第1章  『イタリアマフィアの爆弾』⑧

「なんだよそれ、意味わかんねえ。だいたいお前――」


 言いかけた時、デスクの上の携帯電話が震えた。今度は島田のではなく俺のiPhoneだ。


 頭が瞬時に切り替わり、反射的に手に取った。どこかの取引先が掲載依頼の電話をかけてきたのかもしれない。あるいはM社からの、やっぱり御社にお願いしたいという連絡か。


 しかし画面を見た俺は思わず唾を飲み込んだ。大きく息を吸い、やっと応答ボタンを押した。


「はい……村本です」


「俺だ、鬼頭だ」


 怒っている、瞬間的に思った。


 いつもの声じゃない。頭の回路がカシャカシャと稼働し、一秒もかからずひとつの可能性にいきあたる。


 例の件だ。そうに違いない。M社に切られた事が伝わったのだ。リーダーか、あるいはその上のマネージャーか。


 俺の予想は当たった。「M社の件、聞いたぞ」鬼頭部長は低い声で言った。


「は……すみません」


「何があった。話せ」


「いや……あの……」


 そう言われても、俺にも理由はよくわからないのだ。


 適当な企画を持っていったわけでもないし、準備を怠ったわけでもない。信頼関係づくりは完璧だった。今回の契約も、あとは上司に確認を取って判子をもらうだけの状況だったのだ。それが突然、よくわからない理由で一方的に切られた。


 そうさせたのは……競合の「本気の提案」。


 俺の説明は被害者じみた。当然だ。俺は何もミスなどしていない。できれば鬼頭部長にも、「なんだそれ、わけが分からねえな」と言ってほしかった。


 だが、俺の話を聞き終えた鬼頭部長は、いつもなら一つ二つ挟むジョークも一切混じえず、相変わらずの低い声で言った。


「で、お前はどう切り返すつもりなんだ、ん?」


 まるで脅迫。あのイタリアマフィア然とした風貌が頭に浮かぶ。


 だが……そもそも俺は「どう切り返すか」など考えていなかった。本気の提案。それが具体的に何を示すのかもわからないのだ。


「いや……あの……」


 口ごもった。島田の隣でそんな姿を晒すのは屈辱だった。そのまま言葉を失ったままの俺に、鬼頭部長は同情的だと聞こえなくもない長い溜息をつき、言った。


「村本、お前いま持ってるメインS、全部言ってみろ」


「は? Sですか」


 Sというのはスポンサー、つまりクライアントのことだ。単価が低く数で勝負するしかない営業三部だと一人あたり数百社の担当を持っているが、大手企業中心の営業一部は多くても三十社程度だ。その中でメインS、つまり安定的に取引のあるコアクライアントになれば十社を下回ることもある。


 わけも分からず俺は自分のメインSを言っていった。その数、十数社。


「よし、そこはお前の上にかけあってなんとかする」


「は? なんとかするというと……」


 俺の言葉を無視し、鬼頭部長は急に話題を変えた。


「お前、メール読んだか、研修の件」


「え……あ、はい、来月からですよね」


「明日から行け」


「は?」


「今日中にさっき言ってたSの状況をリーダーに伝えとけ。お前は明日9時からHR特別室に出社だ」


「ちょ……ちょっと待って下さい部長」


 相手が鬼頭部長だということで抑えていた苛立ちが、急激に膨れ上がった。余りの理不尽に携帯を握りしめる。


 明日から? 一体何を言っている。この人は現場のことを何も分かっていない。M社のことを知っているならなおさら、「すぐに他の会社を当たれ」と指示するのが上司じゃないのか。


「売上を落としたことは申し訳なかったと思っています。でもだからこそ、私はいま現場を離れるわけにはいきません」


 自然と口が動いた。そうだ、その通りだ。のんびり研修など受けている暇などない。当たり前じゃないか。


 だが、電話の向こうから聞こえたのは、予想に反した答えだった。


「誰が現場を離れさせるなんて言ったんだ」


「え?」


「お前は明日から、本当の現場に出るんだよ。……いいか、HR特別室はそう甘くねえぞ」


 そう言って鬼頭部長は、小さな笑い声を残し、一方的に電話を切った。


(第1章『イタリアマフィアの爆弾』おわり)

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