其の四〇 俺と………願いは。弐

 最後の会話から一分が経った。

 はっきり言って、トロンの置かれた状況は、詰みと言って差し支えないものだった。

 左から飛び掛かれば、左手で薙ぎ払われ。

 右から行けば、右の拳が飛んでくる。

 上から行こうが、すでに対策されてどうしようもない。

 そして今、新たに遠距離からの氷片投擲を試してみるも、鬼の強靭になった外膜に触れた途端、弾けて消えた。

 そしてまた一瞬で詰め寄られ、狐は飛ぶ。


「………ギュァッ!」


 もはや声にならない。

 唯の空気を肺から出して、少年はまた前を見据える。

 現状一方的に痛めつけられているのはトロンだが、ナサニエルに痛手がない訳ではない。

 それは、

 そもそもの誘拐計画コンプリート予定時刻まで、残すところは十分もない。

 しかし今のナサニエルが心配しているのは、そこではなく、自分の妖力である。

 このまま行けば、残り一分もしない内に、自分は戦闘行動が取れなくなる。

 その事は、誰よりも他ならぬナサニエル自身が、最も強く実感していた。


 ―――そして、それを表に出さないでいられるほど、彼は冷静ではなかった。

 少年の目が、今まさに向かってきている鬼の顔に向かう。


「………」


 見た瞬間に、反射的に飛びのいた。

 すると、どうだろうか。

 十分体勢を立て直す時間はあった筈なのに、鬼はそのまま腕を振り抜き、その右腕は空を切る。

 そしてキョロキョロと辺りを見回し、少年が飛んだ方向を発見し、すぐさま追い掛ける。


「………」


 今の一合で、狐が先程から感じていた疑惑が立証される。

 まず間違いなく、今の鬼は冷静さに欠けている。

 自分のほうがまだ冷静であり、慎重に相手を翻弄すれば、隙は必ず生まれる。

 狐はそう確信し、少しずつ速度を落とした。


「………ハッ」


 右へ飛び、左へ跳ね、後ろに退り、上に逃れる。

 それをしながら、狐は思考を巡らす。

 例え相手に隙ができたとしても、此方にそれを活かす一手がなければ意味はない。

 普通に殴るのは効かないし、氷片も有効打にはならない。

 試してはいないが、恐らく炎も大したダメージは与えられないだろう。

 なら、残す手など、とうの昔に無くなって………


「!」


 そこまで考えた時に、トロンの頭に電撃が走った。

 そう、その手があったのだ。

 但し、未だ相手に見せていないと同時に、成功例も未だに無い。

 それをするには、あの大鬼に近付かねばならず、それは、正に虎穴に入ることを意味する。

 失敗する可能性は高く、そうした場合にはまず間違いなく敗北する。

 一度鬼の腕の射程に完全に入ってしまえば、まず免れられないだろう。

 だが、それでも。


 奏を救う為には、それ以外思い付かなかった。

 強敵であるナサニエルと言う男を倒し、奏の元に駆け付けるには、それしか無いとさえ言えた。


「………やるしかない、か」


 少年の呟きに鬼が反応する。


「何をだ! 貴様に、ッ、何が出来る!」

「いや………俺だって、隠し球の一つや二つ、あるかも知れないだろう?」

「虚勢を………ッ!」


 憎々しげに狐の少年を睨む鬼の目は血走っていて、とても冷静な問答など期待出来なかった。

 鬼の息は完全に上がっており、彼を見る顔にはあからさまな疲れが見え隠れしている。

 狐の少年にとっては、虚勢を張っているのはどちらなのか、正しく訂正したい所ではあった。

 消耗が激しいのは、向こうの方であろうに。


「ハ。どっちが………ァッ!?」


 鬼から逃げる狐が、苦悶の表情を浮かべる。

 この数分の間に受けた傷が、ここに来て痛んで来た。

 打撲、切り傷、骨折等………全身に刻まれた跡からは、鋭い痛みが襲ってくる。

 瞬間、狐は動きを鈍らす。


「………貴様、私を舐めているのかアァッ!」


 そこに、既に冷静さとは縁遠いナサニエルが到る。

 トロンは、必死に振り向いて反応しようとするが、当然ながら速度の差により、それは叶わない。

 右腕をギリギリまで引き、筋肉を盛り上がらせた腕が、少年の横腹を殴打する。


「ガ………ヵハァ………!?」


 最早外聞を気にもしない、鬼の腕は全力で振り抜かれて。

 その結果、轟音を響かせながら、トロンは森の間を飛んでいった。

 背中に当たる木々の重みが骨を折り、呼吸の度に胸が痛い事にその時気が付いた。

 鮮烈な音をさせ、空気を大きく振動させながら、トロンは何とか一本の木で止まることができた。

 内臓か何処かが傷付いたのだろうか、口からは赤色の液体が零れ出た。

 少年の手にこびりつき、離れようとしないそれには、謎のエネルギーが感じられる。


「ガ、ッ………ハァ、ハ、アッ………」


 狐は大きく肩で息をする。

 その度に痛む体から考えて、自分が戦えるのは、長くて残り一分だと理解した。


「………だから、どうした………ッ!」


 軋む身体を無理矢理動かし、四肢が動くかを確かめる。

 先程直接殴られた左腕は、少々厳しいだろう。

 脚も、最序盤から酷使していたせいで、最早、蹴るなど出来そうにない。

 右腕は………動く。

 多少痛みは感じるが、それだけだ。

 恐らく打撲が三箇所ほどあるだろうが、言ってしまえばその程度。

 なら、最後の一手の為に支障はない。


 鬼が此方へ歩いて来る。

 もう少年が立ち上がれないことを確信したからであろう、その姿は悠然としたものであった。


「………もう、いいだろう」


 それは一つの提案だった。

 少年と共に果たし合ったナサニエルだからこそ出る言葉。

 その言葉に込められたのは、今までのどんな拳に乗ってきたものよりも重い気持ち。

 飾りっ気のない率直な心配、気遣い。


「貴様は十分に戦った。そのことを誰が責められようか」


 そんな言葉で相手が止まらないことは理解していた。

 それでも、腕力による止めは、まだ刺さない。

 その上で、僅かにも程がある残り時間を大幅に無駄にして、少年に対して語る。

 鬼の目には、少々の水が溜まっていた。


「あの少女の待遇については私が口添えしておく。出来る限り衛生的な環境に置いていただけるように、直訴する―――だから、貴様は―――」


 それでも、鬼は歩みを止めない。

 全身に回している妖力を止めない。

 語る言葉を止めない。

 振りかぶる手を止めない。


「ここで死んで行け、ッ」


 鬼が、腕を振り抜いた、その時。


「―――すまん。それは出来ない相談だ」


 右手を振りかぶりながら笑う狐は、一瞬にして立ち上がり―――否、立ち上がってはいない。

 引きずられるようにして床を這ったのだ。

 どうやって?―――決まっている。

 風に吹かれただけの話。


「―――貴、様………!」

「そしてありがとう、お陰で息が戻ったよ」


 では、そこに回す妖力を、どこから調達したのか?

 決まっている―――身体を護る妖力の一切を解除しただけの話。

 殴ったり殴られたりした際には当然ながら痛みが生まれるが、そこはそれ、これはこれ。

 地面の草本で切られた手足の、旋毛風つむじかぜのような痛覚さえも、今の少年の意識の外だった。



「―――喰らえええええぇぇぇぇあああああぁぁぁっっっ!!!」



 少年は、右腕を振り抜く。

 大きく振り抜かれたそれには、ナサニエルのそれよりも威圧感は感じられないし、そこに鬼のような追加効果があるわけではない。

 しかし、それには、異常なまでのがあった。

 その速度は、どこから来たのか。

 それは、顔の引きつり、筋肉のこわばっている狐の少年の表情から察せられる。


 彼がやっているのは、単純な集中。

 体中の神経を右腕の肘に集中し、それを動員して、風を発生させる地点と向きを設定する。

 そして、今の身体の残存妖力のすべてを巡らし、右肘に回す。

 斯くして、少年は彼史上最高の出力を出せている。

 しかし、それは途方もない綱渡りであった。

 妖力の集中に時間がかかったり、残っている妖力量が少なかったり、全ての妖力を回しても威力が足りなかったり、拳を外してしまったり………上記のいずれかを満たしてしまった場合は、即刻仕合が終わる。

 ナサニエルの拳の前に、為すすべなく意識を刈り取られていただろう。


 だが、今は、奇跡的に成功し。


「―――嗚呼嗚アァァァァァアアああッッッ!!!!」


 トロンは叫ぶ。

 己のすべてを賭けて。

 そして、これから手に入れる予定の未来全てを。


 自分の真下から飛来するトロンの拳に、ナサニエルは対応を迫られる。

 一瞬も気が抜けない、緊張感そのものともいえるこの場面で―――鬼は、瞳を閉じた。

 それは、《模倣加速・鬼魂解放》の効果時間の終了であったから。

 そして、目の前の少年の想いが、今の自分の願いに負けず劣らず、いや若しかすると自分のソレよりも大きいと、分かってしまったから。




「―――嗚呼あああァぁぁッッっっ―――!!!!!」




 真下からフックで放たれた拳は、凄まじい速度で鬼の顎を捉える。


 刹那の間、鬼の首はそれに抗おうとして―――まもなく、鬼の意識は消えていった。




「―――――――――」


「―――ハ、はぁ………悪いな………俺にも、譲れないものがあんだ………」








 白九尾:トロン




 最後に一言だけナサニエルに残し、俺はその場を後にする。

 ………本当に恐ろしい相手だった。

 何よりも濃厚な殺気と、一撃でも喰らえば確実に瀕死状態になるだろうその能力が、俺の精神を異常な勢いで摩耗していった。

 あの右腕にはもう、二度と触れたくない。


「ハァ、ハァ―――」


 必死に息を落ち着かせる。

 奏に会った時に息が切れていたら、格好が悪いから。

 と言うよりも、急ごうとしても体が言うことを聞かないのが大きいけれど。

 風の妖術でも使って一瞬で移動したいぐらいだが、さっきの一撃で、完全に妖力を使い果たしてしまった。

 ―――本当に、俺はまだ、実力不足なのだ。




「―――あ………」


 奏の前に躍り出る。

 心配させまいとして、無理やりに元気にふるまおうとして。


「大丈夫だったか? 酷い事されなかったか? ああ、服は大丈夫そうだな───

 ―――もう大丈夫だ、帰ろう」


 そして、紐をほどく。

 本当に柔らかく巻いてあったそれは、なんとも簡単に外す事が出来た。

 パサリと音を立てて落ちるロープを見て、奏は最初に手をにぎにぎして。

 そしてすぐに。


「―――ごめん、な、さ、い………っ………!」


 俯き、大粒の涙を流して、謝罪の言葉を流した。

 奏の慟哭に俺は何も言うことは出来ず、汚れていなかったハンカチを取り出した。

 涙を俺のハンカチに拭われながら、奏は嗚咽交じりに告白する。


「私の、せいで………トロが、危険、な、目に………何も、出来ずに―――!」


 その姿は、さながら神に向かって懺悔する聖女のソレで。

 不謹慎にも、俺は見惚れて一瞬だけ、次の行動が遅れた。


「大丈夫だ。俺ならほら、こうして元気に立ってる。俺にとっては、奏が無事でいることの方が、ずっと、大事だから」


 彼女の嗚咽に紛れながらも、しっかりとした声で告げた。

 俺の言葉が、奏に聞こえたのかは分からない。

 だが、彼女は謝罪の言葉を述べるのをやめて。


「―――うぁぁぁ………あああぁぁぁあああっっっ―――!」




「―――大丈夫だ。これからはずっと、俺が守るから」


「………う、ん―――約束」

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