PVC新宿 -死ぬほど好きだった人に「殺して」と頼まれた結果-

五味零

第1章

僕は昨日のPM11:20で43歳になった。年齢と体ならすっかり大人だった。なんならゆっくりと体力も気力も下降気味だ。


仕事の関係で新宿へ向かうために東急田園都市線に乗ったところだった。僕と一緒に乗り込んだ全身黒っぽい服を着た青年のイヤフォンから、数十年も前に流行った曲が低音をメインに音漏れしていた。


いま懐かしい曲を聴くことが若者の間でブームになっている。数十年前の若者たちもさらに数十年前の曲を格好付けて聴いていた。エモいという感覚があったのかどうかはわからない。


青年が聴いているそれは僕にとって思い出の曲というわけではなかったけれど、あの衝撃的な瞬間を思い出すには十分だった。僕は突然気分が悪くなって、乗り換えが必要な渋谷駅のホームのベンチで休憩することにした。


どこを探しても見つからない存在に僕はまた寂しくなった。薄めた墨に浸した筆を何往復もさせて仕上げたような曇り空を、ホームの屋根の切れ間に覗きながら、気づけば僕は涙を流していた。


どれだけ時間が経とうとも、イルミネーションライトで縁取られた吐き出し窓のワンルームをはっきりと思い出せる。アロマキャンドルの甘い香りが充満していたことも覚えている。それはかつて彼女が住んでいた部屋だった。


彼女のことを考えるとき、最初に思い浮かぶのがクリスマスを目前に飾り付けされたその部屋の光景だった。


白い床にココアブラウンの毛足の長いラグが敷かれていて、その近くには赤いツイード素材のスリッパが脱ぎ捨てられている。よく片付いたキッチンも白を基調としていた。流しにはクマの形をしたスポンジがぽつんと置いてあった。


細かなところまで思い出せるのに、その光景のなかにはなぜか彼女だけが見つけられなかった。四隅を暗く加工した写真のような視界で、僕は延々とその姿を探してしまう。


いつか、あるいは明日になるかもわからないけれど、僕が死んでしまったらこの記憶はどこへ行ってしまうのだろう。死ぬことよりも、体や頭のなかに蓄えられた彼女の思い出が失われてしまうことのほうが僕には怖かった。


僕はコートの内ポケットから手のひらサイズの黒い革の手帳を取り出した。彼女と僕のことが書かれている手帳だった。不安に襲われるたび、僕はこの手帳を開いて彼女の隣にいたことを思い出していた。





きずなはいつも死にたがっているような女の子だった。もう少し細かく言うと、誰かに殺して欲しいと願っていた。それがきっかけで出会ったのか、絆という人間が殺されたがっていたから僕のなかにもそういう欲が湧いたのかはわからない。


あの頃の僕は、彼女の願いをどうにかできるのは自分だけだと信じていた。


一度だけ一緒に食事に出かけたことがあった。中身が真っ赤なレアのステーキを目の前に据えて、僕は絆に申し出た。


「僕に君を殺させてくれないか」と。


自分の分のステーキをナイフで切っている最中だった彼女は手を止めた。


「だめ」


彼女はナイフを皿の上に投げ捨てた。食器がぶつかり合う音があまりにも耳に痛くて、僕は思わず目をつむった。周囲がざわめき始めた。目を開くと絆は向かいの席から消えていた。


店の出入り口のほうに目をやると、薄手のワンピースを着た後ろ姿があった。店に預けておいたコートも羽織らず、彼女は出て行こうとしていた。ついに一歩外へ踏み出すと、たちまち白い陽の光に飲み込まれて見えなくなってしまった。


そのあとようやく通じた電話で、どうしてだめなのかと聞いた。その問いに対して彼女は、本当の意味でわたしを愛していないからだと答えた。生きていて欲しいという思いを越えて、命を終わらせる手伝いをしようというのに、まだ足りないというのか。


一方で彼女は「殺してくれたら好きになってあげる」とも言った。僕は混乱した。


2012年12月27日に絆が亡くなるまで、彼女にとっての幸福とは何なのか、本物の愛とは何なのかを探し続けた。それ以降も答えは見つかっていない。


僕は絆が亡くなった日をずっと後悔している。彼女のたった一つの願いも完璧な形で叶えてあげられなかった。


もし僕があの食事の席で「生きていて欲しい」と言ったら、今でも僕は彼女の隣にいられたのだろうか。いや、あそこで僕が何を言おうが、彼女は受け入れてくれなかった。だってあの時点では、絆は僕のことをまったく愛していなかったのだから。

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