不甲斐なし



『おはようございます!

 今朝はちょっと肌寒いですね

 尾上さんは平気でしょうか? スーツってけっこう暖かそうですよね

 ……昨夜ゆうべもずいぶん遅かったですね。いつもいつも残業、お疲れ様です

 少しでも眠れましたか?

 ちゃんと休めてますか?

 無理しないでくださいね

 サンドイッチを作りました

 扉のノブに掛けておくのでよかったら召し上がってください!

 お仕事、がんばって』




『こんにちは

 お昼休みも取らずにお仕事ですか

 心配です

 やっぱり無理、してませんか?

 お弁当を届けておきました

 事務の松井さんから受け取ってください

 私のこと、良い妹さんだって言ってくれました

 そんなわけないのに

 おもしろい人ですね!』




『カフェイン系のドリンク、飲み過ぎてませんか?

 体に毒ですよ

 今度、ハーブティーを淹れて持っていきますね

 リラックス効果があるし胃腸に優しいんです

 トイレの回数、増えてますね

 やっぱりストレスが多いんですね

 お疲れ様です

 尾上さん、無理しないで』




『あの上司の人なんですか

 尾上さんは悪くないのに

 尾上さんは悪くないのに

 尾上さんは悪くないのに

 尾上さんは悪くないのに

 尾上さんは悪くないのに』




『こんばんは

 今日も残業なんですね

 遅くまでお疲れ様です

 お夜食、なにか食べたいものがあったら遠慮なく言ってください!

 なんなら今からでも会社に持って行きましょうか』




『終電なくなっちゃいましたね

 こんな時間まで……

 会社がおかしいんでしょうか

 あの上司が悪いんでしょうか

 尾上さん、どうして欲しいですか』




『お疲れ様です

 帰り道、気を付けて』




『一日、お仕事本当にお疲れ様です

 おやすみなさい

 ゆっくり休んで、尾上さん』






 スマホの番号を教えたからといって彼女の電話攻勢が止む気配はなかった。一度、仕事中に電話に出ることが難しいこと、折り返す余裕がないことを彼女に伝えたのだが。

 どうしてか俺は、なし崩しに彼女とメッセージアプリのIDを交換することになっていた。

 しかし積み重なる膨大な着信履歴に、奇妙な焦燥と威圧感を覚えたのも事実。

 結局はこうして、彼女のトークに疎らながら付き合うのが最も穏当な対応といえた。

 少女の真意はようとして知れない。

 ただ、一つだけ確実にわかったこともある。


『またコンビニ弁当ですか?

 言ってくれればいつでもご飯作りに行きますよ』


「……」


 俺は彼女に見張られていた。

 どうやってか、ほぼ24時間。職場での出来事も会社と自宅の行き帰りの途上も、家の中での様子さえ。

 目がある。どこかに。密かに。あの黒く澄んだ闇色の瞳が、こちらを見ているような気がするのだ。

 ……警察に通報することも考えた。

 しかし取り合ってもらえるとは到底思えなかった。大の男が女子高生からストーカー被害を受けているなど。不出来な妄想とでも笑われるだろう。そうでなくとも、今のところ実害はない。状況の異常さを差し引いても、警察がつきまとい程度の案件で対応してくれるとは思えなかった。

 これは不信というより同情に近い。

 警察機構とはとりもなおさず激務だ。自分などとは比べられないほど。そしてその繁忙には意義がある。


「まあ、いいさ……」


 諦めを溜め息と共に吐き捨てる。

 慣れたことだ。随分長く、こうやって様々なことを置き去りにしてきた。

 必要なことだけをしよう。

 働いて稼ぐ。母の入院費用を捻出する。

 それだけでいい。

 それだけで、精一杯なんだ。







 取引先の部長は機嫌の良い時ほど話が長い。

 半休扱いの午後を一時間も浪費してしまった。

 電車を乗り継ぎ、最寄り駅を降りる。県立がんセンターは駅から徒歩十分のところにある。途中、花屋に寄ってガーベラを買った。母の好きな花だった。

 ケア病棟の案内所で顔見知りの看護師に挨拶をし、廊下を急ぐ。革靴でけたたましく走るような真似だけは自制できた。

 実に、十日ぶりの見舞い。親不孝者の謗りは免れないだろう。多忙は理由になどならない。結局、仕事も変えられず待遇改善も訴えられない、何もできない俺が愚劣なのだ。


「……」


 病室の扉の前で、自己憐憫と自己嫌悪を終える。自分の中の腐ったものをこの室内に持ち込みたくはなかった。

 呼吸を整え、控えめにノックする。

 一拍待ってから引戸を開こうとした時。

 返事が聞こえた。肺活量の弱った母の声ではない。聞き慣れない声だった。

 涼やかで品格を帯びたそれは。


「!?」


 戸を開け放つ。日の光と部屋の白さに目が眩む。

 母は病床にあった。リクライニングしたベッドに背を預けるひどく痩せ細った姿。

 その傍らに知らない背中、いや、水色のブラウスの背中。

 少女が振り返る。


「カゲユキさん」


 花宮カナミが母の病室にいた。


「は、花宮、カナミ……」

「はい」


 まるで俺に呼ばれたのが嬉しくて堪らないとでも言うように、少女は笑みを綻ばせる。


「なんでここにいる……!?」

「カゲユキ?」


 不思議そうに母が俺を見上げた。噴き出しそうになった怒気を抑え込み、我ながら不出来な笑みで母に近付く。

 同じくして花宮がパイプ椅子から立ち上がり、母にお辞儀した。


「それじゃあお母様、私はそろそろお暇しますね」

「あぁ、もう? ごめんなさい、なにもお構いできなくて……ありがとね、カナミちゃん」

「いいえ、お話しできてとっても楽しかったです。お大事になさってください」


 今一度深く頭を垂れ、花宮は踵を返す。去り際にはこちらに会釈を寄越し、柔らかに微笑むのだ。


「またね……カゲユキさん」


 眼球だけでその笑みを射る。噛み締めた奥歯が軋むのを自覚する。

 どういうつもりだ。

 引き戸の向こうに消える細い背中を見ながらに脳内が流転する。

 俺だけではなく、母のことまで調べ、わざわざ入院先の病室へ。見舞いを? 馬鹿な。何の意味がある。脅迫? 俺に、あんな子供が一体何を要求すると。


「カゲユキ? どうしたの」

「っ! あ、ああ、ごめん、ちょっと驚いて」

「うん、私もびっくり。カゲユキにあんな綺麗な彼女さんがいたなんて」

「は?」

「もっと早く言ってくれたらよかったのに」

「ち」


 違う。それは大いなる勘違いだ。いや、まさか、あの少女が母に何かを吹き込んだのか!?

 腹の底で憤怒の火が再燃する。

 しかし、その立ち消えは実に早かった。

 母の顔を見た途端に。母のこんな。


「よかった……よかったぁ」


 心から安堵した顔を見たのは、何年ぶりだったろう。


「あんたには私の世話ばっかり焼かせて、自分のことはなんもかんも後回しにさせちゃった……ごめんね、カゲユキ。苦労ばっかり、かけて」

「苦労なんて、してねぇよ……」

「でももう安心。いい子じゃない。優しくて、気立てが良くて、あんたのこと……ふふ」

「……」

「安心した。安心したわぁ」


 母はそう繰り返し呟いた。吐息するように、ただただ繰り返し、繰り返し。

 俺は何も言えず、立ち尽くした。己の不甲斐なさを今こそ思い知って。よりによってストーカーの女に、俺は思慮の深さで負けたのだ。

 俺はやはりひたすら無上の愚劣だった。








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