第15話 初めて

 水澄先生は、注目する俺たちの顔を愉快そうに眺めて、口を開く。


「ふむ。これはまた面白い案件だね。

 アート作品の価値は、相場があるような、ないような、よくわからないものだ。通常の市場に出回る製品とはまた別。


 まず、私の主観で計るなら、色葉君のこの一枚の価値は、せいぜい五千円くらいかな。一人の女子生徒を描いただけのデッサンに、私個人はそこまで大きな価値を見いださない。


 次に、これを例えばネットで販売したとすると、二万円程度なら売れるかな。高い技術だけじゃなく、一枚の絵として十分に魅力的だ。


 八草さんは五万円と言ったが、八草さんにとってそれは妥当な値段だとも思う。何せ、自分が描かれた絵だからね。そこに、世間一般とは違った価値を見出すのも自然なことだ。

 逆に、あまりにも安いと、色葉君の腕を貶めていることになるのと当時に、自分のモデルとしての価値も認めていないことになってしまう。


 華月さんは十万と言うが、華月さんがそう思うのであれば、この絵にはそれだけの価値があるとも言える。世間がどうのではない。自分が十万円の価値を一枚の絵に見出すのであれば、その絵には十万円の価値があることになる。

 自分の恋人が描いた絵だから、という色眼鏡効果もあるだろうが、アート作品の価値はそうやって決めても何も問題はない。


 ちなみに、日向さんなら、いくらでこの絵を買う?」

「へ? わたしですか? うーん……とても素晴らしい絵だとは思いますけど、千円だったら買うかなっていうところです。わたしもそんなにお金は持っていませんし、どうしても欲しいと思うものでもありません」


 朱那と八草はムッとするけれど、水澄先生は淡々と続ける。


「日向さんの値付けも、何も間違ってはいない。この絵に世間的にどれだけの価値があるかに関係なく、日向さんにとっては千円程度の価値しかない、ということだ。


 アート作品は、誰にでも同レベルで価値が見出されるものではない。それでも、特定の誰かにとってかけがえのない価値があるのなら、その作品はとても尊くて素晴らしいものなんだ。

 色葉君も、日向さんの値付けを気にして、自分の絵に大した価値はないなどと勘違いしてはいけない。


 私たちは、事前に値段のついた商品に慣れすぎている。あらゆるものに、ある程度普遍的な価値があるとも思っている。


 しかし、実際はそうでもないんだよ。数十万円のブランドバッグだって、ある人にとっては相応の価値を感じるもの。でも、別の人にとっては高価すぎると感じるもの。


 アート作品は、その振れ幅が非常に大きい。大きすぎて、多くの人に『アートはわけがわからん』と思考放棄を促すレベルだ。


 というわけで、この絵の値段に最終判断を下すのは、作者である色葉君だよ。オークションなら客が勝手に値段を決めるが、今回は、君が売り手だ。売り手は、自分の商品の値段を自分で決める権利がある。


 いくらで売るのか、はたまた無料で譲り渡すのか。この作品を世に生み出した者の責任を、まっとうしたまえよ」

「……俺が、値段を決める」


 急にプレッシャーだな……。自分の作品に値段を付けるなんて、今まで考えたことがなかった。いずれ絵を売ることもあるだろうとは思っていたけれど、何となく相場の値段を適当に付けるものだと思っていた。

 相場云々じゃなくて、俺が、この絵をいくらだと思っているのか。

 見方によっては、俺は、俺の努力や技術を、いくらだと思っているのかということ。

 すごく、難しい。

 誰かに勝手に決めてほしい。

 いや、決めてもらうのであれば、それは八草が既に決めてくれている。

 八草の懐具合も影響しているとして、俺のデッサンの価値は五万円。

 ……ちょっと、高すぎるかな。直感的にはそう思う。

 だけど、それだけの価値があると、八草は認めてくれたのだ。

 お金が欲しいわけじゃなく……その評価を、真摯に受け止めてみたいとも思う。

 俺は、五万円の価値がある作品を描けた。それを喜ぼう。

 そして、五万円で作品を売ったという重荷も、背負ってみよう。誰かにとって価値のある存在として、これからも絵を描き続けよう。


「……わかった。八草さん、この絵、五万円で売る。本当に、それだけの価値があると思っているのなら」

「ありがとう。買わせてもらうわ」


 八草がニッと笑う。

 ……俺の絵が、初めて売れた。すごく嬉しい。昨日は朱那に喜んでもらえて、それはそれでとても嬉しかったけれど、金銭的な価値を見出してもらえるのは、また別の嬉しさがある。

 腹の底から、何か温かいものが沸き上がり、体中が震えるような……不思議な感じだ。


「……ありがとう。絵を買ってもらえたのなんて、初めてだ」

「初めてなの? ふぅん……なら、絵描き童貞は、あたしが奪ったということね?」


 八草が余計なことを言うものだから、朱那がいきり立つ。


「は? な、何を言っているの? は、初めて悠飛の絵を買ったからって、何か特別なことでもしたつもり?」

「ええ、特別よ。色葉は、これからもっと名を馳せることとなるでしょう。その中で、一番最初に色葉の絵を買ったのはあたし。この先、色葉は生涯あたしのことを忘れることない。お客様第一号としてね!」


 キキキ、と八草は妖怪めいた微笑み。朱那はそれを見てさらに目を怒らせる。


「こ、この商談はなし! って言うか! わたしが先に悠飛に描いてもらったもん! わたしがお客様第一号だもん!」

「お金の話はしてないんでしょ? そんなものは商売とは言わない。あたしがお客様第一号だというのは、未来永劫変わらない。今更昨日の絵を買うと言ったところで、商売成立の時系列は変わらない!」


 ふぬぅ! と朱那が形相を浮かべる。何をこだわっているのか、俺にはさっぱりわからない。

 お客様第一号なんて、こだわる価値があるとは思えないけど……。


「だったら、わたしがそのお客様第一号の称号を買う! 十万円で!」


 また妙なことを言い出した。


「んなもん売れるわけないでしょ。NFTじゃあるまいし」

「NFTにしなさい!」

「あなた、NFTの意味わかってるか?」

「なんとなく!」

「ブロックチェーンって知ってる?」

「な、なんとなく!」

「ふぅん……。怪しいものね。ま、とにかく、もう過去には戻れない。商談は成立よ」

「か、かくなる上は!」


 そんな言葉を使う人も初めて見た。

 朱那は鉛筆を右手に持ち、振り上げる。それを、俺が描いた絵に振り下ろそうとして……止まった。腕も体も、ぷるぷるしているけれど。


「悠飛の絵を台無しになんてできるかよー!」


 作品をダメにして、商談を破棄させようとしたらしい。それができず、朱那が絶叫した。

 少し驚かされたけれど、朱那が俺の絵を大切にしてくれていると思えたから、朱那を責める気も起きない。


「……朱那は、俺が初めて絵をプレゼントした相手だよ。この思い出も、一生忘れない。それじゃ、ダメかな?」

「……むぅ。ダメじゃ、ない」


 朱那が顔を上げ、俺を見つめながら続ける。


「この先、わたし以外に、絵をプレゼントしちゃダメだから」

「……わかったよ」


 朱那がにんまりと微笑む。

 怒ったり、焦ったり、叫んだり、笑ったり。本当に忙しい人だ。

 一緒にいると、色んな感情を刺激される。

 今までと生活が一変してしまうのも、悪くない感覚。次は何が起きるかと、わくわくするところもある。

 地面から三センチくらい浮いている生活……か。そういうのも、案外楽しそうだ。

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