第45話 蛋白石-1

もったいぶっていたつもりはないが、楓が意を決した夜に限って智寿の夜勤が入ったり、シフトが合わなかったり、狙ったかのように生理が来たりと、二人の夫婦生活はなかなかスタート出来なかった。


添い寝クリアと、致す直前までの行為を体験したことは楓にとってはかなり大きな前進だったが、夫婦としては小さな小さな一歩である。


撮影見学で東京のホテルに一泊したあの夜、このまま抱かれてしまうのではと期待と不安が入り乱れた楓は、初めて知る他人から与えられる快感に、溺れて酔いしれて、意識を飛ばした。


あれ以来、そういった行為は一切なし。


スキンシップが少しだけ増えて、次の夜はいつ来るのかとドキドキしている間に智寿の仕事が忙しくなってしまい、楓が寝入った後で彼が帰ってくる日が何日か続いている。


まさか、智寿に、眠っていてもいいので起こして抱いてください、とは言えない。


そこまでの度胸も勇気もまだ持てない。


自分から仕掛けるだなんて、処女婚女にはハードルが高すぎるのだ。


その手の映像モノを見て勉強してみようかとも思ったが、リスキー過ぎて諦めた。


だって先に恐怖心を抱いてしまいそうだから。


とはいえ、いずれは出来れば子供だって欲しい。


まさか自分が推しの子をお腹に宿す可能性のある未来にたどり着くだなんて想像すらしていなかったのだから、ここまで来たこと自体が奇跡のようだ。


過去なし手つかず真っ新な状態で嫁いだことを正直に告白したせいか、智寿は一足飛びに本物の夫婦になろうとはしてこなかった。


いまは、匍匐前進並みにゆるゆると距離を詰めてくる楓を待ってくれている。


多分、あの台風の一夜が無かったら、こんな風に奮起することは出来なかったはずだ。


もう暫くは添い寝でいいやと思っていた楓の心を突き動かしたのは、彼の腕の中の心地よさを覚えてしまったせい。


新妻を一人にしまいと嵐の中帰宅してくれた旦那様の腕は、逞しくて優しくて、温かかった。


後生大事に取って置いたPrideBeと、送って貰った大量の写真データを放り出して縋りたいくらい、心地よかった。


そして、もっと彼の側に行きたいと、初めて思った。


とはいえ、月金勤務楓と、シフト勤務の智寿はなかなか休日が合わない。


イレギュラー対応で呼び出されたり、時には加賀谷の親族の集まりに呼ばれることもある彼は楓よりずっと多忙だ。


待ちくたびれた楓が先に眠ってしまうことも珍しくない。


朝が弱い旦那様を起こす前の数分間、じっくりと寝顔を堪能する余裕が出てきただけでも素晴らしい進歩な楓にとって、自ら智寿をベッドに誘う行為はかなりハードルが高かった。


だからといって、また次回と逃げてしまってはいつまで経っても二人は、名ばかりの夫婦のままだ。


今日こそはと決めた以上、何が何でも智寿をベッドに押し倒す。


何だか斜め上の覚悟を持って挑んだその夜、珍しく電車通勤をした彼は通り雨に当たって帰って来た。


本当は、玄関先で待ち構えておいて、勢いそのまま抱き着いてベッドに誘うつもりだったのだが、早速出鼻をくじかれた楓は、智寿にお風呂どうぞと促す羽目になり、結局最初の作戦は変更を余儀なくされた。


夕飯は済ませてきたという智寿に、わかりましたと頷いて、この後どうしようかと迷う。


彼が戻ってくる前にシャワーを浴びておいたのだが、今更それを切り出すのもわざとらしくて恥ずかしい。


いつものように冷蔵庫から缶ビールを取り出す智寿をまじまじと眺めていたら、妻の胡乱な視線に気づいた彼が、怪訝な顔を向けてきた。


「どうした?なんかあったのか」


「あ、いえ・・・別に・・・なにも・・・・・・お摘み、出しますね」


「ナッツでいいよ。それより楓も先に風呂入ってこい。明日も早いんだろ」


時計はすでに23時を過ぎてきた。


普段の楓なら、22時過ぎには入浴を済ませてリビングでテレビを見ているか、早々にベッドルームに引き上げてネットサーフィンをしている時間だ。


リビングの棚から缶に入ったナッツを取り出しながら智寿が促してくる。


「・・・・・・あ、はい。そう、します」


「・・・・・・なんか俺に言いたいことある?」


「え!?なななんでですか!?」


「そういう顔してるから」


射抜くような強い瞳を向けられると、身体が竦んで動けなくなる。


彼は多弁ではないけれど、その分楓の表情や仕草をよく見ていた。


「してませんよ!」


「ならいいけど・・・あ、あと、再来週の週末、空けといて欲しいんだ」


「あ、はい。普通に休みだと思いますけど、なんかあります?」


「清匡が嫁連れてくるから一緒に食事でもってさ。婚姻届けに署名頼んだ時もバタバタしてたし、あれ以来ちゃんと会えてなかっただろ?長い付き合いになるんだから、ゆっくり顔合わせくらいしておきたいって言われた。まあ、そうだよな」


「恵茉さん・・・でしたっけ?」


清匡に挨拶をした時に、今度はぜひ妻の恵茉も一緒に食事でも言われていたことを思い出す。


将来は加賀谷を背負って立つホテルマンの細君は一体どんな人なんだろう。


二人はお見合い結婚ではない、ということしか聞いていなかった。


「そう。清匡と巧弥の幼馴染。妹みたいな扱いだったんだけど、なんかいつの間にかそういう事になってたらしい。普通に可愛いいい子だよ」


「・・・・・・あ、はい」


ごく自然に智寿の口から飛び出した、可愛いの台詞に胸の奥がざわざわした。


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