夕焼けと親父と広っぱ

栗須帳(くりす・とばり)

第1話 親父


 親父が死んだ。




 親父。

 子供の頃は、本当に怖かった。


 今なら事案間違いなしの躾を、山ほど受けた。

 同世代の人になら、分かるんじゃないかな。

 あの頃の父親ってのは、とにかく怖いものだった。躾と称して子供を殴るなんてこと、当たり前の時代だった。

 僕の親父も、例に漏れずそうだった。いや、どちらかと言えば、その中でも無双してたんじゃないかな。


 とにかく怒鳴られた。殴られた。

 何かするたびに手が飛んできた。食事時でもテレビを観ている時でも、おかまいなしだった。

 だから正直、僕は親父を避けていた。関われば、いつ殴られるか分かったもんじゃない。自分の身を守る為、子供ながらに必死だった。


 嘘をつく。

 殴られる。

 泣く。

 男が泣くなとまた殴られる。

 以下、ループ。


 そんな感じだったから、親父は恐怖の対象でしかなかった。


 この世に親父より怖いものはない。

 そう思っていた僕が、一日も早く家を出たいと思ったのも、当たり前の感情だったと思う。





 親父は無口な人だった。

 子供の頃も、じっくり話した記憶がない。

 遊びには……よく連れて行ってもらった。

 月に一度は遊園地とか、プールとか映画とか。

 今思えば、週に一度しかない休日なのに、頑張ってたなと思う。

 でも、話をした記憶はあまりない。

 男親なんて、そんなものなのかな。そう思っていた。


 就職して家を出てからは、それまで以上に接点がなくなっていった。

 たまに帰っても、「ただいま」「おう」と定型文のような言葉を交わすだけ。

 僕の中の親父の記憶は、そんな感じだった。





 とにかく怖かった親父。

 絡み辛かった親父。


 さすがに中学ぐらいからは、殴られることもなくなったけど、それでもたまに怒鳴られると泣きそうになった。

 泣いたらまた殴られるから、必死で我慢したけど。


 そんな親父が突然倒れた。

 癌の末期だった。


 もう手の施しようがありません。余命3か月です。

 それにしても……かなり辛かった筈ですよ。痛みとかの訴えはなかったですか? 我慢強いなんてレベルじゃないですよ?

 そう主治医から言われた日、弟と二人で「親父らしいな」と泣きながら笑った。





 親父には正直に話した。でないと多分、殴られていた。

 親父は目を瞑り、ふうっと息を吐くと、「そうか」と一言つぶやいた。


 まだ早いだろ。


 今の時代、66歳なんて老人とは言えない。

 隠居生活だって、まだ1年にも満たない。

 これからやっと、穏やかな余生を過ごせる筈だったのに。

 そう思うと、仕事人間だった親父がかわいそうに思えた。





 それから親父は、急速に衰えていった。

 最後の1か月は終末期医療施設、ホスピスに入った。

 僕と弟は、母さんを連れて何度も何度も面会に行った。

 そこで僕も、親父とよく話をした。

 こんなに話したのは、多分初めてじゃないかな。

 でもそれも、長くは続かなかった。


 次第に親父は、声が出なくなっていった。

 口を動かしても、何を言ってるのか日に日に分からなくなっていった。

 僕たちは親父の表情を見て、口元を見て。何を言おうとしているのかを感じようとした。





 親父はよく笑うようになった。

 本当は怖い筈だ。

 もうすぐこの世界から消えるのだから。

 部屋にあるカレンダーには、その日に花丸がしてあった。

 母さんが「こういうの、冗談でもやめて」と泣きながら取り外したけど、あの時の親父の意地悪そうな笑顔は、まだ脳裏に焼き付いている。


 自分が死ぬ日を自覚している存在。


 その立場になった時、僕は親父のように、悠然と構えていられるだろうか。

 きっと無理だ。

 男らしくなってほしい。そう願い、僕を厳しく躾けた親父。

 でもその甲斐もなく、こんな軟弱な男になってしまった。

 親父のように自分の運命を受け入れることなど、とても出来そうにない。


 でも……いや、そんな筈ない。

 親父だって、きっと怖い筈だ。

 ただそれを、僕たちに悟られたくないんだ。


 人に弱さを見せない人。


 今だってそうだ。

 末期癌の苦痛はすさまじいと聞く。それなのに親父は、鎮痛剤を頑なに拒否していた。

 最後まで、自分が生きていることを感じていたい。薬で眠らされて、知らない内に死ぬ。そんな最後は御免被ると言って聞かなかった。


 どこまでも頑固で、気高い精神の持ち主。

 そんな親父にもっと生きていてほしい、疎遠になっていた時間が恨めしい、そう思った。





 病院の帰り。駅前には多くの人が歩いていた。

 僕は心の中で叫んだ。


 お願いです。皆さんの寿命を1日ずつでいい、親父にください。

 そうすれば親父は、まだ何か月か生きていられる。

 もう少し、親父との時間を過ごすことが出来る。


 たった1日。

 若者や健康な人にとっては、何の変哲もない日常のループ。

 でも、これから死にゆく者にとっては、あまりにも貴重な1日。

 そんなことを思い、涙をこらえながら帰路を急いだ。





 ある日面会に行くと、親父は眠っていた。

 看護師によると、昨夜は痛みであまり眠ってないとのことだった。

 本当に頑固な人だな。

 そう思いながら傍らに座り、親父を見つめた。


 こんな顔してたんだな、親父。


 僕は無意識の内に、親父の手を取った。

 掌をじっと見る。


 子供の頃、どれだけこの手で殴られたことか。

 恐怖の代名詞だった、親父の手。

 でもこの手で、何度か撫でられたことがあった。

 その時の感情を思い返す。

 なんて言うか、こう……胸の奥がムズムズするような、不思議な感覚。

 怖いけど、嬉しかったあの時の思い。

 その手に僕は今、触れている。

 親父は目を覚ます様子がない。

 笑ってるようにも見える。何かいい夢でも見ているのかな。

 そう思うとあの時のように、また胸の奥がムズムズとしてきた。




 僕はゆっくりと、その手を自分の頭に乗せた。




 何年ぶりだろう、この感触。

 記憶よりずっと、小さく感じた。

 でも温もりは、あの時と同じだった。


 手を頬に移し、僕は泣いた。

 もう一度、こうして撫でて欲しい。

 もう一度殴って欲しい。

 何となく生きてる僕に、活を入れてほしい。


 何やってるんだお前は。しっかりしろ。


 そう言って叱って欲しい。

 そんなことを思い、僕は泣いた。

 久しぶりに、親父の目の前で。



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