5

 咲子さんが倒れて、今は警察署にいるらしい。

 夕方、リビングでうたた寝していると電話が鳴った。石動咲子さんのご家族ですか、と訊かれたので、妹です、と答えた。それから、事件があって、咲子さんはその現場にいて、といったような事情を聞いた。軽い説明だったから話はいまいち見えなかったけれど、迎えに行きますと言って電話を切った。

 スマホでルートを調べ、文庫本を鞄に入れて家を出る。咲子さんに買ってもらった小説。今のところ、そこそこ面白い。

 迎えに行っていいってことは、何かしたわけではないんだよね、きっと。

 バスに揺られながらそんなことを考える。文字が目の上を滑っていく。倒れたって何? ページが真っ白にぼやける。どうも私は、自覚以上に心配性だったらしい。

 本を閉じて、少し眠る。ブレーキで引き戻される。チカ、チカ、とライトが眩しい。また開いて、無理やりに読む。音を出さないよう、ゆっくりとページを破りとる。



 警察署に着くとお父さんが先客でいて、私を見つけて少し目を開く。

「結羽も来たのか」

 すまないな、とお父さんは言うけれど、何を詫びられたのかはよく分からない。わからないまま、うん、と応えた。取り出しかけていた文庫本を、鞄のなかに落とす。

「車?」

「ん。ああ。結羽はバスか」

「うん」

「結構かかったろ」

「うん」

 ちょっと迷って、お父さんの隣に座る。警察の人はあちこちでカリカリと仕事をしていて、部外者は私たち二人だけらしい。黙っていると、なんだか所在ない気持ちになっていく。

「咲子さん、大丈夫なの?」

「たぶんな。父さんもちょっと話を聞いただけだけど、なんかお姉ちゃんが死体をみつけちゃったとか、そんな話らしい。いま警察の人に話を聞いてもらってる」

「死体? 職場で?」

「ん、いや。出先みたいだ。出先ってのも、よくわからないが」

 死体か、と思う。思いのほか物騒な単語が出てきて、背中にじわりと汗が滲む。まだ現実感が追いついてこないけれど、心臓は、少し鼓動を速めていく。

 お父さんはどんな気持ちでいるんだろう。横目で顔を見るけれど、表情からはよく読み取れない。そうして、久しぶりにちゃんと顔見たかも、なんてことをぼんやりと思う。

 建物入口のガラス戸が開いて、外から人が駆け込んでくる。だいぶ焦っているようで、ちょっと転びそうになりながら、近くの窓口に向かっていく。スーツが膨らんで、風船みたいに丸い。私は、咲子さんがよく陰口を言っている人だと直感する。

「お父さん、あれ。咲子さんの上司の人かも」

「わかるのか」

「たぶん。なんだっけ……キダさん、とか、そんな名前の人だと思う」

「そうか。わかった、ありがとう」

 立ち上がって、お父さんは丸い人に話しかけに行く。反応を見るに間違ってなかったらしい。互いに頭を下げたのち、なにやら事情を説明しあっている。私はそれを、社会人のやりとりだなあ、なんて遠巻きに眺める。

 こんな時でもしっかり挨拶するんだ、なんて一瞬頭をよぎって、反抗期が過ぎる、と自戒する。私だってこうして座ったままで、心配で署内を駆け回ったりはしていない。

 ふっと息をついて、スマホを手に取る。鞄からイヤホンを出し、アプリを開いて、ポッドキャストを再生する。勧められて時々聞いている、スナックサイズの創作怪談。夜逃げで残された一軒家から、夜な夜な聞こえてくる不可解な音。正体を探る心霊ライターと、アルバイト助手の大学院生。

 オノマトペを巧みに操る語りに聞き入っていると、後ろから不意に肩を叩かれた。振り返ると咲子さんが立っていて、頭と手に包帯を巻いている。私は思わず息をのむ。

「えっ、それ、ケガ……」

「大丈夫、大丈夫。ちょっとぶつけただけだから」

「ぶつけ、って……」

 咲子さんが少しかがんで、立ち上がりそこねた私と目を合わせる。

「ごめんね、わざわざ。ありがとね」

 ううん、と首を振る。

 咲子さんは少し疲れたような顔をして、小さく口を開く。

「死体、初めて見ちゃった」

 視線がきゅっと横に流れて、悲しげな笑みを顔に浮かべる。

 気付くと私は咲子さんの手を取っていて、無意識的に、口から言葉がこぼれていく。

「初めてじゃ、ないでしょ」

 咲子さんは一瞬不思議そうに私を見て、それから、ああ、と目を細めた。

「そうだね。そうだ」

 ごめんね、と言って、私の頭に手を置く。ごめんなさい、と返す私のうえで、ポン、ポンと優しく手を跳ねさせて、丸い人のほうへ歩いていく。

 頭を下げる咲子さんと、大げさに恐縮する丸い人。私は少し俯いて、軽い自己嫌悪に溜め息をつく。一人なのに気まずいような、居心地の悪さが胸につかえる。

 責めるように聞こえただろうか。言わなくてよかった、こんな時に、お母さんのことなんて。そう思ってから、でも、と頭の中で独り言い返す。

 だって、言わずにはいられなかった。私は、それを憶えてもいないから。

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