偲び猫の午睡あるいは白雪姫メソッド

よなが

前編 

 米倉鈴音よねくらすずねは舟を漕ぐ。

 うららかな春の日差しを受けて、こっくりこっくりするのがわかる。真後ろに座る私の視界にはほとんど常に彼女が在るのだから、否応なしに気がつく。昼食後ばかりではない。確かに昼食後はいっそう力強く舟を漕ぎ、場合によっては沈んで音沙汰なしとなるが、しかし一時限目から六時限目までよくよく漕いでいる。どこにも、そうだ、夢の世界にさえもそのままでは辿り着けないというのに漕いでいる。睡魔に抗う意志は多少あるらしい。

 端的に表現するなら、いつも眠そうにしている高校二年生女子。それが米倉鈴音である。無事に進級してから半月余り、私が実感として知る彼女のパーソナリティはその眠気しかない。外面上、彼女は美人の部類に属する。充分に。キレイかカワイイかで言うなら後者。眠たげなかんばせも、チャームポイントとして受け入れられている。とはいえ、私は彼女を真正面からまじまじと見つめたことはない。目にする機会もあるというだけ。後ろ姿であれば一番眺めている。きっと。

 そして彼女はいわゆる癒し系とみなされており、猫に喩える声も耳にした覚えがある。私の前で揺れるショートボブ。薄茶色。私はそうした名前や特徴を組み合わせ、彼女をアメショーと心の内で呼んだ。秘密の呼称は一人の秘密である限りは、彼女との仲を深めることは決してない。彼女との距離を一ミリだって近づけない。物理的には、いつだって手を伸ばせばそこに在るというのに。もしも親しい間柄であったのなら、舟漕ぎとなっている彼女の背を軽くつついて、河川や海原から皆が足をつける陸地へと引き戻すことができただろう。あるいはいっそ、とも考える。枕を用意しておいて、さぁさぁ、これをお使いになさってと勧めてしまえば、彼女を夢の世界に導くこともできただろう。無論、空想に過ぎない。

 彼女が舟を漕ぎだすとき、私もまた妄想に耽ることが多くなった。

 弁当を持参しているらしい彼女に対して、私は専ら学食で済ます。昼休みに彼女が友人たちとどんなおしゃべりをして過ごしているのか、笑い声をあげているのか、食事中でも眠そうなのか、どんなおかずが好きなのか、そういったことはまるで知らない。知りたい、と少し思う。なんとなく。つまりは彼女と仲良くなりたい心はあって、けれども私は学食に行き続けている。それなら授業と授業の間にでも話せばいい。理に適っている。事実、何度かそのタイミングで彼女と話したことはある。当たり障りのない話。今日は天気が良いね、とかそういうの。続かない。

 元来、人見知りであるゆえ、親交は不得手である。一年生の頃からいっしょであれば違ったかもしれない。入学直後の慣れない環境下では繋がりを求めている子たちばかりだったから。私ときたら、同じ中学から進学してきた子たち二人とクラスが同じになってそれだけで喜び、安堵していたのだった。わざわざ勇気を出して新しい友人を作ろうと思わなかった。彼女たちには、作っておかないと後になって苦労するよと忠告を受けていたにもかかわらず。

 結果、進級して彼女たちと離れ離れとなってから、私は教室で独りであった。

 真、因果応報とはこういうことである。

 

 放課後に私は第二美術室へと足を運ぶ。そこが美術部の活動場所だ。授業で使われるのは第一で、そちらのほうがずっと広い。美術は選択科目だからそんなに多くの生徒が入ることもないだろうに。

 美術部を選んだのは、単に絵を描くのが好きだったから。得意ではない。描いた絵をネットにアップするようなこともない。デジタルに自分が対応していない。入って半年は鉛筆一筋だったのが、それからアクリルカラーに挑戦し始めた。きっかけは何年か前の卒業生が置いていったほとんど新品に等しい一式を使っていいと顧問に言われたこと。色一本でもけっこうするのに、もったいない。

 ちなみにその顧問は週に二日、特定の曜日にしか来ない。非常勤講師であり、他の曜日は別の専門学校なんかで働いているのだと聞いた。 

 結局、私は気ままに描いているだけだ。モデルはおおよそ無生物に限定されている。花は描くことがある。けれど、小さな虫がついているとそれだけでげんなりしてしまう。動きのないものをこちらも最低限の動きで描くのが性に合っている。「ダイナミックな動きを捉えるのが醍醐味なのに」と私にあれこれ絵以外にも教えてくれた先輩はつい先日卒業した。そもそもダイナミックって動的って意味ですよ、と小生意気に言い返したのが懐かしい。アクリルカラーを使い始めてからは空想を形にするのも多くなった。それを使ってただの椅子や机を描くのはつまらなく感じたから。

 高校二年生になって、消極的な新入部員勧誘が済み、部内が落ち着くとどうも私の創作意欲も落ち着いてしまった。むしろ、落ちて底に着いた。スランプ、そう表現するには調子が良かった時世がいるが、省みてみれば筆が乗った試しはほとんどない。気ままであるというのは、いいかげんさを精一杯肯定的にみているだけだった。

 アメショーのせいだ。

 私は筆が止まったままなのを米倉鈴音のせいにする。思い浮かぶのは背中だけで、それに何だかイライラしてしまう私がいる。


 ゴールデンウイーク明けの放課後だった。

 帰りのHRが終わって私はバッグを持って立ち上がる。美術部にまっすぐ向かうため。もとより活動熱心な人たちが集まっている場ではないが、それでも私の居場所だから。前の席を見やる。アメショーが机に突っ伏している。ほんの数十秒前まではまだ舟を漕いでいたはずだった。終礼と同時に糸が切れたみたいに眠りに沈んだみたいだ。一瞬、声をかけようとした。かけたくなった。でも、やめた。寝かせておいてあげればいい、そのほうがいいと自分に言い聞かせた。彼女の友人が彼女を放っておきはしまい。その人たちに任せればいいんだ。ぜんぶ。

 何か心にもやもやを抱きつつ、美術室へ赴いた。新しく入った一年生の男女が楽しげに話していた。単語をいくつか拾ってみるに、漫画かアニメの話みたい。こちらに気がつくと、揃って頭を軽く下げる。そしてまたすぐに話に戻る。わずかに声のトーンを落として。

 風紀の乱れをテーマにした抽象画を、キャンバスにそのまま下書きなしで絵の具をぶちまけて描いてやろうかという気になったが、思いとどまった。短気は損気だ。寛大な心が世界を、そして自分を救うと信じるべきである。それにそんなアーティスティックな態度を見せつけたら、いたいけな新入生が臆して、どこかへ去って愛の巣ごもりを始める可能性だってある。それはいけない。

 三十分近く経過して、私の前にはまっさらなスケッチブックがあるだけだった。鉛筆すらも動いてくれない。勝手に動き出してくれればいいのに、と思いさえする。退屈だった。見事なまでに屈していた。心地よいい場所であるはずなのに、ここは侵されているのだ。間違いない。例の新入生でもなければ、私以上に影の薄い先輩であったり、学校自体をサボりがちな同級生の部員でもなく、彼女に。

 モデルを探しにいってきます、と告げる適当な相手がいなかったので、とりあえずスケッチブックと筆記用具一式持って美術室を出た。誰も気に留めない。

 あてなく彷徨うつもりが、気づけば自分の教室にいた。

 アメショー、まだ眠っている?

 初夏の夕焼けは彼女の眠りを妨げずにいた。誰も彼女を起こしはしなかったのだろうか、私は教室内を見やる。誰も他にいない。ああ、なんてこった。こうも舞台が整えられてしまうと、かえって何もしたくなくなる。だって、そうではないか。放課後の教室にふたりきりなんてのは出来過ぎている。

 そんなわけで、私はしばし自分の席でいつもと同じく、彼女の背中を見ていた。丸められた背中。呼吸で規則正しく上下する。耳を澄ませば聞こえる寝息が私の心をざわつかせる。私はきょろきょろとあたりを見る。念のため、と開かれっぱなしのドアを静かにそっと閉めておく。席を移動する。彼女の斜め前を借りる。寝返り一つにびくびくしながら、さぁ描くぞとスケッチブックを広げた。冷静になったら負けだ。そうなったら今すぐ私はここを出なければなるまい。

 アメショーが悪いんだから。

 無防備な彼女、その寝顔を描いていく。その顔の一部は露わになっていない。唇はまったく見えない。腕で隠すようにして眠っているのだから。さすがに触れられはせず、彼女の寝返りに賭けることにする。もし起こしてしまったら――――どきどきした。本気で彼女が怒ったら、平手打ちでもかましてきたら、泣きじゃくったら、花についた害虫に噛まれたときのような表情をしてきたら、そんな想像すべてに胸が高鳴っていた。理由を深く追究したらダメだと感じた。気ままに。そうだよ、今はとにかくこの寝顔を絵にしてしまうこと。

 アメリカンショートヘアのシエスタ。そんなタイトルをつけて黒板に張り付けたのなら、大騒ぎになるだろうか。案外、しれっと外され、びりびりと破られて、おしまいかもしれない。鉛筆と空想とが進んでいく。坂道をくだるようにして、登り続ける。摩訶不思議な心境に、笑みさえこぼれて。

 ふにゃぁ、と小さく声をあげて彼女が顔を晒す。涎は流れていない。その口許を目にしたとき、私は鉛筆を落としてしまった。罪悪感に急に襲われたから…………嘘である、そうではない。私は見蕩れてしまった。なんだったら、その、ようするに、彼女の艶やかな唇に劣情さえ感じてしまった。そこにいるのは決して愛くるしい猫ではなく同級生の女の子であった。

 落下した鉛筆は床に当たって音を立てる。当たり前の現象だ。その小さな音で彼女が目覚めるのは予想外の事象だった。慌てる。が、見入ってしまう。何に? 大きく伸びをする彼女に。欠伸。私を認識して、さっと口に手を当てる。目をぱちぱちとさせていた。狼狽える。私が。どうしよう、無言で逃げたらいけないよね? 

 時として人はいけないことをするものだ。私は逃げようとする。鉛筆を拾い上げずに、スケッチブックを閉じて、抱えて、駆け出そうとする。


「待って、野々原さん」


悪運尽きたり。まず悪運など私にはない。

鈴を転がすような声、寝起きのくせして耳障りの大変良いそれに呼び止められてしまった。エスケープのスタートを切るために中腰となっていた私は諦念と重力によって再び椅子に座りなおした。


「こんなところで眠っていたら風邪を引いちゃう」

「そうだね」

「それに夜、眠れなくなっちゃう」

「うん」

「誰か悪意を持った人間が危害を与えるかもしれない」

「たしかに」

「米倉さんはここで眠るべきではない」

「なるほど。あっ、鈴音でいいよ」

「それじゃ、私はこのへんで……」

「ねぇ、ひょっとして私を描いていたの?」

「…………はい」

「見せて。権利、あるよね」

「正確には描こうとしたところだった。全然描けていない」

「ほんとうに?」

「完成していないのは本当」

「いいから、見せてよ。ね?」


ええいままよ、と私はスケッチブックを開いて、彼女に見せる。そのまま渡してしまうと違う頁もめくられそうなので、私はしっかりとスケッチブックを持ったままそうする。突きつける。彼女に自分の所業を示す。どうだ、まいったかと。スケッチブックを使って私の顔を隠しながら。

しかし、ぐいっと彼女が私の手からスケッチブックを奪取する。泥棒猫である。許せぬ行為である。制裁が必要である。が、私は祈るようにして彼女を眺めるほかなかった。彼女は絵を観賞する。そう言うに相応しい見方をしている。ただのスケッチだというのに、目を凝らしている。いや、もしかしなくても下手すぎるからそうしなければ、何が描かれているかわからない? うわぁと俯く私。羞恥だ。なんだこの状況は。誰のせいだ。私だ。


「聞いてもいい?」

「何を」

「顔あげて」

「……はい」

「どうして描いたの?」

「そこに寝顔があったから」

「寝顔を描くのが趣味ってこと?」

「ちがう」

「じゃあ、どうして?」


 顔が熱くなるのがわかる。だって、今たぶん初めてアメショーと真っ向から向き合って話している。それって理由説明になっている? なぜこうも緊張してしまうんだろう。人付き合いが苦手だから。うむ。何か足りない。決定的に。

 アメショーが悪い。そういう結論になる。どうもこの子が私を狂わせる。ゆるふわ小悪魔系キャットか。なんだそれは。


「ご、ごめんなさいっ!」


結論と違って、私が謝る。謝るべきはこちらであると理解はしていたから。第一声とならなかったのは、彼女が悪い。絵を見せてというから。感想ないのかな。欲しくはないけれど。


「え? あ、謝られても困るよ」


困惑。彼女はちっとも満足気でなかった。記憶を辿ってみるに、謝罪だけで満足している人はめったにいなかった。損害賠償? 示談金? でも、眠っていた彼女にも非があるんじゃないか。甘い罠だったのだ。そう考えてしまうのはどうだろう。


「ねぇ、実里みのりちゃん」


名前まで知られていた。意外だった。後ろの席の親しくない人間の名前まで把握している子だった。私が前の席の親しくない人間の名前を把握しているのと事情が違う。たぶん。というより、どうして急に名前で呼んでくるのだろう。やめてほしい。なぜだか胸の鼓動が早くなったから。


「あの、私、お金持っていないです。勘弁してください」

「ほしいなんて言っていないよね?」

「煮るなり焼くなりするがいい、なんて言わない。言質はとらせない。断固拒否。米倉さんにも責任があると思う。可愛い女の子が眠っていたら、そりゃ描くでしょ」


勢いで口走ったはいいが、恥ずかしくなって、立ち上がった。スケッチブックはまだ彼女の手の中。そんな彼女を見る。ぎゅっとスケッチブックを抱きしめるアメショー。言質はとられずとも、人質はとられてしまった。人ではないが気にしない。私はまたまた座った。次の一手は彼女が打つ。


「決めた。実里ちゃんに付き合ってもらう」

「何に?」

「私の眠りに」


アメショーは笑った。力なく。

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