第2章  『ギンガムチェックの神様』②

 奇妙な空間だった。


 広さは30畳程度だろうか。向かって右側の壁に沿って長テーブルが設置され、間隔をあけて3台のPCとチェアが置かれている。左側半分はミーティングスペースのようだ。一応オフィスらしき体裁はあるが、どこかおかしい。そう感じる一番の理由は、オフィス中央にどかっと置かれた大きなソファである。


 一般的なオフィスで見る角ばった革張りのあれじゃない、まるでOLの部屋にありそうな、モコモコした素材でできた真っ赤なソファなのである。そしてその真っ赤なソファの上で、薄くなりかけた頭をこちらに向けて、スーツの男が横になっていた。


「ううん……」


 物音で気づいたのだろう、ソファの上の男はそう呻くと、頭だけを上げてこちらを見た。瞬間、40代後半くらいの、ぼんやりした表情の男と目が合った。寝ていたのか、目が半開きで、状況が把握できていないらしい。


「あ……あの……」


 何を言えばいい。一体この状況は何なんだ。だいたいこのおっさんは誰なのだ。HR特別室の人間なのか?


「おや」


 俺の姿を認めたのだろう。男は目を細め、言った。次の瞬間――


「ほっと」


 気の抜けたような表情や小太りの体型が嘘のように、男はジャンプするようにして体を起こした。まるでアスリートのようなバネ。そしてそのまま立ち上がると、躊躇なく俺の前まで歩いてくる。


「ええと、君は確か……山田くん」


 突然のことにどう反応していいかわからずにいると、男は微かに眉間にしわを寄せ、「あれ、違う?」と首をかしげる。


「じゃあ、田中くん?」


「……いや、あの……村本です」


 何だこの人は。冗談を言っているのだろうか。


「ふうん……ええと、コピー機の業者さんだっけ」


「いえ……AAの営業一部から……」


「あれ、営業一部から?」


 やはりふざけているのだろうか。話がぜんぜん噛み合わない。


「あの……失礼ですが、あなたは?」


「僕? 僕は……」


 そう言って男はシワだらけの安そうなスーツをぱしぱしと叩き、「あれ、名刺どこいったかなあ」と、辺りを見回した。そして、ソファの奥にちょこんと置かれたデスクに近づくと、「ああ、あったあった」と手を伸ばし、そして俺の前に戻ってきた。

「はじめまして、宇田川です」


  営業畑の人間ではあるのだろう、男は慣れた様子で頭を下げると、名刺を両手で差し出してきた。反射的に俺もポケットから名刺入れを取り出したが、ふとその手が止まった。


 ……宇田川?


 覚えがあった。


 そうだ、鬼頭部長から送られてきたメールにその名があった。確か、HR特別室の室長と書かれていた。しかし……こんなわけのわからないおっさんが室長なのか?


 考えながらも、俺も名刺を取り出し、差し出した。男……いや、ここHR特別室の室長である宇田川は、柔らかい手つきでそれを受け取る。


「……営業一部」


 俺の名刺を不思議そうに見つめ、つぶやく。


「はい……あの、研修の件で」


 そう言うと宇田川室長は「ああ」と笑った。


「そういや、昨日鬼頭さんから連絡があったんだった。すっかり忘れてた。ごめんごめん」


 さもおかしなことのように笑う姿に力が抜けた。何が忘れてただ。あの恐ろしい鬼頭部長からの指示を忘れられるなんて、どれだけめでたい人なのだろう。


 だがそれでも、一応は話が通じたらしいことに俺はホッとした。とりあえずここがAAの一部署「HR特別室」で、俺が今日からここで研修を受けるということ自体は確かなことらしい。


「あの……それでどんな研修なんでしょうか。実はあまり内容を聞いていなくて……」


 目の前に立つのは、小太りでしまりのない表情。どこか島田を思い出すゆるい雰囲気の男。鬼頭部長には聞けなかったことも、この人になら聞ける。


 だが、宇田川はあっさりとこう言った。


「うーん、それが何も考えてないんだよねえ」


「……は?」


「まあ、もう少ししたらメンバーが出勤してくるはずだから、彼に同行でもしてみたらいいんじゃないかな」


 ちょ、ちょっと待て。なんで研修に来ていきなりアポなんだよ。普通はとりあえず座学じゃないのか。


「いや……あの……いきなり同行っていうのはちょっと……」


 だが宇田川室長は、俺の言葉が聞こえないようにぽかんとした表情で宙を見つめている


「あの……宇田川さん……?」


「ん、あ、ああ、ごめんね。ちょっと僕ね、寝不足なんだよ。もうすぐメンバーが来るから、彼にいろいろ聞いてくれ。僕はちょっと寝るから」


 驚きのあまり絶句する俺をよそに、宇田川は先程のソファに戻って本当にごろりと横になってしまった。呆気に取られて見ていると、すぐに小さなイビキが聞こえ始めた。


 いや、いやいや。いやいやいや。なんなんだここは。高校時代にやっていたサッカーの部室だってもう少し緊張感があった。とても社会人の素行とは思えない。だいたいこの部屋自体、仕事をする環境には思えない。


 ……やめだ。こんな所で一体何を学べというのか。もう限界だ。こんなふざけたところにいる理由はない。


 俺はつばを飲み込み、踵を返した。逃げるように扉に近づくと、ドアノブに手を伸ばす。


 その瞬間、外側から扉が開いた。


「あっ……」


 思わず声が漏れる。


 だがその語尾は「あ?」という疑問形に変わった。

 

 そこに立っていたのは、おかしな男だった。

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