第2章  『ギンガムチェックの神様』⑩

 週の明けた月曜、朝7時半。


 老齢の化物にも見える新橋駅舎から、サラリーマンたちが吐き出される。月曜だ、今日からまた地獄の日々が5日間も続く、その顔は無言でそう言っている。


 いや、彼らはもはやそんな絶望にすら慣れてしまっているように見える。SL広場で偶然行き会った知り合いと笑顔で会釈し合い、視線の離れた次の瞬間には真顔に戻る。まるで、ロボットのような無表情。


 パンパンにふくらんだ営業バッグに引きづられるように、無数の飲食店とオフィスがキメラ的に融合した、雑多な街へと吸い込まれていく。


 HR特別室に向かう俺の足は当然、重かった。


 鬼頭部長から突然、HR特別室での研修を言い渡されたのが先週の木曜。明くる日の金曜から、俺はあの奇妙な部署で「研修」を受けることになった。


 オフィスのソファでいびきをかく室長、大企業の社長をエロオヤジ呼ばわりするおばさん。そして、キャップにロン毛という格好で客先に赴き、商談相手の社長に向かって躊躇なく「バカ」と言い放つイカれた制作マン。


 休日である土日を俺は落ち着かない気分で過ごした。予定を入れる気にもならず、普段なら絶対にやらないスマホゲームをやって過ごした。


 俺はよくわからない葛藤に苦しめられていた。原因はわかっている。HR特別室だ。クーティーズバーガーで見たあの「商談」、そしてHR特別室に戻っての「取材」、再度店に戻って開催された「バーガー対決」、さらには、その後に改めて行われた「求人広告の打ち合わせ」。


 たった一日、いや、ほんの数時間の中で目の当たりにした一連の出来事を、俺自身、どう捉えていいかわからずにいた。


 SL広場を横目に烏森方面に向かう。やがて、ニュー新橋ビルの角に作られた宝くじ売り場で、このド平日にスウェット上下という格好をしたオヤジがクジを買っているのが目に入った。どうみても社会不適合者。もしかしたらホームレスなのかもしれない。だが、そんな相手にさえ、店員の女性は満面の笑みでクジを渡す。


 あの店員は、本当にあの仕事がしたくてあそこにいるんだろうか。


 ふと、そんなことを思った。あの人は、どうしてあの仕事をしようと思ったのだろう。やりがいを感じているのだろうか。あんな薄汚い客に対して、なぜそんな笑顔を向けられるのか。


 ……なんだよ。何を考えてる。


 俺は自分にツッコミを入れる。たった一日、頭のおかしい制作マンに同行し、頭のおかしい商談を見せられただけだ。だいたい、保科があのあと社長から取った契約は、たった12万円だ。Webの社員向け求人媒体に、2週間の掲載。そんな新人1年目のような受注に、どれだけの価値があるというのか。


 一週間経ったら、俺はまたAAの営業一部に戻る。そして今までのように、大手企業を担当し、何百万もの規模の提案を行う。


 営業は、売ってナンボの職業だ。より大きな額の契約をとって、会社に貢献する。それが評価されて、給与は上がり、昇格もする。それが当たり前の世界だ。


――その会社のことを一生懸命考えて、一番いいと思うプランを本気で提案するのさ――


 先週、同期の島田に言われた言葉が頭をよぎった。ふっ、と鼻から笑い声が漏れた。偉そうに言うあいつも、小さな町工場に300万円以上の求人費を出させて喜んでるんじゃねえか。


 何が本気の提案だ。結局、俺と同じじゃねえか。


 営業は儲けた人間の勝ちだ。カッコつけてんじゃねえよ。



 エレベーターで7階に上がり、扉を開けた。


 入ってすぐのソファには宇田川室長がいて、俺を見るとにこやかに片手を上げた。


「あ、おはよう田中くん」


 誰だ田中って。この人はいつもこうなのだろうか。


「……村本です。おはようございます」


「ねえねえ、これ見た?」


 室長はそう言って、手に持っていた書類を指差す。


「……何ですか、それ」


 遠目でもそれが求人広告のプリントアウトだとわかった。AAでは営業二部や三部がよく売っている、地域密着をコンセプトとした求人媒体だ。俺たち営業一部がメインで扱う正社員向け媒体に比べ、価格帯はかなり安い。


 事例か何かだろうか。近づいて覗き込んだ俺は、目を見張った。


「これ……」


 このサイズの原稿には1枚だけ写真が入る。そこに写っていたのは、クーティーズバーガーの社長と、そして茂木だった。


「保科くんが作った原稿だよ。キミも同行してたんだろ?」


 まだどこか強張った雰囲気の社長と、打って変わって嬉しそうな笑顔の茂木。その写真の横には、「バーガーの神様が、戻ってきました」というキャッチコピーが添えてある。


 俺は思わず、室長の手から奪い取るようにしてそれを取ると、文面に目を走らせた。


<私は、勝つつもりでいました。>


 そんな印象的な文面で始まった原稿は、茂木の一人称で書かれていた。


<これで最後にしよう、そんな覚悟で臨んだ勝負でしたが、社長のつくったバーガーを食べた瞬間、私は負けを悟りました。いや、もしかしたら、私は食べる前からそれを予感していたのかもしれません。社長と二人並んで厨房に立ちながら、何年ぶりかに見るその手さばきに少しの衰えもないことを確認していたからです。>


 原稿はその後、クーティーがどういう店なのか、なぜ入社したのか、どういう想いで働いていたのか、という茂木自身の回想へと繋がり、やがて移転からメニュー刷新の話、一度は辞めようと決意したことなどが、赤裸々に表現されていた。


<私は多分、自分がバーガーに向き合う覚悟を持てていなかったことを、店から離れた社長のせいにしたかったのでしょう。そうやって、大切なことから目を逸らして、自分を正当化していました。でも、今回のことで気づいたのです。次は私が「神様」を目指さなければならない。社長にも負けないバーガーを作って、社長がそうしてきた以上の人たちを幸せにしたい、そう思っています>


 基本的に求人広告は原稿サイズと掲載期間によって料金が決まっている。今回AAが受注した12万円の広告は、決して大きなサイズではない。文字数制限は確か2000文字程度。だが、その原稿の隅々にまで、茂木の「ストーリー」が満ちていた。


<クーティーズは、今こんな状態です。それでもいいという方、私と共にバーガーに本気で向き合ってくれる方、まずは一度お店に来ませんか。面接より先に、まずは一口。それで伝わるものが、きっとあるはずですから。>


「なんだ……これ」


 思わず呟いた。こんな求人原稿など見たことがない。1人の「人間」をこれほどクローズアップし、それも、「高時給」「残業少なめ」「待遇面バッチリ」といった、求職者が聞いて喜ぶようなお決まりの文言も一切使わず、ただひたすらに当事者の「想い」を綴った文面。


――採用は、人間の話だろ――

 

 ふと聞こえた気がして、オフィスの奥へと視線をやった。壁に沿って配置された長テーブルの一番奥、金曜の朝にあの席でPCを操作していた保科の姿が思い出された。


「最後、見たかい?」


「……え?」


「そこ……ほら、採用フローのところに、社長の言葉がある」


 言われて再び原稿に視線を落とした。確かに原稿最下部、普通なら「応募→面接→内定」という事務的な内容しか書かれていない採用フローの項目に、びっしりと言葉が書かれてある。


<社長業に専念するあまり現場にほとんど立たなくなっていた私を、茂木という素晴らしい人材がずっと支えていてくれていたのだとわかり、あらためて採用というものの重要性を痛感いたしました。今後は初心に戻り、バーガーに対する情熱をベースにした採用活動を行うつもりです。まずは私が、そして茂木の本気で作ったバーガーを食べに来てください。それからじっくりお互いの考えを話し合いましょう>


「……どう思うかね、その原稿」


 宇田川室長はそう言って、奥のデスク――恐らくそこが室長の席なのだろう――についた。


「どうって……」


「うん?」


 まただ。また、心が乱されている。ここに来るとろくなことがない。


 営業は稼いでナンボ、そう再確認したはずだ。どういう内容の原稿だろうが、たった12万円ぽっちの契約が会社にどれだけ貢献できているというのか。それに、だ。そう、それに――


「……こんな原稿で、効果出るんですか」


 俺は言った。どんな個性的な原稿を出そうが、それで効果が出なければ意味がないではないか。効果が出ない原稿を掲載するなど、金をドブに捨てているのと同じだ。


「効果、か」


 宇田川室長は椅子の上で大きく伸びをして、天井を見上げる。


「何を持って効果と言うんだろう、山田くん」


「村本です」


 言い返しながらも、言葉の意味を考える。


「そりゃ……最終的には応募数です。ただ、Web媒体なんですから、まずはPVを稼がないとだめでしょうね」


「ほう、PVね」


 そうだ。俺の担当してきた大手企業は、応募数と同様、いやそれ以上にPVを気にする傾向がある。PV、ページビュー、つまりその求人広告が何度表示されたかを示す数値だ。


 常に求人広告を出しっぱなしの状況を「ベタで出す」「ベタ掲載」などと言うが、そういう顧客の場合、求職者がいつどの原稿を見て応募してきたかを厳密に管理するのは難しい。


 また、応募後の書類選考に時間がかかったり、面接のスケジューリングに手間取ったりするケースも多く、一定期間内の有効応募数を確定させるのは意外と大変なのだ。


 だからこそ、常にリアルタイムな数値として参照できるPVで効果を図るというのが習慣化している。


 俺はそういったことを宇田川室長に説明した。Webの原稿なのにわざわざプリントアウトして読む様子を見ると、室長はWebに疎いのかもしれない。


「まあ、営業一部の客と、ここの受け持ちの客は違うのかもしれませんけどね」


 皮肉を込めて付け足したが、宇田川部長はそれをどう受け止めたのか、ニコニコしたままこちらに視線を向けた。


「茂木さんにとっては、どうなのかなあ」


「……は?」


「茂木さんにとっての、あるいは社長にとっての効果、って何なんだろうと思ってね」


「……」


 思わず黙ると、宇田川室長はふふ、と声に出して笑った。そして俺をじっと見つめると、微かに目を細めるようにして、言った。


「なんとなく、鬼頭さんが君を送り込んだ理由がわかってきたよ」


(第2章『ギンガムチェックの神様』おわり)

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