第15話 再会と別離

 ――シャン……、シャン――


 錫杖しゃくじょうをつく山伏やまぶし姿の一団が雉女を追い越していく。早朝、弥彦神社に参拝を済ませ、蒲原(かんはら)の港へ向かうのだろう。そこから船で向かうのは出羽三山か?……静は彼らを窺った。


 端正な顔立ちの山伏と視線が合った。


「あっ……」


 雉女は息をのんだ。目の前にあるのは、まさしく義経の顔だった。


 ところが彼は何も言わず、表情さえ変えずに追い越して行く。その後ろに赤ん坊を懐に抱いた身体の大きな山伏と、子供の身なりをした女が続いた。


 彼は私を忘れたのだろうか?……不安を感じながら義経の背中を呆然と見ていた。


「……義経さま」


 ようやく喉を突いた声はかすれていた。


「なんだって!」


 驚いた白女が「勝蔵!」と呼んで、ずっと先を行く山伏たちを指差した。


 勝蔵がうなずき、少し考える様子をしてから歩き出す。


「俺が先に行って呼び止めるか?」


 伊之介が訊いた。


「いや、人目がある。相手は落ち武者も同じ逃亡者だ。静の名前を出したところで、鎌倉の罠と誤解されて切り合いになるかもしれない。機会を待とう。とにかく追いつくことだ」


 当初は内陸に向かうはずだったものを、勝蔵は山伏たちの後を追って道を変えた。


 弥彦山の山裾を離れた道は、数多い沼をうねうねと避けて北へ延びている。所々に粗末な小屋があり、庭に火をたいて弥彦神社への参拝客をもてなしていた。


 雉女は懸命に足を運んだ。義経を追うというより、勝蔵に遅れまいと必死だった。


 軽装の山伏たちとの距離は詰まらない。むしろ徐々に離れている。――シャン……、シャン……、錫杖の音は遠のき、やがて山伏たちの姿も樹木の陰に見えなくなった。義経の子供まで生みながら、置き去りにされるとは哀しいことだと思った。わずかばかりの憤りと、不思議とホッとする気持ちがあった。


 薄い雲の中で太陽が天頂に達しても、勝蔵は足を止めなかった。黙々と足を進めている。すると、佐潟さかた近くの小屋の前で山伏たちが屯しているのが見えた。


「ヨシ、休んでいるようだ……」


 励ますように勝蔵が後ろを向く。雉女はうなずき返した。捨てられるにしても、受け止められるにしても、義経と話し合おうと決意した。


 山伏たちは人目をはばかり、無言で酒を飲んでいた。十分休んだのだろう。彼らのかたわらにある皿は空で、椀の酒も残り少ない。


「何に致しましょう?」


 出入り口のむしろを持上げ、小屋から顔を出した中年男が訊いた。


「飯を四人分だ」


 勝蔵が言うのを聞きながら、雉女は義経に眼をやった。改めて見れば、その相貌が変わり果てているのに胸が痛んだ。頰はこけ、何かに怯えたような眼をしている。とはいえ、ひどく懐かしい。再会できたことを神仏に感謝した。


「もし……」


 雉女は勇気を振り絞り、ぼんやりと焚火を見つめる義経に声をかけた。山伏たちの視線が雉女に向く。幾人かは目の前の女が静だと気づいたようだが、素性を隠すためか口は開かなかった。


「ん……」


 火に向けていた義経の瞳は怯えたような色をしていたが、雉女を認めたそれは悪さを企む餓鬼のものに変わっていた。


「私をお忘れですか……」


「ん……」義経は小首を傾げ、「静か?」と訊いた。


「はい。静でございます」


「黒くなったな」


 懐かしさに震えていた雉女を、義経は一言で打ち砕いた。


「それに、痩せた」と付け加えながら、雉女が抱いた龍蔵に黒い眼差しを落とした。


「それはワシの子か?」


「いいえ。そこの勝蔵という者の子です」


 雉女もまた、義経の希望を打ち砕いた。


「返せ」


 義経の言葉はいつも短い。


「え?」


「ワシの子でないなら、その赤子は、その者に返せ」


「はぁ……」


 訳も分からず龍蔵を白女に渡すと、義経に手を引かれた。


「何をなさいます……」


「オヤジ、小屋を貸せ」


 義経は狭い小屋の中にいた夫婦を追い出し、雉女にむしゃぶりついた。


「お止めください……」傀儡女になると決めていたが、義経の前では白拍子だった。筵一枚隔てた外側に多くの人がいるのだ。そんな場所で抱かれるのは抵抗がある。


「外に女がいるではありませんか」


「あぁ、さとか。ワシの女房殿だ」


 郷は武蔵国の河越重頼かわごえしげよりの娘で、義経が京に上る際、頼朝が決めた正妻だ。


「河越の姫でしたか。ならば、尚更お止め下さい」


 忠告しても義経が態度を変えることがないと知っていた。だから、くどくは言わなかった。義経の手がしつこく身体をまさぐるのも許した。


「ワシはもう終わりだ」


 雉女は自分の耳を疑った。京では彼が弱音を吐くのを聞いたことがなかった。


「京の女は皆逃げた。残っているのは、関東から来た郷だけよ」


 義経の手が着物の裾を割る。


「暖かい……。静は暖かい……」


 彼は女の意思など考慮しない。本能のまま、雉女の真ん中に押し入った。それは3人の猟師と同じだった。


 ところが雉女は、義経と京都で過ごしたころの静に戻っていた。あまりにも懐かしい義経の腰使いに、近くに勝蔵らがいることも忘れて忘我の境地に落ちた。喘ぎ声を抑えるのも忘れていた。


 一対の男女が泥のように溶け合う、愛欲にまみれた短い時が過ぎた。


「静、ワシが愛した女の中で、お前が一番良い女だ。ワシと共に来るか?」


 繋がったまま義経が訊いた。


 行きたい……。雉女の身体はそう言ったが、心は違った。


「半年前の私なら、命じられなくてもついて行ったでしょう」


「今は違うのか?」


「義経さまも、京にいたころとは違っております」


「どう違う?」


「以前ならば、ワシと共に来い、と命じられたでしょう」


 義経が苦笑し、雉女の身体から離れた。


「人は変わるものだな……」


「はい。私も子供を産み、旅をして変わりました」


「ワシの子だな。その子はどうした?」


「頼朝さまに殺されました」


 泣いてしまうかと思ったが、涙はこぼれなかった。


「そうか。それで……、ワシを恨んでいるのか?」


 雉女は腹が立った。自分の子供が殺されたことに、怒りも悲しみも示さない義経に……。


「いいえ……」身づくろいをして立ちあがり、子供のように見上げる義経を見下ろした。飢えや獣の恐怖に対峙し、雪山を踏破し、猟師の凌辱にも絶えた雉女には、勘と本能のままに生きる彼は、あまりにも頼りなく感じた。


「義経さまは、生まれたままでございます」


「それが義経という男よ」


 その声には、どこか得意げなところがある。


「はい。生まれながらに白拍子として育てられた私には、それが魅力でした。さあ、皆がお待ちでしょう。お立ちなさいませ」


 義経の手を取って立たせる。そうして衣装を整えるのを手伝った。


「私は、山深い猟師小屋で生まれ変わりました」


「それで黒いのか……」


 高貴な者は白く、身分の低い者は黒い。色の白さが義経の一つのだから、京にいたころは彼自身が公家のように顔を白く塗っていた。生まれたままであることを誇りにする男が、肌の色にこだわるのが、雉女には不思議で可笑しかった。


「おたわむれを……。今の私は傀儡女なのです。興行の折には化粧も致しますが……」


「ふむ。それでワシとは同道できないというのだな。では仕方がない」


 そう言うと、義経は小屋を出て行った。


 雉女は動けなかった。全身の力が抜けて、その場に座り込んだ。


「お女中、よろしいか?」


 筵の外から声がして、小屋の持ち主夫婦が入ってくる。男は雉女の顔をしげしげと眺め、女は料理に取りかかった。


 ――ホギャー……、龍蔵が泣いた。


 雉女は我に返って小屋を出た。すでに義経たちの姿はなく、火の周りには石のように黙りこくる勝蔵たちだけがいた。


「白女さん、すみません」


 雉女が両手を差し出すと、不安げな表情をしていた白女がホッと笑みを作った。


「龍蔵、母さんが来たぞ。良かったなぁ」


 雉女は龍蔵を抱いて乳をやる。つい先ほどまで義経がそこをいじっていたと思うと、龍蔵に申し訳なかった。


 小屋の中から夫婦が出てきて、熱い粥に漬物と焼いた干し魚をのせた椀を配った。


「美味い」


「そうだねぇ」


 伊之介と白女の声は白々しく、表情を消した勝蔵は火を見ていた。

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