第12話 雪山

 雉女はじっと火を見ていた。誰かを待つ夜は、ひどく長かった。


 突然、ガラリと板戸が開いて朝の陽が指し込み目がくらんだ。光を遮る黒い影があった。


「帰ったぞ」


 弥助の声に、スミが裸足のまま土間に駆け下りた。


「おかえり、あんたぁ」


「あぁ、客人のおかげで狼は全部始末できた。七頭もだ。あぁ、腹が減ったぞ」


 話しながら弥助が土間に入る。その後に勝蔵と伊之介の顔があった。


「おかえりなさい……」


 雉女はやっとのことで声にした。それまでの緊張が解けて、ツーっと涙が頰をつたった。歪んだ視界に赤黒いものが映る。勝蔵が腕に傷を負っていた。


「勝蔵さま、血が出ています」


まれたが、小手の上からだ。気にするな」


「勝蔵殿は大きな狼の口の中に拳を突っ込んだのだ。阿修羅あしゅらのような戦ぶりだったぞ」


 勝蔵を見る弥助の眼は、神を拝む者のようだった。


「そんな……。傷から狼の病がうつったら命に係わります」


 雉女は、勝蔵の変形した小手を取り、服を脱がせて乾きかけた傷口を洗った。


 スミが朝食の準備を済ませた頃、ざわざわと外が騒がしくなった。大勢の村人が勝蔵に礼をしたいと、食べ物や酒をもって集まっていた。勝蔵がいなければ狼は仕留められなかっただろうと誰もが言った。犠牲になったタカの葬儀もあるからと宴会にはならなかったが、雉女たちは久しぶりに米の混じった飯を食べ、腹いっぱいになるとぐっすり休んだ。


 翌朝、空には厚い雲が垂れ込め、陽射しがなかった。


「雪になるかもしれんなぁ。降れば、国境くにざかいあたりは腰まで積もるかもしれない。春まで待ってはどうだ」


 弥助は長逗留ながとうりゅうしろと誘ったが、勝蔵は首を横に振った。


「先を急ぐ旅なのです。なぁ、雉女」


 話の水を向けられ、雉女は驚いた。勝蔵が自分のために旅をしていると初めて気づいた。


「赤子を連れているんだよ」


 スミは、何よりも龍蔵のことを案じていた。


「それでも行かなければならないのだ。この子を生かすか殺すか、それは百太夫が決めてくれるだろう」


 自分の恋のために、勝蔵が自分の子供を危険にさらしている。そう思うと、雉女の胸は痛んだ。


「運を神様に託しているのだな。狼との戦いを見ると、確かにその神様がついているのだろうな。……そうかぁ。ならば、これを持って行ってくれ。村の者たちからの礼だ。雪道を歩くには、これがなければなぁ。冷える時には足を皮でくるんでから履くといい。足元が温かくなると、歩む脚も軽くなるというものだ」


 弥助は勝蔵の前に藁沓わらぐつを山のように積み、食料も分けてくれた。


「それでは、ありがたく、いただきましょう」


 勝蔵より先に白女が応じた。


「おおきにありがとう。皆さまも、おたっしゃで」


 雉女も感謝をこめて別れを告げた。


 山に分け入り1日、2日……、降り積もった雪が雉女のくるぶしを隠し、やがて膝に届いた。


 勝蔵と伊之介が太い藤づるを取って丸く加工し、内側に竹と麻縄を張って雪上を歩くためのを作った。それを藁沓に装着すると足が沈まず歩きやすくなる。

「えい、ほ、えい、ほ」声にして男が前を歩き、で雪を踏み固めた。出来た細道を女たちが歩く。


 道案内は北陸に向かって流れる魚野川うおのがわの水音だ。そうやって豪雪地帯を湯沢ゆざわ石内いしうちと北上した。集落のないところでは雪濠せつごうを掘って夜を過ごした。


 道に迷ったのは浦佐うらさの集落を過ぎたところだった。流れの音を聞きもらし、道らしきところをまっすぐ進んで山中に迷い込んだのだ。正確には、水音は常にしていた。ただそれは魚野川のものではなく支流の破間川あぶるまがわのものだった。その時は運よく炭を焼く百姓に出会い、道を訊くことができた。言われた通り低い丘を越えると西川にしかわの流れに出た。その川をさかのぼって支流を北に目指せばいいと教えられていた。ところが西川の上流は凍っていて、雪の下に隠れた支流は見つからなかった。


「参ったな。戻るしかないか……」


 不運続きに勝蔵の顔にも弱気の影が映った。


 その時、雉女は、黒い森の上に薄らとたなびく白いものを見つけた。


「あれは、煙ではありませんか?」


「雉女の言うとおりだ。正に天の助け」


 勝蔵の顔に生気が戻り歩みだす。


「でかしたよ」


 白女が雉女の背中を押した。


 煙は3人の猟師が囲む焚火から昇っていた。彼らは厚い毛皮をまとい、腰に山刀を帯び、強弓ごうきゅうを携えている。顔は目元まで獣の皮で覆い、わずかに眼の周りだけを覗かせていた。ふたつの黒い瞳が飢えた野獣のような光を放っている。休んでいるのだろうが、石のように佇む様子は、獲物を待ち伏せる狼のようだった。


 勝蔵が猟師に近づいた。


「俺は傀儡子の勝蔵という者。越後に通じる道を捜しているのだが、教えてもらえないだろうか?」


「越後?」


 猟師が口を覆った皮を引き下げ、髭で覆われた唇で言った。


「ここは、既に越後だが……」


 猟師たちはそう言って笑った。その対応を見るだけで、一筋縄ではいかない連中だとわかった。


「山を越え、弥彦いやひこ神社を詣でたいのだ」


 勝蔵が、改めて望みを言った。


「要は、高倉たかくらの峰をこえて、北に行きたいということだな」


 猟師の一人が馬の背のように長い山の峰を指した。


「ここには道がないからなぁ。教えろと言われても教えようにないなぁ」


 別の猟師がからかうように言う。


「俺たちは向こう側から狼を追ってきた。戻り方は知っているが、手ぶらで引き返すわけにはいかないぞ」


「だなぁ。獲物がなければ、おまんまの食い上げだぁ。でもなぁ。おまんま以外にも、楽しいこともあるなぁ」


 猟師たちに道を教える気配はなかった。ただ言葉をもてあそびながら、にやけた視線を雉女に向けている。


「傀儡女なら、できるよな?」


「だなぁ。あかにまみれているが、良く見れば、なかなかの女だ」


 ひとりの猟師が、イヒヒ……、と卑猥な声で笑った。


 雉女は身をすくめた。猟師たちが身体を報酬に差し出せというのはわかるが、勝蔵が何と答えるのか、それは見当もつかなかった。


 突然、白女が前に出た。


「ワシが相手になるよ。でも、楽しみは山を越えてからだよ」


 白女さま!……雉女は、あの厳しい白女が自分をかばうように申し出たのに驚いた。


「おいおい……」猟師たちは声をそろえて笑った。


「婆さんじゃないかぁ。笑わせるな」


「お前を抱くくらいなら、石を抱くさ」


 猟師たちが笑っても、白女は怒らない。


「あの若いのは白拍子といって、歌を謡うだけの女なのさ。抱いたところで面白くはないよ」


 白女がどれだけ説こうが、目の前に色香そのものを形にしたような雉女がいるのだ。「バカを言え」「あの女なら、寝ているだけでいい」と、猟師たちは笑うばかりだった。


 今から引き返しては、正しい道を見つける前に夜になるだろう。前に進むためには猟師たちに頼るしかないし、そのためには対価が必要なのだ。……雉女は自分に言い聞かせ、覚悟を決めた。


「わかりました」


 声にすると、眼の隅にある勝蔵の顔が驚きの表情を作った。それが雉女を勢いづかせた。


「私がお相手します。でも、場所はあの向こうです」


 雉女は、先に猟師がしたように北の峰を指した。


「ようし。ならば、すぐに出立だ。松尾まつおの小屋で夜を明かすぞ」


 猟師たちは焚火に雪を掛けて踏み消すと、2人が先頭になって歩いた。後に勝蔵、伊之介、白女と続いた。1人は捕まえた獲物を逃がすまいとするように、雉女の後ろを歩いた。


「赤子連れで、こんな山を越えようとは、命知らずだな」「誰に追われている?」「父親は、前の男だろう。若い方か? 年嵩の方か?」


 後ろを歩く男がしばしば質問を投げてきたが、雉女は聞こえないふりをした。


「傀儡女のぶんざいで、すかしているんじゃねえぞ!」


 時折、男の投げた雪玉が雉女の頭や尻を打った。それでも雉女は無言を通した。転んで龍蔵に怪我を負わせぬように足元だけに注意を払い、黙々と足を進めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る