第1章  『イタリアマフィアの爆弾』③

 一時間ほどで企画書を仕上げ、早めにオフィスを出た。一人暮らしの部屋ほどもある大型エレベーターで一階に降り、エントランスを抜ける。


 俺が働くAAの本社は、東京駅八重洲口から徒歩一分の距離にあるオフィスビルに入っている。外に出ると、4月の晴空の下、たくさんの観光客グループの姿が目に入った。


 レンガの駅舎で有名な丸の内側ほどではないものの、春先という季節感もあってか、こちらの八重洲口でも旅行者たちの姿が目立つようになった。ダサい絵柄のTシャツに短パン、大きなキャリーバッグ、サンダル。明らかにリラックスムードの彼らに微かな苛立ちを覚えつつ、俺は足早に改札を抜け、駅構内に入っていく。


 旅行、観光。そんな無駄なことに金を使う人間の気がしれない。もっと生産的なことをすればいいのにと思う。見たところで1円にもならない観光名所を回るなら、自分の評価につながる接待ゴルフに行ったほうがましだ。


 小さな頃から「器用」「要領がいい」と言われ続けてきた。


 勉強も運動も、工作や絵も、少し頑張れば人並み以上にできた。文科省が主催する作文コンテストで賞を取り、表彰を受けたこともある。


 俺にとって世の中は、「少し頑張ればだいたいなんとかなるところ」だった。だからこそ、頑張ることすらしない奴が嫌いだった。作文で賞を取れたのは、どう書けば評価されるか考えて書いたからだ。俺ですら努力しているというのに、俺より能力の低い人間が努力しないでどうするんだ。つまらない観光などしている暇があるなら、ビジネス書の一冊でも読めばいいのだ。


 JR横須賀線で品川まで行き、港南口を出ると、渋谷や新宿に比べると明らかに広く感じる空と、そこにゆったりした間隔を保って建つ近代的な高層ビルが見える。かつてこのあたりには大きな食肉市場があり、どちらかと言えば暗い雰囲気だったのだと古株の先輩が言っていたが、とてもそんな風には見えない。


 アポイントまで少し時間があったので、俺は半地下にあるカフェに入り、コーヒーを飲みながら企画書の最終チェックをした。これから向かうのは、環境事業を手広く展開するM社である。資本金50億円、従業員数3000名。ここ数年は発電事業にも注力しており、目覚ましい成長を遂げている。


 事業が大きくなればそれだけ多くの人間が必要になる。結果、俺のような求人広告の営業に声がかかる。M社は俺のコアクライアントの一つだった。いや、売上規模や出稿頻度を考えれば、俺の最重要クライアントと言ってもいい。


 だからこそ、他のどの企業よりもパワーを割いてきた。頻繁に情報提供のメールを送り、人事だけでなくその上の部長陣にもお伺いの挨拶をし、時には版元に交渉して特別な割引施策を打ってもらったりもした。お歳暮や年賀状といった、今ではいささか古めかしく感じる習慣も大事にした。その甲斐あって信頼関係は盤石、「M社は村本じゃなきゃ担当できない」などという声も社内だけでなくM社側からも聞こえ始めていた。


「よし」


 俺は書類を見ながら呟いた。今日の企画書にも抜かりはない。今回の250万円の契約もスムーズに交わされることになるだろう。俺は安心して書類をバッグに仕舞い、コーヒーを口に含んだ。目を閉じてその苦味を味わったが、その行為がまるで鬼頭部長のようだと気づき、思わず苦笑いが浮かんだ。

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