菊花

「行くぞ! 剣を持て!」

 前開きの黒い服に腰の帯を締めた男が、腰に下げた鞘から反りのついた刀を抜いて叫んだ。周囲の男達の反応を待たず、目の前の扉を足の裏で蹴る。木製の扉は簡単に外れて倒れた。

 周囲の男たちも刀を抜き、オォ、と雄叫びを上げる。私も、刀を抜いた。丁寧に拭き上げ、油を塗った刀身が、朝靄を抜けた日光を反射する。

 私は声を上げなかった。男達の叫びの中で、ひとり女の声が混じっては、意気が下がると思ったからだ。


 屋敷の裏口に入ると、そこはなんの変哲もない通路だった。白い壁の際には袋や壺が雑然と置かれている。通路の奥で使用人と思しき女性が籠を持って立っていた。私たちの突入に気付いた彼女は、驚きのあまり籠を落とし、中身の何か食料らしきものを撒き散らしながら腰を抜かして倒れ込んだ。

「どけ! 邪魔をすれば斬るぞ!」

 男に脅された彼女は目を見開きながら、這うようにどいて道を開けた。悪いが、構っていられない。殺されないだけましだと思ってくれ。木の実を踏みつけながら、私たちは先を急いだ。


 この屋敷には、我らユイ家の一族が仕える王家に仇をなす、他国の王族が住んでいる。目標は屋敷の主だ。ついでに、以下の王族とみられる者は皆殺しにする。

「王族は片っ端から殺せ」

 短い白髪頭の黒服の男……虞家の長のはっきりとした声と共に、他の男たちが一斉に走り出す。私は、一人その場に残った。

豊蕾フェンレイ、何をしている」

「……入る部屋を選んでいたところです」

 男達と一緒に出ても良かったが、女である私を軽んじる奴と行動を共にするのは嫌だった。それよりは一人で行動する方が好みだ。

「では行け」

 私の答えを聞いた長は、すぐに興味を無くしたように私から視線を外し、再び歩き始める。

 長は私を気に掛けない。私はかつて長の武に魅せられ、長の弟子になった。しかし、師事していた頃に比べると、今は明らかに私への関心を失っているように見える。

 私からも、昔ほど強い関心はない。長の肌は年月を重ねるごとに黒ずんでしまって、まるで老人だ。だから私は……というのは、気に掛けてもらえなくなった自分に対する言い訳か。


 絨毯が敷かれた場所に出る。壁には布飾りが飾られていた。どうやら、この辺りが居住空間だ。平屋の屋敷にはいくつも部屋がある。男たちはそれらの部屋の中に入ってそこの住人を襲っている。我々の目標がいそうな奥の方には、既に何人もの男が突入していったらしく、雄叫びや悲鳴が聞こえた。

 私は手前の方の部屋から順に調べていった。天蓋付きの寝台や、装飾が施された棚や、壺のある部屋が、二つ、三つ……無人だ。更に奥へ。そしてその部屋の前に立つ。

「は……母上……」

 部屋の寝台に座る、綺羅びやかな服を纏った女性に、年端もいかない少年がしがみついていて、私を見て怯えたように呟いた。女性は少年を庇うように抱きしめた。

 少年の顔には恐怖が張り付いている。その母親と見られる女性も険しい顔をしてこちらを睨みつけていた。彼女らは、自身が殺害される対象であることを知っているようだ。

 見つけた。見つけてしまった、と、心で呟いてしまった。殺しの対象が、あまりにか弱そうで、罪悪感に苛まれた。でも、今更引き返せない。覚悟はできている。

 刀の柄を握りしめる。鞘の中の刃が、僅かに音を立てる。母親は怯えている息子を守るように抱きしめ、こちらを睨みつけてくる。

「……お止めください」

 母親が震える声で懇願するように言った。

「どうかこの子だけは……!」

 命乞いをする母親の腕の中で、幼い少年は震えている。きっと怖いのだろう。私だって怖い。だが、それを悟られてはならない。我ら虞家の人間は、常に強くあらねばならないのだから。

「……逃しはしない」

 思い切りをつけるために、あえて冷たい声で言った。だが、二人ともおぞましいものを見るかのように顔を強張らせたのを見ると、余計辛くなった。

 腕が重い。頭の中が白くなる。斬らねばならないのに、冷静になれない。こんな筈ではなかった。もっと冷酷になれると思っていたのだが、ままならない。


 その時、部屋の入り口から、人影が右の方からぬっと現れる。男が刀を突きだして走ってくる。が、遅い。私は余裕をもって横に一歩ずれる。そして、すれ違いざまに刀を抜き、男の脇腹を斬る。男は悲鳴を上げながら床に倒れた。

 その瞬間から、私は普段の調子を取りもどしていた。剣士として、これまでも似たような連中を葬ってきた。今、そのときと同じ感覚だ。腕は指先まで自在に動き、頭に、体に血がたぎる。

 床に倒れる男の首に、刀を突き刺す。男は痙攣しながら息絶えた。


 再度部屋の方に目をやると、少年の口を手でふさぐ母親を背に、もう一人の男が立っていた。黒髪を頭頂で縛った男はがっしりとした体格をしていた。刀の先端をこちらに向けながら、じりじりと間合いを詰めてくる。私はそれに合わせて、ゆっくりと後退する。

 相手の動作のひとつひとつを、きわめて冷静に見てとれる。右手を大きく突き出しながら刀を向ける男の構えは、こちらの接近を誘っているように見えた。なら、誘いに乗ってやろうではないか。

 私が一歩踏み込むと、早速剣を振り下ろしてくる。わかっている。躱し、通り抜けざまに、こいつの腕も……。だが男はすぐさま腕を引っ込めると、後ろに下がった。守りに徹するつもりか? ならばこちらから攻めるまでだ。

 再び距離を詰め、今度は私から刀を突き出す。男が咄嗟に身を屈めるのが見えたので、突きの軌道を変えて、横薙ぎにする。脇腹を狙った斬撃は、男の下げた刀で阻まれた。金属音が響く。

 力で押されては不味い。私はすぐに後退した。力勝負では男に対しては不利になるから、素早く動く訓練を私は積んでいる。私の剣術は、速さを重視した戦い方だ。


「中々やるな」

 同じ剣士として向き合う相手には、私は敬意のようなものを少なからず抱いていた。だから、相手が敵だとしても、褒められるところがあれば殺す前に一言二言言葉を交わしたりしていた。だが、男は返事をせず、黙ってこちらを睨み続けている。

「無粋な……」

 そんな男に、私はつい不満の声を漏らした。剣士なのだ、自身の実力を超える相手との闘いに昂ぶる気持ちくらいあるだろうに。だが、男は眉間にしわを寄せて言った。

「……遊びではない」

 力のこもった低い声が出される。

「何?」

「あの者たちは俺の全てだ。命に替えても守らねばならんのだ。剣の腕を比べて楽しもうなどという戯言に付き合っている暇はない!」

 そう言うと、彼は一歩、二歩と踏み出し、距離を詰め、そして駆けてくる。

 その気迫は良い。だが、攻めに転じた彼の動きは直線的で読みやすかった。だから、難なくその袈裟斬りを躱して、横に薙ぐ。男の右腕から血飛沫が上がる。苦痛の声を漏らしている。

「終わりだ!」

 痛みに刀を垂らす相手に、最後の一撃を。胸を裂く袈裟斬り……しかし、金属音と共に刀の柄が反発。

 弾かれた。男は剣を上げたのだ。

「な……!」

 男の咆哮。まずい、斬られる! 驚きで動きを止めそうになるが、刀が弾かれる方へ跳ねて刀をかわす。しかし男は血を吹く腕で刀を掲げ、私に向かってくる。鬼のような形相で追撃してきた。

 刀を突きかけてきては、それを受ける私に連撃を仕掛けてくる。雄叫びと共に繰り出される攻撃は速く、重い。そして正確だった。攻め立てられ続けてはまずい。だが、一度弾かれた隙に踏み込まれてしまったからには受けるしかない。このままでは力で押し切られてしまう。しかし望みはある。それまで耐えなければ。

 傷を受けた男の腕は、しだいに動きが鈍くなっていく。私の方が先に限界を迎えそうだったが、やがて好機は訪れた。剣を上げようとする男の動きが、遅い。ここだ! 渾身の力を込めて、剣を突く。

 私の刺突は、敵の腹部を貫いた。男が動きを止める。それでもまだ生きているようだったので、そのまま刀を捻って傷口を広げた後、引き抜くと同時に蹴りを入れる。男が仰向けに倒れて動かなくなったのを見て、ようやく息をついた。

 腕から胸元、腹までかけて、大量の返り血を浴びた。母子を守ろうとする男の、最期の抵抗か? さっきまでの彼の執念に、そう思わされた。


 周囲を見回すと、他の同胞たちもこの辺りの部屋を襲ってきているのがわかった。

「豊蕾! まだ片付いていないのか!」

 そう言いながら、同胞の男は部屋へ入ろうとしていた。先程の、母親と少年の居るところへ。

「……任せる」

 内心、ほっとしてしまっていた。私が彼女らに手を下さなくて済むのであれば、それに越したことはないと。情けない。同胞に顔を向けられない。

 私は更に奥の方へ歩いた。あの母子の悲鳴は聞きたくなかった。適当な部屋に入り、物陰に隠れている者を探すふりをしながら、箪笥や壺を倒して、音を立てた。


***


 敵の王族の首が入った桶を担ぐ同胞たちと共に、私は山道を歩いていた。深く生い茂った木々の合間を縫うように続くその道は狭く、一人ずつしか通れないほどだった。ごつごつとした石が地面の所々から突き出ており、足場も悪い。履物越しにでもその感触がわかるほどで、足の裏が痛い。

 日が昇り、森の湿気も相まって、辺りは蒸し暑くなっていた。桶から漂う死臭から、中の首が急速に腐敗していくのがわかった。体にまとわりつく汗、首の死臭、そして、服を絞った程度では落ちない、斬った男の返り血の匂い……それらが合わさり不快感となって纏わりついてくる中、ひたすら歩くしかなかった。

「豊蕾よ」

「……睿霤ルイリョウ

 同胞の男、睿霤が、歩きながら後ろから低い声で話しかけてくる。

 この男はあまり得意ではない。いつも私を小馬鹿にするような目で見て来るし、私を苛つかせるようなことばかり喋って来る。女の私が剣士として男共に混じっているのが気に入らないのだろう。確かに、男に比べて非力ではあるが、だからといってそこまで見くびられて良い気はしない。

 今も、きっと人を蔑むような目で見ているのかと思うと、振り返る気になれなかった。

「随分と手間取っていたな」

 人をあざ笑うかのような声色だ。振り返らないまま答えてやる。

「見ていたのか。あの男との闘いを」

「それではない。いや、それもあるか」

 喉の奥で笑い声を鳴らすのは、睿霤という男の特徴だ。二十歳で私より少し……いや、私が十七だから3歳上か……年上だからか、上から目線でものを言ってくるのには辟易している。今も、私の上げ足を取って喜んでいるのだろうと思うと腹立たしいことこの上ない。

「ではなんだと言うんだ」

 苛立ちを抑えつつ問うと、背後から鼻で嗤うような声が聞こえた。

「女とガキの方だ。女子供をお前は斬れなかったな……」

 ……こいつ、どこまで見ていたんだ? 思わず振り返ってしまう。奴は私より背が高く、肌は病的に白い。案の定、ニヤニヤしながら私を見下していた。私は舌打ちをしたくなったが、堪えた。奴に弱みを見せたくないからだ。

「機会を奪われただけのこと」

「どうだろうな。あの男を手早く斬っていれば、お前の手柄になっていただろうに」

「あの者はしぶとかった。すぐさま処理するなど……」

「できただろう。だが、お前がわざと決着を遅らせたのだ」

 わざと、という言葉が胸をかすめた気がした。当然、闘っている最中は、そんなつもりはなかった。だが、言われてみれば……守りを固めるあの男に対し、私の攻撃は、詰めの甘いものだったかもしれない……いや、違う。それよりも……。

「……あいつの気迫は凄まじいものだった。無闇に攻撃しては……」

 言い訳をするような口調になってしまうのが情けない。そして、そんな言葉を吐いてしまえば、睿霤は……。

「そうか、そうか」

 また、喉の奥からの笑い声だ。思わず息が漏れた。前を向きなおす。


 そのとき、つま先に硬い感触。足が地面に引っかかる! 体の向きを変える瞬間での出来事に、私は体の制御を失う。

 転びそうになったその時、何かに肩を抱かれ、引き寄せられるのを感じた。

 見上げると、黒い短髪の……睿霤だ。どうやら助けられてしまったらしい。

 しかし、この体勢はいただけない……まるで抱きしめられているようだ……そう思った時、肩を抱いていた手が離れたので、急いで距離を取った。

「……余計な真似をするな」

 自分でも驚くほど冷たい声が出た。すると、こいつはまた嫌な笑い方をするのだ。腹が立つ……!

「感謝の言葉もないか」

「黙れ!」

 声を荒げてしまったことに気付き、すぐに口を閉じる。落ち着け、落ち着くんだ。こいつの調子に乗せられてはいけない。

「まあ、良い」

 鼻で笑われる。何なんだ、こいつは!


***


 川伝いに歩いていた我々は、湖に辿り着く。見慣れた水面に映る太陽が、まだ正午より前であることを知らせてくれる。

 近くには、朱色の屋根に紅の柱を持つ大きな屋敷が建つ。我ら虞家が仕える王家の住まいである。

 長が、男の持つ桶の蓋を外しては中の首を見る。腐敗の具合を確かめているのだ。屋敷の主……王へ報告するために必要だからだ。すると、長は男から桶を取り上げた。

「報告に向かう」

 それだけ言って、長は横に長い階段を上り、屋敷へと歩いていった。早く首を持っていかなければ、腐敗により首の顔が判別できなくなってしまうと、長は考えたようだ。

 残った男たちは、疲労の声を上げながら、湖の脇にある川へ一斉に歩いて行く。体や衣服にまとわりついた汗、血、死臭を落とすためだ。私も、早くそうしたい。


 男達が歓喜しながら水を浴びている、その場所より、上流の方……大きな木が立つ場所へ、私は向かった。

 木陰に入る。風が涼しさを纏って心地よい。ここなら誰にも見られない。後ろの髪留めの紐を解くと、纏まっていた後ろ髪が下りた。腰の帯を解くと服の前が開かれる。そうして脱いだものは綺麗に畳んでから脇に置く。

 木の根の間には石鹸を置いてある。仕事を終えた我々があまりの悪臭を放つからと、王族から支給されているものだ。これのおかげで、毎日清潔な体でいられるようになったのだからありがたい。特にここに置いているこれは、男共の手垢が付いていないから気持ちが悪くないし、取り合いにならないところが良い。

 髪についた血を洗い流した後、体を洗っていく。川の水はとても冷たくて気持ちがいい。


 洗い終わる頃には、体は冷え切っていた。それでも火照った頭までは冷やせないようで、なかなか汗が引かない。私は裸のまま、少しの間、木陰で涼むことにした。

 一息、細く吐き出す。心が安らぐ。

 虞家の一員として働き始めた頃は、もっと男らと区別なくふるまうつもりだった。だが、結局は女扱いをされてしまうから、無理だと悟った。

 髪は男のように短くしてしまおうと考えていたが、伸びるのが早くて切るのが面倒になってしまったのでやめた。戦いの際は後ろで一つにまとめ、それ以外は、女と変わらぬ長さの髪を垂らしている。

 腕力もやはり男にかなわないので、剣技だけは負けないように鍛錬してきた。女だから弱いと思われるのが嫌だったから。

 しかし、今回、あの母子を斬れなかったことで、それも台無しになってしまったのだろうか? いや、あれは睿霤が、私に迷いがあったかのように言っているだけのことであって、本当に私が躊躇ったわけではないのだ。そう思いたかった。


***


 体を洗い、服を替えた我々は屋敷の前の階段に腰掛け、長の戻りを待っていた。

 皆、黙っていた。王族たちのおかげで皆生きているのだから、その屋敷の前で騒いだりすれば不敬にあたる。誰も喋らないという空気の中、川のせせらぎだけが聞こえていた。


 程なくして、あの死臭と共に、木の階段を踏みしめるぎしぎしとした音が聞こえてきた。首桶を持った、長だ。

 その細い目からは心情が読めない。前からだったが年老いた見た目となってからは特に感情に起伏が無くなってきていて、何を考えているのかわからない。我々としては心強い存在なのだが、時々不気味にも思えることがあった。

「今日は終いだ」

 端的な言葉を発し、そのまま長は階段を下り、座っている我々を通り過ぎていく。

「つまり、何だ」

「首が敵のものだって認められたってことだろ」

 同胞たちの言葉に長は何も語らなかったが、その沈黙こそが肯定を表していた。どうやらそのまま、無用となった首を塚に埋めに行くようだ。

 何人かの男が立ち上がって長を追いかけていく。長を手伝うためらしいが、あの長に雑用をしているところなんか見せたって、評価は上がらないだろうに。長が見るのは、敵を片付ける早さ、そして武のみだ。


「睿霤、豊蕾」

 すっかり、もう仕事は終わりかと思って息を吐いていた私の耳に、長のはっきりとした声が届く。長は階段から片足を降ろしてこちらに体を向けていた。

「話がある。そこで待っているのだ」

「……は……」

 不意の言葉に小さい声しか出ず、息をためようと吸ったが、私が反応したのを確認してすぐに背を向けて、再び歩いていった。

 一体、何の用だ? 私程度の者に長からの話があるなど滅多に無い。睿霤なら、まだわからなくもないが。

 まさか。睿霤の言葉を思い出す。母子を斬れなかったことを責められるのではないか? だが、長にはその場面を見られていない筈。

 もしや。周りを見渡す。睿霤は私より五段くらい上の階段に腰かけていた。その顔は、平然とした感じだ。何となくニヤついている気がするのは気のせいか?

「……お前……まさか……」

「どうした。何の話だろうな。楽しみだなぁ?」

 やっぱりこいつの仕業か! 怒りが込み上げてきたので睨みつけてやると、奴はますます口角を上げるのだった。


***


 私は屋敷……宮廷内の廊下を歩いていた。長を先頭に、睿霤に続いて。

 勘違いだった。私はてっきり叱責を受けるものと思っていたのだが……しかしそれならば何故呼ばれたのか? というか、紛らわしすぎるんだ、睿霤め! 後ろからたまに覗ける横顔を見るが、奴は素知らぬ顔で歩いているだけだった。こいつ……!


 だがすぐに私は心に穏やかさを取りもどす。廊下には長い長い絨毯が敷かれていて、歩くたびに足が沈むような柔らかさがある。天井は高く、廊下の両端には、夜に足元を照らすであろう赤い提灯が等間隔に置かれていた。窓からは陽の光が差し込み、壁に飾られた様々な絵画を照らしている。遠くに見える庭は手入れが行き届いており、花々の美しさを際立たせていた。風通しも良くなっているようで、時折爽やかな風が吹く。

 我々虞家に与えられた屋敷とは雲泥の差だ。住む場所が違うだけでこうも変わるものか。虞家の中にも、王族の側近としてここに住まっている者がいる筈だが、私には全く縁の無い話だ。そもそも、ここにいること自体、場違いであるというのに……。


 ふと前を歩く長が立ち止まった。睿霤も、私も足を止める。目の前の扉は開け放たれていて、中に広い机が見えた。木の椅子が数脚並んでいる。長が黙って入るので、私達も続く。

 中に入ると、部屋の奥側で、女性が一人、椅子に座って俯いていた。肩にかかるくらいの長さの髪に花の形の髪飾りをつけており、美しい服を纏っていたが、服自体に装飾は少なく動きやすそうなものだったので、ここの使用人なのだろうと思った。彼女はうつらうつらと眠そうにしていた。

 長がわざとらしく腰に下げた剣の柄を机にぶつけて音を立てたので、女性はハッと顔を上げる。目を擦っていたので、やはり居眠りをしていたらしい。眠たげな眼は優しそうだ。恐らく二十代で、睿霤よりも年上だろう。長は何も言わず、女性の前で仁王立ちをした。私と睿霤は、長の両脇に立つことになった。

「あ……失礼いたしました。どうぞ、おかけになって……」

 穏やかな声色で、女性は言うが、長は動こうとしない。

「よい。主殿との話は済んでおるのだ」

 長はそう言って彼女を制した。

「そうでしたね。それでは、ご案内を……」

「長。俺たちは聞いていない。その話とやらを」

 睿霤が口を挟む。当然、私も聞いていないから、長の返事を待つ。長は眉を上げ、左に立つ睿霤に顔を向けて話した。

「睿霤、お前は宮廷内で第三王子殿下に仕えよ」

「……ほう」

 王子に仕える……つまり、睿霤は側近として取り立てられるということか? 私は驚いたが、当の本人は冷静で、さほど興味を示していないようだった。こいつはこんなに出世欲が無い奴だったか?

 睿霤はこれまでの仕事で着実に成果を上げている。気に食わないが、私より優秀なのは確かなのだ。抜擢されるに十分だろうな。妬みはしないが……いや、少しはするかもしれないが……とにかく私は何も言えなかった。

「ありがたきしあわせ、とでも言っておきますか」

 嫌味ともとれる言葉を吐く睿霤に、長はただ鼻を鳴らす。使用人の女が二人を交互に見ていた。おそらく彼女には状況が掴めないのだろう。


「そして豊蕾。お前は第六王女の元で働け」

 前振りなく放たれた長の言葉。一瞬、理解ができなかった。私が、王女様の元で?

「私が?」

 思わず喜びの声を漏らしてしまった私を、長が横目で見ているのがわかった。私は口を押さえて俯く。

 まさか私も、王女様の側近になれるとは! 久々に何か認められたような嬉しさを感じた。男共に軽んじられていた中ではなかなかそんな気持ちにはなれなかった。知らないうちに、長が私を評価してくれていたのか。 大手柄などを立てたりした覚えはないが、きっとこれまでの積み重ねによる評価だ。

「女よ。第三王子殿下の元へ参る。案内せよ」

「かしこまりました。ではこちらへ……」

 女は頭を下げてから部屋を出ていく。長に促されて、我々も後を追う。


 つい、足が浮きそうになる。朝の暗殺稼業の疲れなど、気にならない。

「仕えるのが男でなくて良かったな」

 横から睿霤が不意に声をかけてくる。男でなくて……?

「どういう意味だ?」

 別に王子に仕えることになったとしても、悪くないんじゃないか?

「大した意味などない」

 そう言って睿霤は前を向いた。何なんだ? よくわからないが、嫌味ではないようだった。


***


 睿霤は長と共に第三王子の元へ行ってしまい、私は使用人に案内されるがまま、廊下を歩いている。長は一緒に来てくれないようだ。そんなに、睿霤が気に入っているのだろうか。それとも、私に期待していないということだろうか? 少し寂しい気もしたが、与えられた仕事を全うしようと切り替えることにした。

 それにしても、かなり長い距離を歩いている。第三王子の部屋が屋敷の中程にあったのに対し、今向かっている場所は、それよりも遠くに位置するようで、奥の曲がり角が小さく見える程に長い廊下が続いている。

「あの、どこに向かわれているのでしょうか……?」

 さすがに不安になり聞いてみると、使用人の女性は少し困った顔をした。

「王女様のお部屋は、端の方になりまして……」

「端? 王族の部屋が、そんな場所に?」

 不自然だ。端というのは侵入者にとって最も忍び込みやすい位置だ。王族の警護を請け負う身としては、真っ先に警戒すべき場所だった。

「ええ」

「何故?」

「それは……あの……」

 答えにくそうにしているところを見ると、言えない事情があるのかもしれない。

「教えていただけませんか? 気になるのです」

「あの……その……申し訳ありません……」

 立ち止まっては振り返り、頭を下げられてしまった。仕方ないか……王族には秘密が多いということかな。

「……わかりました」

 諦めて歩き始めることにした。無理に聞き出すのは良くないだろう。彼女も前を向いて歩き始めた。しかし、まだまだ歩きそうなので、別の話を振る。

「そういえば、貴女のお仕事は何でしょうか?」

 歩きながら尋ねる。すると、彼女はハッとしたようにこちらを見た後、慌てて答えた。

「申し遅れました。私は、このお屋敷で働いております、玉英イインと申す者です。主に女性の方々のお召し物の管理や洗濯などをしております」

 なるほど、確かに衣服が多く干してある部屋があった気がする。納得しつつ頷く。それからは、互いに軽く紹介をしながら、廊下を歩いた。


「こちらです」

 しばらく歩くと、ようやく目的の部屋の前に辿り着いたらしい。目の前には一枚の扉があった。横の壁には扉がもう一つある。恐らく、目の前の扉が第六王女の部屋で、その隣が侍女の部屋なのだろうか。だが、この辺りに他の扉は見当たらない。私の待機場所はどこになるのだろうか……?

菊花ジファ様」

 玉英が扉の前で声を出した。

 菊花様。私が仕える第六王女の名か。美しい響きの高貴な名だ。扉の先にいるのはどんな方だろうか。緊張してきた。

「はい、ただいま」

 扉の向こうから、子供のような幼げな声が返って来る。名前から想像していたよりも可愛らしい声だったので驚いた。お歳はいくつなのだろう? そんなことを思いながら扉を見ていると、ゆっくりと扉が開いた。


 中から顔を覗かせたのは、幼い少女だった。身長は私の胸くらいまでしかない。髪は明るい栗色で、それを二つの団子のように頭の左右で纏めていた。丸く大きな目の中で、漆黒の瞳が輝いている。肌の色は白く、まるで可愛らしさを体現したような顔立ちをしていた。赤色の煌びやかな服の輪郭に、彼女の華奢さが現れており、やはりまだ幼いのだと思わせた。十歳前後といったところだろうか? まだあどけなさが残っているように見えるが、きっと将来美人になるだろうと思われた。

 そして何より、笑顔がとても愛らしかった。花が咲くような笑顔とはこのようなものを言うのだろうと感じたのだった。

「あなたが、新しい護衛の方ですか?」

 少女はこちらを向き直り、嬉しそうに尋ねてきた。初対面なのに笑顔で接してくれるなんて、何と心優しいお方なのだろう。その笑顔に、一瞬見惚れてしまったが、すぐに我に返り、跪いて礼をした。

「お初にお目にかかります、虞豊蕾と申します。若輩の身ではありますが、誠心誠意努めさせていただきます」

「わたしは菊花と申します。よろしくお願いしますね、豊蕾さん」

 明るい口調で話す王女様。少し顔を上げて覗くと、そこには本当に愛らしい笑顔が……ん?


「え……?」

 顔を上げ切らずとも、その顔が見えた。王女様は、跪く私の目の前で、彼女もまたしゃがみ、床に膝をついているのが見えたのだ。ああ、愛らしいお顔……って、そうじゃない! たかが私などに、膝などつかなくとも……。

「どうかなされました?」

 そういえば、さっきからずっと、王女様は丁寧すぎる程の言葉で話している気がする。目下の者に対する態度ではないように感じた。

「王女様、ここは毅然とした態度でいなければなりませんよ」

 私の心を察したのか、玉英が言った。王女は目を丸くして彼女を見る。

「そうなのですか? 母上は、誰に対しても畏まらなければならないと仰っていました。だってわたしは……」

 王女が言い終わる前に、玉英がその口元を手で覆った。

「菊花様、それは言わない約束ですよ……!」

 小声で注意する玉英に対して、王女は口を塞がれたまま頷いた。

 何だかよくわからないが、とにかく、一点、正した方がいい気がする。

「あの……王女様」

「菊花で良いですよ」

「……菊花様。私の名前までご丁寧にお呼びいただけなくても結構です」

「しかし、貴女のお名前の立派なこと……。『豊』に『蕾』と書くのでしょう? 蕾む花が豊かに開く様子を表す字ですよね。とっても素敵なお名前だと思います!」

 目を輝かせてこちらを見る彼女に、私は何も言えなくなってしまう。ただ単に、母がつけてくれた名前を褒められるだけで嬉しかったのだが、こんなに真っ直ぐに言われると照れてしまうではないか……。頬が熱くなってきたのを感じ、顔を逸らしてしまう。

「……ありがとうございます……では、ただ、豊蕾だけでお願いいたします。豊蕾さん、ではなく、呼び捨てにしていただいて構いません」

「そうですか……わかりました」

 菊花様は納得してくれたようだ。ほっと息を吐く。

「それでは、改めて、よろしくお願い致しますね、豊蕾」

 そう言って差し出された小さな手を取りながら、私は言った。

「こちらこそ、よろしくお願い致します」


 菊花様との、出会い。

 何故か、とても特別なものに感じられた。

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