第11話

 原色の衣装が邪気の中でダラリと揺れた。

 青黒い手が邪気の中から掴み上げたのは、ピエロの仮装をした人間だった。相変わらずピクリとも動かないが、まだ生きているらしく霊気を感じる。

(そうだ……、鬼も霊気を食べるんだった……)

 さっき邪霊を吐き出したのは、霊気が含まれていなかったからに違いない。

 邪霊は人間の肉体を部分的に傷つけて霊気を吸い出すだけだが、そんな器用な真似ができない人鬼は、肉体ごと霊体を喰らうことで霊気を取り込む。そして、喰われた人間はたいてい致命傷を負って、命を落とす。

(マズいわ……。あそこまで鬼化しちゃってたんじゃ、もう自分が何やってるか、わからないはずよ……)

 鬼化すれば思考も理性も失い、ただ霊体の渇きを潤す為に霊気を求めて人間を喰らう。目の前にいる相手が友人だろうと、親兄弟だろうと、人鬼には区別がつかず、「霊気の入れ物」でしかないのだ。

(……べ、別に……、人間が共食いしたって、関係ないもん……!)

 野良猫の世界は厳しい。千世がまだ幼い頃、カラスや鷹がいつも空から狙っていたし、兄弟達は母猫の留守中に襲ってきた雄猫に殺された。

 あれから百五十年も経って、この国は随分と変わったが、身寄りのない弱い仔猫の状況なんて、そんなに変わっていない。

 それに比べれば、現代の人間は恵まれている。あの人間は運がなかっただけ。運悪くカラスに見つかってしまった仔猫のように、運悪くあの根付を拾ってしまっただけ。それだけだ。

(関係ないから……! 二人とも知らない人だし! 逆に、あいつが食べてる間に、外に出れば……っ)

 大きく裂けた口の隙間から猛獣のような牙が顔を出し、大量の唾液が零れ落ちる。同じような仮装をしているということは、一緒に祭りに参加した友人だろう。その友人すらわからなくなっているということだ。

(関係ないのに……!)

 イライラと唇を噛みしめた。

 目の前に跳ねてきた邪霊を裂き、アスファルトを蹴る。両手の爪を限界まで伸ばし、霊気を込めた。

『千世も現衆に入ったらいいのに』

 邪霊退治の報酬を渡しながら、よく世話になる先輩は真面目な顔をした。

『いくらご主人様との約束の為でも、そんなに熱心に人間のことを勉強するなんて、人間が好きじゃないと無理だよ。現衆に入って、人間社会で暮らしてみないかい? 共存生活も捨てたもんじゃないよ』

 そんなはずがないと思った。

 あの人が特別なだけで、他の人間がどうなろうと――!

「私の! バカああああああーーーーっ!」

 怒鳴りながら青黒い足を蹴り、鬼の顔面まで飛び上がる。

 蠅でも払うように迫る掌に爪を立てた。

 氷が砕けるような音と共に、緑色に灯る爪と鉄の臭いが散った。

 ――硬い!

 閉じる掌を思いきり蹴り、急降下しながら残る右手にありったけの霊気を込める。

 緑に光った爪が鬼の鼻先に食い込み――、硬い皮膚に突き刺さって折れた。

 喚きながら鼻を押さえる鬼の手からピエロが滑り落ちる。地面に激突するのを何とか寸前で受け止め、その重みでがくりと崩れ落ちる。足に痛みが走った。

 ――マズい……!

 両手の爪から生温いものが滴り落ちる。

 怒りに満ちた咆哮が聞こえた。

 鼻先を押さえていた鬼の手が拳になって迫ってくる。挫いてしまった足は動かず、爪から流れる血も止まらない。

 五月蠅いほどの幽霊の哄笑が、地獄から聞こえてきた死者の声のように思えた。

 ――私……、死ぬの……?

 こんなところで。名前も知らない人間なんか庇って。

 あの人との約束も果たせないで――?

『もう一度……、刀を持って……、戦いたいな……』

 百五十年前の声が蘇った。

 あの人は、最後まで戦おうとしていた。

 毎日のように血を吐いて、満足に歩けないくらい衰弱していたのに――!

 ――私も……!

 諦めて死ぬなんて、そんなみっともない最期を迎えて、あの世であの人に、どんな顔で会えるというのだろう!?

 胸元から引っ張り出した鈴を翳した。

 爪から流れた血が染みた木の鈴が緑に光り、けたたましく鳴り響く。

 鬼の手が怯んだように止まった。しかし、そこまでだった。

 木の実が割れるような音が無情に響く。

 鈴に亀裂が走り、真っ二つに割れた。音を鳴らす玉の代わりに緑に光る玉が転がり出て、邪気の中に消えていった。

 勢いを取り戻した拳が髪を揺らし――、寸前で黄色い光の壁に阻まれた。飛び散る黄の火花が周りを包む黄の光に同化して視えなくなっていく。

「え……、朝?」

 見渡すと、赤だった結界が消えて黄色い光に変わっている。新たな黄の結界は、千世が張った結界と比べ物にならないくらい強い光だ。

 絶叫がビリビリと空気を揺らした。

 黄色い壁に止められた巨大な拳が消える。

 両手で顔を押さえてのけぞる鬼から離れてゆく炎を纏った何かを、手足の痛みも忘れて目で追った。

 それは邪気の中を飛びながら、赤く燃える鷹の姿へと変わって千世の後ろへと去った。振り向くよりも早く、後ろからアスファルトを踏む音が聞こえた。

「驚いたなあ」

 聞き慣れた暢気な声の主を確認するなり、体が強張った。

「誰が結界を張ってるのかと思ったら……、まさかの千世さんかあ」

 邪気が立ち込める中に佇む望が、何故か、人鬼よりも邪物よりも恐ろしい化け物に思えた。

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