第1章  『イタリアマフィアの爆弾』⑤

 M社の自社ビルを出ると、ランチに出てきたサラリーマンやOLで街は慌ただしかった。有名な牛カツ屋の前には既に十人以上の行列ができている。並んでいる俺と同年代のサラリーマングループが、何がおかしいのか馬鹿笑いしているのを見て、殴りつけたいほどの怒りを覚える。


 俺は仕事を真面目にやってきた。1日3件も4件もアポが入り、あんな風に呑気にランチする時間などなかった。文句一つ言わず、会社の為に頑張ってきたのだ。社内研修や行事にも欠かさず参加したし、嫌いな上司の的はずれな説教にも夜遅くまでつきあった。それらのモチベーションが愛社精神でなく自身の評価の為だとして誰が責められるだろう。実際俺は、二十人以上いる同期の中でも常に上位の営業成績を上げてきたのだ。


 それなのに、なんだ。


 M社の女人事の言葉に、俺は結局何も言い返すことができなかった。あの冷たい表情が頭に蘇り、思わず悪態をつきそうになる。


 提案? 提案だって?


 何を寝ぼけたことを言っているんだ。


 営業の仕事は提案なんかじゃない。


 多くの大手取引先を抱える営業一部において、営業とはつまり「関係構築」だった。相手の機嫌を損ねないよう気をつけながら、出過ぎたまねはせず、無難な提案と土産を持って馳せ参じる。土産、つまり人事が欲しがる人材関係のデータは会社の共有データベースに山ほどあった。俺はその無難な提案書に土産を添えて、人事担当に献上する。一方人事は俺たちから受け取ったデータをうまく編集し、さも自分が苦労して見つけ出したもののように上の人間に提出する。


 「この営業マンは自分の出世に役立つ人間だ」人事担当にそう思わせたら、勝ちだ。名の知られた企業なら、どんな内容の原稿を出そうがある程度の応募数は稼げる。人事の仕事は、応募を集めて履歴書をチェックし、上に面接の依頼をあげる所まで。結果採用に結びつかなかろうが、それは面接を担当した上司の判断で、誰に責められるわけでもない。


 M社の人事が言ったことの意味が、俺にはわからなかった。「提案」なんて、どの求人メディアにいつ掲載するか、どんなオプションを付けるか、そして値段はいくらか、その程度のものでしかない。


 俺の250万円を攫っていったどこぞの会社は、一体どんな提案をしたというのか。安かったのか、掲載期間が通常より長かったのか、特別なオプションでもつけたのか。だが、あの女人事の言葉からはそういうニュアンスは感じられなかった。そうだ、彼女はこんなことを言っていた。そう、確か……


 本気の提案。


「はあ? 何言ってんだよ」


 思わず口から出た。聞こえたのだろう、前を歩いていたOLがぎょっとした顔で振り返った。

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