第2話 兄

 お盆に兄が里帰りした。その時、兄は私のことを予想以上に気にかけてくれていて、私が好きそうな東京のお菓子をわざわざ買って来てくれた。今までは、家族全員に箱菓子一個買ってくるだけだったのに。人が変わったようになっていた。

 兄は冷たい人で、私は遊んでもらった記憶がほとんどない。5歳も離れているから、幼い頃からそっけなくて、喋ることすらほとんどなかった。私が大学の時に、東京に遊びに行きたいと言うと断られ、ホテル代が払えなくて、行けなくなってしまったこともある。その他にも、原宿にしか売っていない、当時はやっていた物を送ってくれるように頼んでも、兄はシカトしていた。だから、病気になると、普段は嫌な人でも、優しくしてくれるものなのかと驚いた。


 そして、兄はわざわざ私の部屋にまでやってきた。


「体調はどうだ?」

「まあまあ。安定してるよ。今、経過観察中」

 兄は私の体調について色々聞いてきた。心配してくれているらしい。

「お前はたった一人の妹だから、体を大事にしろよ」

 兄の思いがけない優しさに私は泣いた。兄もつられて泣いていて、その時、兄に対する見方ががらっと変わった。意地悪に見えて、実は優しいところもあるんだと。ツンデレと形容される人々に魅力を感じる人が多いように、たまに優しさを見せると、普段、飢えさせられている分のめり込んでしまうらしい。その時の私は、完全に世の対人関係からはみ出していたせいで、兄に100%依存してしまった気がする。例えていうなら、赤ちゃんが親なしで生きられないようなものだろうか。


 兄は毎日私の部屋に来てくれた。いよいよ、明日帰ってしまうという日、私は寂しくて精神的に不安定になっていた。兄に追いすがって「行かないで」と、言いたいくらいだった。


「よかったら、東京に来ないか?」

「え?私なんかに仕事あるかな?」

 私は口ではそう言いながら、その提案に飛びついた。

「あるよ。正社員で働いてた経験もあるし」

「そうかなぁ」

「東京ならいくらでも仕事あるよ」

 兄は笑顔でそう言った。私は即決した。こういうのは田舎あるあるだと思う。アメリカンドリームならぬ、東京ドリーム。行けばすべてが好転するかのような錯覚を起こしてしまう。


 両親に話すと、嬉しそうだった。引きこもりの私が外に出てくれるなら、きっかけは何でもいいのだ。驚くほどトントン拍子に話が進んだ。東京の病院に持っていくために紹介状を書いてもらって、兄の家に住民票を移した。勤務先には兄の家から通い、しばらくして貯金ができたら、引っ越すつもりでいた。仕事は、選ばなければ、いくらでもあるようだ。派遣やコールセンターの仕事もある。


「東京は家賃が高いから、ずっといればいいよ」

 私の上京前に兄は気前よく言っていたが、実際に兄の部屋に行ってみると、間取りは6畳一間の1Kだった。しかも、シングルベッドしかない。兄と1つの布団に寝るのは狭くて無理だと思ったからそう言うと、わざわざ布団を買いに行ってくれた。本当は気持ち悪いからなのだが、さすがに言えなかった。


 初日の夕飯は兄が鍋を作ってくれた。移動で疲れていたからありがたかった。卓上コンロがないから、鍋をテーブルに持って来て、器によそって食べるだけなのだが、美味しかった。

「美味しい!」

 私は心からそう思っていた。

「そうか?スープは市販のなんだけど、口に合ったんだったらよかった」

「やっぱり、人に作ってもらったものはおいしいね。お兄ちゃんの手料理を食べる日が来るとは思わなかった」

「だろ?でも、こっち来て一人になったら、仕方なくやるようになった」

「だって、台所にいるの見たことないもんね」

「電子レンジで作れるもの以外、作ったことないし」

「だよね。部屋に自分用のカップ麺を買って置いてたしね」


 高校生だった兄のことを思い出す。共働きの母がご飯を作らないで仕事に行ってしまった時は、自分だけカップ麺を作って食べていた。頂戴と言っても、「金払え」と言って、タダではくれなかった。人は変わるもんだ。


 兄は普段、黒ぶちの眼鏡をかけているのだが、外すとわりとカワイイ顔をしていた。喋ると八重歯が見えて特にそう思った。兄の顔をまともに見たことはなく、ずっと苦手だったが、最近は家族の中で唯一頼れる人になっている。それでも、兄と6畳の部屋で同居は微妙だった。暑苦しいし、兄弟とはいえ異性でもあるからだ。


 兄はアニメ好きで、二次元のエロ漫画をたくさん持っているらしいということを母から聞いていた。どうやら、好きなジャンルは妹とエッチなことをする話らしい。中学生の時から高校にかけて、母から気を付けるようにと言われていた。今、こうして兄の元に送り出されたと言うことは、母はそれすらも放任するつもりらしい。


 ***


「俺は床に寝るから、お前はベッドで寝ろ」

「ありがとう」

 以前の兄なら、お前が床に寝ろと言っただろう。なぜ、急に優しくなったのか聞くと、私が病気になってから、何もしてやらなかったことを後悔したからだと言っていた。


 もし、本当にそうなら、私の癌も無駄ではなかった••••なんて思うはずはない。私の救いようのない人生に、兄という、副産物が現れたにすぎない。全然価値のないカスのような男。でも、兄は優しかった。


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