幽閉



 佐原アミは、捕まらなかった。

 驚くべきことだった。あの包囲を切り抜け、停車中のタクシーを使い逃走し果せたのだ。

 多勢で追い詰めながら捕縛できなかった不甲斐なさを詰るよりも、あの女の用意周到さと躊躇の無さと悪運をこそ呪うべきだ。

 県立がんセンターから駅を跨ぐこと少し。知己の経営する私立病院の待合所で椅子に腰掛けながら、私は思う。想う。

 呪いを。心底から、魂に掛けて呪詛を吐く。

 あの女の罪業を。誰に、何をしたのかを。赦免の余地は皆無であると、願望することすらも死罰に値すると、教えてやらねばならない。刻み付けてやらなくてはいけない。

 私は終ぞ……あの父にさえ抱けなかった憎悪を、あの女に想うのだ。初めて、こんなにも、誰かを憎いと感じていた。

 けれど。


「……」


 白い廊下の向こう。診療室で手当てを受けているカゲユキさんを想う。

 呪詛など途端に退いて、複雑な心境を持て余す。

 怒りと、喜びと罪悪感。

 身を挺してくれたことが、嬉しくて、嬉しくて、貴方が私なんかを守ってくれたことが、ほんの微かでもこの存在に必要性、のようなものを感じてくれて。それがただの社会通念上の倫理や義務感であったとしても構わない。

 喜悦だった。私は浅ましく、それを噛み締めている。同じだけ自分自身へ侮蔑と嫌悪を抱きながら。

 違う。違った筈だ。私は愛されることを望んでた訳じゃない。ただ、愛してあげたかった。幸せにしたかった。ほんの僅かだけでも、その倦み疲れた心を癒したかった。

 救われて欲しかった。

 カゲユキさん、貴方はただお母様のことだけに心を砕いていてくれればそれでいい。

 私がただ愛します。勝手に、頼まれもしない、私心と私欲で、徹頭徹尾のエゴイズムで、貴方の幸福を模索する。

 それでいい。そういう一方通行な関係でいい。

 貴方が私を嫌っても、貴方に、貴方の苦闘に見合うだけの何かを。苦痛以外の何かを、してあげられたら。

 それでだけでいいと。そう思っていたのに。


「私は……」


 卑しく求めている。腹の奥底で渦巻く欲望を自覚する。

 貴方に、情けを掛けてもらえる。その喜びを知っていた。ほんの憐れみでさえ、この体を、心を悦楽させることを知ってしまった。


 ごめんなさい


 私はワガママで、欲張りで、恥を知らない。

 悪い子で、ごめんなさい。


「でも……それでも、カゲユキさん」


 自分の本性が、独善の権化だと知りながら、それでも私はもう止まれない。

 この願いを成就せずにはいられない。

 貴方を、放したくない。

 奪う者を、絶対に許さない。


「誰にも、渡さない」


 その為にも動かなければ。早急に、徹底的に。


「……」


 貴方の為。

 そうやって最低な自己欺瞞を施して、私はスマホを取り出した。


「あの女は」

『申し訳ありません。繁華街近くのコインパーキングでタクシーと運転手を発見しましたが、佐原は逃げた後でした。どうやらそこで佐原は別の車両に乗り換えたようです。防犯カメラの映像は確認済みです。管理会社への根回しも滞りなく。しかし今後は警察の介入は避けられないかと』

「そのまま捜索は続行。必要ならの地域課の人間を使え。リストを挙げておく……あぁ、系列のパーラー、県警の御得意だったな。その辺りの資料も使い易くまとめてお出ししてやれ。こちらの言うことをもっと聞きたくなるように」

『……よろしいのですか』

「確認が要るのか?」

『……承知しました』


 スマホを切り、息を吐く。

 こんなことばかりに慣れていく。自分を嫌う理由がまた一つ増えていく。

 くだらない自己憐憫を見限って私は待合所の椅子を立った。







 大袈裟なほど厳重に包帯を巻かれた手をじっと見る。

 刃物が皮膚を、肉を存分に貫いた刺創。とはいえ小振りな刃渡り、指骨も無事である。ひとまず縫合の必要はなく、抗生物質を使いながら傷口の様子と感染症等の経過を見守っていく。

 医師のその簡潔な説明に、俺はきちんと応じられていただろうか。上の空であったように思う。

 脇腹に僅かに残った火傷も一週間分の軟膏を処方されただけだ。あの痛みと衝撃が、まるで嘘だったかのように呆気ない。


「……」


 診療室のカーテンを抜けて、待合所へ。

 長椅子の傍で立ったままの花宮が俺を出迎えた。不安げに翳った顔が俺を見上げる。


「どう、でしたか」

「ええ、大したことはなかったです」

「そうですか……よかったぁ」


 深々と安堵の吐息を零す少女に、俺は何も言えなかった。年長でもある。何か気遣いの言葉一つくらい掛けてやれればいいものを。

 胸中は千々に惑う。俺は今なお無様に慄いていた。

 佐原さん。彼女の狂乱に。


「……」


 ずっと迷惑ばかり掛けてきた。頼るばかりで、感謝に頭を下げるばかりで。

 俺は何も彼女に報いることはなかった。あるいはそれが、それこそが彼女に凶行を強いた原因ではないのか。

 もっと気を配っていれば、せめてその心根の一端だけでも気付けていれば。

 そうすれば、なんだという? お前に彼女の望みを叶えてやれたのか。その悲哀を癒してやれたとでも。

 あの、絶望の叫びがこの耳孔から離れない。

 想われるということ。求められるということ。

 俺は何一つ、理解などしていなかった。

 感謝、のようなものを吐いて自己満足に浸っていた。彼女が本当に欲しかったものは、そんなはしたな言葉などではなかった。


「……」


 尾上カゲユキ。彼女はこんなものを、心から欲し、望んでいた。


「カゲユキさん」

「……あ」


 思考に埋没しかけた俺を、その声が引っ張り上げる。

 ともすればその白く美しい顔が俺を覗き込んでいた。深く、深く、両瞳が、奥へ、また奥へ。


「……帰りましょう。カゲユキさん」

「はい」

「……」


 診療所を出ると、正面に車が一台停まっていた。シャチかクジラのような黒塗りの車体。物を知らぬ自分でも高級車と一目で知れるそのドアを、傍らで黒スーツの男性が開く。

 こちらの戸惑いなど頓着せず、花宮の手が俺を導いた。

 本革張りのシートの座り心地は実に落ち着かない。己の貧乏性を認めて、少しだけ現実感を取り戻した。

 黒い巨体が滑り出す。驚くほど揺れも音も感じなかった。密閉された鉄の箱。呼吸できることの方が不思議なくらい、静謐な空間。


「カゲユキさんが気に病むことなんて何もないんです」

「……」

「何一つ、ないんです。貴方の想いの何一つ、あいつに掛けてやる必要、ない」

「佐原さんは恩人です」

「でもカゲユキさんを襲いました。傷付けました。お母様のことを持ち出せば貴方が動揺すると知っていて、その不安と恐怖を利用したんです」

「そう、かもしれない。でもずっと、彼女には助けられてきた。母のこと、入院生活の多くのこと、それは事実だ……」

「知って、見てたんでしょう? ずっと、カゲユキさんとお母様を! それなのに、あの女は傍で見ていた癖に! それを出汁にしたんですよ?」

「確かに質の悪い嘘だった。だが母が無事なら、それでいい。この程度のことで、これまで受けた恩が帳消しになる訳じゃない……」

「っ……この、程度……?」

「はい」


 刺創と火傷。いずれも治療すれば問題の無い程度の傷。今回の彼女の行為はおそらく傷害に当たるのだろうが、俺は被害届を出すつもりはなかった……花宮の、部下? の彼らに関して、どういった措置が取られるのかまでは流石に俺の独断の及ぶところではないが。

 彼女はまだ、取り返しがつく段階にある。やり直せる。少なくない時間は掛かるが。

 罪を償う機会が与えられるのだ────俺とは違う。


「そう、ですか……ふふ、そうでした。貴方はそういう人……だから」

「? 花宮さん」


 車窓に傾いだ少女が呟く。シートの上で、白く華奢なその手が握られる。固く、掌をきつく握り締め。

 ふ、と脱力した。

 こちらを振り返った少女が、ひどく寂しげに微笑んだ。


「だから私、好きになったんです」







 車が停車したのは、一棟のタワーマンションの駐車場だった。

 行き先を尋ねていなかった自分も間抜けだが、視線で花宮に問いかける。

 少女は無言で、開かれたドアから出て行ってしまった。

 他人様の車に居座る訳にも行かず、己もまたそれを追い掛ける。


「ここ、私の家です」

「は?」

「どうぞ上がっていってください」

「いえ、しかし」


 引き下がろうと退いた己の真後ろに、黒服の大柄が立ち塞がった。

 精悍な無表情を見やってもそれは微動だにしない。取り付く島もない。

 迂闊というならそれは、伝手のある病院だからと少女にのこのこ伴われた時既に。

 俺に逃げ道はなかったのだろう。


「……少しだけ、お邪魔します」


 観念して頷く。

 花宮は実に、嬉しそうに笑った。







 コンシェルジュに挨拶されながら煌びやかに過ぎるエントランスを抜け、エレベーターに乗り込む。

 地上から高速で遠ざかる浮遊感に飲まれながら、思った以上の早さで我々は最上階へ辿り着いた。

 この階層と屋上が全て、花宮個人の持ち物であるという。


「こっちです」

「……」


 ホテルのような絨毯張りの内廊下に踏み入り、扉の前に立つ。

 スマートロックを解錠すると、室内には自動で照明が点った。

 少女の背を追って、なにやら恐る恐る玄関扉を潜る。

 早々に革靴を脱ぎ捨てた少女が、白い大理石の框をぺたぺたとソックスで歩く。


「あっ、スリッパ要りますよね。ちょっと待っててください!」

「あ、あぁすみません」

「ごめんなさい……私、普段はその、素足で……ぎ、行儀悪いですよね。えへへ」


 入ってすぐ、四畳間ほどのシューズクロークがある。慌てて戸棚を漁る背中を見やり、どうしてか牧歌的な心地になる。安堵、といってもいい。別世界に来て、ようやく見知ったものを見付けたような。

 俺は開け放ちのままにしていた扉から手を離した。

 そうして背後でそれは閉まる。

 同時に、錠が落ちる。複数の音が扉から響く。オートロックなのだろう。しかし。

 振り返った扉には、鍵穴があった。

 一つ、二つ、三つ、四つ。他にも物理、電子問わず、錠が。外付けのもの。扉そのものと一体のもの。種々数多。

 無数の錠前が。


「…………」

「あ、あったあった。カゲユキさんは黒い方でいいですか」

「え、あ、はい」

「じゃあ私は白い方使います」


 少女がわざわざ己の足元に屈んでスリッパを並べた。

 朗らかな笑みが、俺を見上げた。


「これからいろいろ決めて行きましょうね。二人暮らし、ですから」


 とても無邪気に少女は笑った。







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