第10話 熊

 勝蔵は、狼が獲物を追って近づいているのを察知していた。彼らの獲物は鹿かもしれないし、猪かもしれない。いずれにしても賢い狼は、仲間と連携して獲物を追いこんでいるのだ。道に火を焚き、煙でいぶそうと考えていた。それだけで山火事を恐れる野生動物を遠ざけることができる。


 道に出た時、10メートルと離れていない斜面に熊を見つけた。冬眠のために餌を求めていた熊が、狼の群れを避けて人の行きかう道端まで出てきたものだろう。その距離から、熊は自分に襲い掛かって来ると確信した。


 素早く弓矢をつがえる。矢はトリカブトの毒を塗ったものだ。


 つるが切れそうなほど引き絞る。狙うのは、熊が敵を威嚇するために後ろ足で立ち上がった瞬間だ。その胸を毒矢で貫き、毒を心臓に送り込むのだ。


 勝蔵の殺気が星明かりの山中に広がった。


 ――ガァウ……、熊が黒い瞳を光らせ、前足を上げた。


 立ち上がった熊は予想していたより大きく、胸元の三日月形の白い毛に意識を取られた。


 ――プン……、弦が鳴る。毒矢は冷気を切り裂き、ズンと鈍い音を立て命中した。が、狙っていた場所とは違っていた。わずかな気持ちの乱れで手元が狂ったのだ。矢は熊の喉に命中し、鏃が貫通していた。


「チッ」勝蔵は舌を鳴らした。鏃が貫通しては毒の効きが弱い。


 次の矢をつがえた。


 ――グォォォー……、叫びと共に息が漏れ、血が滴(したた)る。熊は身をひるがえして薮に向かった。


 2本目の矢が弦を放れ、熊の背中に突き立った。


 熊は藪に飛び込んだ。樹木が倒れ、枝が折れるバキバキ鳴る音が、薄闇の中を斜面に沿って移動していた。雉女たちが休む岩棚の上の方角だ。


 勝蔵は3本目の矢をつがえながら、藪の縁を熊と平行に走った。何れ毒は効き、熊は弱るだろう。しかし、手負いの獣は動く狂気だ。万が一、命のあるうちに岩棚の下に飛びこんだら、女たちはひとたまりもない。


 ――ふぉぎゃー……岩棚の方角から龍蔵の泣き声がした。


「まずい」


 熊が龍蔵の声に反応しないことを祈りながら全力で走った。


 熊が藪を抜けた。勝蔵は足を止めて弓矢を構える。熊との距離は五メートルもなかった。


「勝蔵……、大丈夫か?」


 闇の中に伊之介の声がした。


「来るな!」


 矢を放ち、叫んだが遅かった。熊が進路を大きく変えていて、矢は地面に突き立った。


 斜面を下った熊は岩棚の上から飛び、伊之介を押し倒した。喉元から伸びた矢羽が彼の頰を傷つけ、血の混じった唾液が額を汚した。


「ヒィー」伊之介の悲鳴が闇を走る。


 勝蔵は弓矢を投げ捨てていた。腰の刀を抜き、熊の進路をなぞるように岩棚から飛び降りた。切っ先を熊の後頭部に向けて……。


 ゲホッ……。伊之介の腹に衝撃があって、口から胃液が飛んだ。


 熊の大きく開いた口が伊之介の目の前にあった。光っているのは牙ではなく、突き出た金属の刃だ。それは今にも伊之介の額に突き刺さりそうな位置にあって、赤黒い血を滴らせていた。


 グラリと熊の身体が揺れ、伊之介の隣に倒れる。ヅン……、と地面が揺れた。呼吸を忘れた伊之介の喉が、アワアワと空気を震わせていた。


 熊の背中から降りた勝蔵は、腰を抜かしている伊之介の顔に水をかけて洗った。トリカブトの毒が、彼の眼をつぶしてしまわないように。


「伊之介、道端に火を焚け」


 勝蔵は命じた。


「派手に殺しすぎた。血の匂いを嗅ぎつけたら狼が来る」


 2人は集めておいた薪を岩棚の前に積んだ。火が点くと周囲が一気に明るくなった。死んだ熊の眼が恨めしそうに勝蔵を見ていた。松の枝を切り取って火にくべると、もうもうと煙が立つ。これで狼が近寄ることがない、と勝蔵は安堵した。


 熊の毛皮を剥いで煙でいぶす。肉は数日食べる分だけ切り取った。毒の滲んだ肉も煮ることで食べられるようになる。残った熊の死骸は運んで谷底に投げた。転がり落ちる死骸は、あっという間に視界から消えた。


「もったいないな」伊之介がいう。


「俺たちには必要な分だけあればいい。残りは生きとし生きる、すべてのものだ。欲張ったところで、腐らせるのが落ちだ」


 勝蔵は教え、岩棚に戻る。


 2人は火を守るために交代で休んだ。

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