㉓ダンジョン


 足元には空が広がっていた。星がホタルのように、薄氷の下に漂っている。わたしは着の身着のまま、碧い草たちの上で倒れていた。ここはどこかと振り返り、ぎょっと目を見開いて硬直する。

 背後にはわたしより二倍大きい怪物が立っていた。


 肌はクラゲを加工したような透明感のある鱗に覆われている。顔は鹿のように品があり、額の両側に鈎状の角が生えている一方前足は鷹の足のように鋭い。背中には滑らかな珊瑚色の翼が生えており、尾はヘビのように長い。


 わたしが腰に残っていた剣に手を掛けると、怪物はやめてとばかりに腕に甘噛みしてきた。口の中が冷たいのか、噛まれた部分はひんやりとしていた。


「おちついてください、ねえさん」

 聞き慣れた声が耳に届く。


「……は?」

「レイフですよ、ねえさん。あなたがあいするレイフ・ヴォーです」

 どう動かしているのか分からない口で、怪物は流暢に喋っていた。しかしその声は確かにわたしが知っている幼い友人のものだった。混乱で頭の中が白くなる。レイフを名乗るそれはわたしに顔を寄せ、己の証明として改めて紫の瞳を見せてきた。腕に力を入れ、彼の肌に手を伸ばす。白く透けた鱗はひんやりとしていながら、鱗の下に確かな生命を宿している。氷を張り、水面下で魚を飼う春先の川のように。


「お前、なぜそんな姿に。戻れるのか」

 わたしが張った声で問うと、彼は冷たい舌で頬を舐めた。


「ダヌヴェのひとたちにいろいろされて、たまにこのすがたになるんです」

 彼は見る限り困った顔一つしていなかった。わたしはただ、その白い頬にキスを落とした。レイフは目を細めて受け入れていた。


 新たな世界は血の門と通じていたと思えぬほど美しく、まるで絵画の世界に飛び込んだよう。心が澄むほど空気が美味しい。ホルスロンド王国の空気は夏の森のようであったが、ここは氷の国から風が吹いているような、涼しく乾いた空気である。


 夜風を吸って、吐いて、荒んだ心が均されるようにないでいく。怪物姿のレイフが吐く息も、雪を含んでいるかのように涼しい。彼の先祖はノルウェー系ヴァイキングと聞いている。北国からやってきた血に、妖精のものが混ざっていたのであろうか。

 

「ところでここは何処か分かるか?」

「たぶんこのせかいのかくのいちぶ。めがみさんのこころのいちぶです」

 レイフは空に輝く赤い星を追っていた。よく見ればこの先に、女郎花色に輝く円盤が見える。他には草原と夜空しか見当たらないため、ひとまずそれを目指すしかない。


 しかしいざ近づいてみれば円盤だと思っていたものは泉であった。乳色の泉が滔々となんとも豊かに揺れている。レイフの頸が上からにゅっと伸びていき、長く青い舌で犬のように乳らしきものを飲んだ。


 わたしが泉の前で躊躇っていると、レイフは舌を器用に曲げて、匙のように乳を掬った。そしてわたしに飲むよう促すように舌を出す。


 わたしは逡巡してから顔を下げ、頬を窄めて乳を飲んだ。

 それは水で薄めた牛乳にレモンバームをまぜたような味がした。ダヌヴェ人の粥よりは美味なそれに安堵して顔を上げると、眼の前には先のほどなかった早朝の広い草原が映っている。霧は濃く、木々が影のようにぼやけている。


 立ち上がると足元から柔らかい草の香りが噴き出し、足下の泉は融けていた。わたしが土と海の匂いに酔っていると、レイフが襟を咥えてきた。


 彼は首を回し、わたしを背中に乗せてきた。背中の羽がゆっくり動く。カズラのようにわたしの方へ伸びていく。わたしの足が羽に縛られ、手前に取手らしきものが現れる。


「よくつかまってくださいね、ねえさん」

 彼はにわかに身体を震わせた。わたしの身体は前後に揺れ、額が冷たい鱗にぶつかった。レイフはウサギのように跳ねながら、霧の濃い草原へ走っていった。


 霧はところどころで薄くなり、時々草を食むヒツジやヤギの姿が見える。次の晴れ間にはオオカミがヒツジを襲っていたが、霧の中から現れた男が矢を番えてオオカミを向けた。


「この景色はなんだ」

「たぶんめがみの、アルトリウスのきおくのかけらです。イーゴリさんがいってました。そのひとはひがしのそうげんで、サルマタイじんとなかよくしたり、たたかったりしたそうです」

 サルマタイ人──彼らは今のロシア南部からハンガリー辺りに住んでいた遊牧民族である。そして彼らは地に突き刺した剣を軍神の御神体としていた。


 思うに彼らこそが、この世界におけるダヌヴェ人なのであろう。


 クリンショー曰く、この世界ではかつて未曾有の大災害が起きた。ダヌヴェ人は大陸に残り、ホルスロンドの民となるイルミン人は島を作り移住した。そしてイルミン人は、元々ダヌヴェ人居住域の北側で暮らしていた。


「サクソンじんのちがうずきますか、ねえさん」

 わたしの思案を読んでか、レイフが問う。


「ああ、分からないことだらけだがな」

 何にせよできてしまった縁についてあれこれ考えるのは止しておいた。


 全ての縁は運命の女神が紡ぐもの。そして矮小なる我々に彼女らの思惑を知る力などないのだから。



「レイフは、女神の名を知っているか」

「アルティオとも、アルトリウスともきいています」

「二つ名前があるのか?」

「ユーリーいわく、アルトリウスのうじがみがアルティオというそうです」

「ユーリーと話したのか」

「はい。イーゴリがのりうつったのは、ぼくとあったつぎのよるのことでしたから」

 話を聞くにユーリーも位高き神官であった。そしてレイフが来た頃には、先生の器になることが既に決まっていたという。


「こえがおおきくて、まじめなひとでした」

 彼は己が神に選ばれたことを誇りに思い、最後まで高揚した様子で祠の中へ入った。そして中にいた他の神官の手で心臓を除かれ、先生に肉体を譲ったという。


 つまり先生の肉体は我々の世界に残されたまま、魂のみがこちらの世界へ渡ってきた。あの湖を使ったのか、他に道があったのかは分からない。

 いずれにせよかような術が為せる先生は、はなから只人ではなかったことに変わりはない。


 再び思考に耽っていると霧が晴れ、琥珀色の草原が現れた。夢で見たものと異なり足下は死体でなく黄色い土が詰まっている。

 奥には細いブナが何本も立ち、その下に四角形の小屋が見える。


 レイフは小屋の側まで跳んだ。そしてその場で地団駄すると扉が開き、見慣れた赤毛が現れた。


「イーゴリ先生」


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