5章 劫火 ――奥州合戦――

第34話 義経の死

 1189年春、雉女は男子を産んだ。やはり産婆はお玉で、今度は嫌味を言わなかった。だからといって、めでたいと追従ついしょうを述べることもなく、淡々と仕事を済ませて帰った。


 雉女は、名前を付けてくれと勝之介に頼んだ。彼を夫と認めてのことだ。


龍之助りゅうのすけにしよう。龍蔵の龍と俺の名の半分だ。大河も目の前だ」


 勝之介が照れていた。そうやって父親になった彼だが、以前と変わらず狩りをするのに夢中だった。そのころには五十辺集落の若者に弓矢の作り方や狩りを教え、配下のようにしていた。


 産後の雉女は男の添い寝もままならない。七日に1度は三郎太が食料や油などを運んでくれた。ありがたいと感謝するも、自分に熱を上げることで彼の立場が悪くなっているのではないか、と案じてもいた。


「大変だぞ」


 その日やって来た三郎太は、いつになく難しい顔をしていた。


「奥方様が、堪忍袋の緒を切られたのではありませんか?」


 雉女は龍之介に乳をあげながら訊いた。


「そんな小さなことではない。数日前、義経殿が殺された。今朝、その知らせが届いた」


「まさか……。誰に殺されたのです?」


 昨年、蔵之介の口から義経の名前を聞いた時も、彼を懐かしく感じることはなかった。そんな自分を薄情者だと思っていた。それなのに、殺されたと知ると、彼の最後がどんなものだったのか、とても気になった。


泰衡やすひら殿が、義経殿が滞在していた基成もとなり殿の衣川館きぬがわのやかたを奇襲したらしい。なんとも腹立たしいことよ」


 三郎太が自分の膝をガツンと拳で打った。


 藤原泰衡殿が殺した?……雉女は、すぐには信じられなかった。奥州藤原家は、義経の味方だと信じていたからだ。それから三郎太の態度に違和感を覚えた。国の総大将である泰衡を三郎太が批判的に言うからだ。――平泉がもめているのが問題だ……、と蔵之介が話していたことを思い出した。


「泰衡さまは奥州藤原家の棟梁。その方のしたことが面白くないのですか?」


「亡き秀衡殿は、義経殿を総大将として鎌倉と戦え、と遺言しておったそうだ。それを泰衡殿は、義経を差し出せば領地を安堵あんどするとそそのかされて殺した。頼朝は、我が主にとっては忠信殿の敵。泰衡殿が頼朝に屈したこと、憤っておられる。泰衡殿が自分で自分の首を絞めていると呆れてもいた。……とはいえ、これでしばらくは太平が続くだろう」


 そういうことか……。雉女は頼朝の顔を思いだし、一族を仲違いさせようという貴族めいたやり口に不快感を覚えた。そしてふと、ひとりの若武者の顔を思い出した。


「義経さまの配下に、亀井重清さまという方がおられたと思います。その方の安否は?」


「おぉ。雉女を弁才天だと聞いて、雪の日に訪ねてきた男だな」


 三郎太が雉女の心を覗くように眼を細める。


「泰衡殿の軍勢は五百騎。それに対する義経殿の配下はわずか十数騎……。全滅だと聞いておる。無事ということはあるまいなぁ」


「そうですか……。おいたわしい……」


 北の空に向かって手を合わせた。


 義経の悲劇に天も涙したのか、彼が鬼籍きせきに入ってから雨の降る日が多くなった。それでも川があふれる兆候はない。


「水天神となった勝蔵殿や佐原に感謝しなければなるまいな。お蔭で水があふれることはなさそうだ」


 縁側に腰を落ち着けた三郎太が鉛色の空を見上げていた。隣に座り、雉女も空を見上げた。頭にあるのは蔵之介の言葉だった。彼は、頼朝が1年以内に奥州に攻め込むだろうと話した。その1年が間もなくやって来るのだ。そのことを三郎太に教えるべきか……。


 三郎太に眼をやる。その横顔に、頼朝との戦いが迫っているような緊迫感はなかった。


「昨日、義経殿の首桶が領内を通った。秀衡殿の四男、高衡たかひら殿が運んでいたそうだ」


「そうでしたか……」目障りな義経さまがこの世から消えた今、頼朝は奥州侵攻を止めるのではないか?……小さな期待が胸に芽生えた。彼が動かないならば、ありもしない危機を騒ぎ立てて不安をあおるべきではないだろう。雉女は黙考した。


 考え込む雉女を励まそうとでもいうように、三郎太が陽気な声を上げる。


「今年は冷たい風が吹かなかった。この分なら米は豊作となろう。そうしたらサト、お前にもたんと白い飯を食わせてやるぞ」


 彼は庭の井戸で水を汲んでいたサトに話を振った。


「佐藤さま、ありがとうございます」


 サトが花の蕾が弾けて開いたような笑顔をつくった。


 三郎太は立ち上がり、「ヨーシッ」と、両手の拳で天を突くように背伸びをした。それが、雉女が三郎太の姿を見た最後だった。そのわずか数日後、義経殺害を巡って対立していた泰衡の兄弟たちが殺し合う内乱があり、奥州中が二派に別れて騒然となったからだ。その挙句、半月後には鎌倉軍が北上しているという知らせが入った。


 武士が戦の準備で忙しくなるのは当然だが、百姓も同じだった。鎌倉軍が攻めてくれば信夫庄の北にある厚樫山の防塁が主戦場になり、信夫庄は鎌倉軍の武者溜まりのようになる。勝敗のいかんにかかわらず領民は殺され、家財、食料が奪われる。田畑は人馬で踏み荒らされ、飢饉ききんが訪れるだろう。それがわかるから、多少未成熟な作物でも収穫できるものはどんどん収穫して隠さなければならなかった。

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