第6話 利根川

 普段なら五日も歩けば次の興行を始めるところ、七日歩いても力蔵は旅を止めなかった。傀儡子たちは今回の旅はいつもと違うと理解したが、その理由は誰も知らなかった。静だけは、力蔵が自分の希望を聞いて北へ向かっているのだと考えていた。彼が全ての小屋の設営を命じたのは、利根川に近いつき神社に着いた時だった。鵜沼を出てから十日目のことだ。


「約束は守ってもらうぞ」


 その夜、静に向かって力蔵が言った。


「はい、私は何をすれば?」


 彼の意思に殊勝に従い、今後も意見を聞いてもらおうと思った。


「これまで通り、白拍子として舞え」


 力蔵の言葉に、胸をなでおろす。逆に、白女は不満の色を浮かべていた。


「あんた。いつまで静を特別扱いにするんだ。そんなことじゃ、他の女たちが納得しないよ」


「最初は同じに扱うつもりだった。だが、道々考えた。下げ渡されたとはいえ、静は義経殿の女なのだ。生まれつきの傀儡女と同じに扱う訳にはいくまい」


「日ごろ、傀儡子は朝廷の律令を超えた特別な存在だと威張っていたのは長者ではないか。それがなんだい。女ひとり預けられてビビっているのかい?」


「特別な存在とは、傀儡子の誇りを言ったまでだ。世の中は変わり、朝廷の時代が終わる。我々も生きていくためには新しい道を探さなければならん」


「それなら尚更だよ。武士の棟梁の言う通り、静を傀儡女にすればいいじゃないか?」


「義経殿は鎌倉殿の弟だ。突然、情がわき、気持ちが変わらないとも限らない。その保証がない以上、静は大事に取っておかなければならん」


 白女が鼻で笑う。


「ふーん、でも手遅れだよ。静にはすでに熊蔵の手が付いた。そうだろう、静?」


 静は自分の顔が強張ったのが分かった。


「抗いがたく……」あの夜のことを思い出すと、じわっと目尻が濡れた。


「泣くほどのことかい。抱かれてこその女なんだよ」


「そうだったのか……。しかし、白女の言う通りだ。京の白拍子でも、日々、男を替える者がいるだろう。宇治あたりには、そんな白拍子が多いとか……」


 白女の言葉は乱暴だった。力蔵は慰めているようだが、その言葉はかえって静の誇りを傷つけた。


「それは、白拍子とはいえ、落ちぶれた者たちです」


 震える声で応じた。


「貴族に見初められようが、落ちぶれようが、白拍子は白拍子ではないか。男も同じだ。熊蔵は義経殿より劣るかもしれんが、決して悪い男ではない。その名や容姿、仕事にこだわるな。本質を見極めるのだ。それが人を知るということだ」


「静だって同じだよ。白拍子だとツンと澄ましていたら、浅い女だと笑われる」


 力蔵が押し付けがましく語り、白女がオホホと笑った。


「爽太と伊之介も静に執心しゅうしんなようだが、あいつらとも寝たのか?」


「いえ、そんなことは……」


 力蔵の露骨な問いに身が縮む。若い彼らのことは、あれこれ理由をつけていなしてきたのだ。


「男女の交わりは天から雨が降るようなもの。傀儡子の家族としているのだ。客は取らなくとも、彼らのことを受け入れるのが摂理ではないのか?」


「私には、そうは思えません」


 強く拒むと、力蔵が驚いた。


「……まぁ、いい。静がどのような恋をしようがかまわん。だが、俺の言うことだけは守れ。白女もよいな」


「分かったよ。その代り……」


 白女は力蔵の袴を取り、その腰に跨った。


「なんだ。その年で、まだ子供が欲しいのか?」


「バカ言うんじゃない。わたしゃ、死ぬまで女でいたいだけだよ。馬の背に乗せられるのは御免さ」


「そうか。良い心がけだ」


 静は、力蔵夫婦の重なる影に背を向けた。


 翌朝、鳥居の前に傀儡子たちが整列した。みな烏帽子に金糸銀糸を織り交ぜた色物の水干姿だ。その周囲を近在の集落の者たちが取り囲んでいた。田舎の百姓町人にとって、稀に来る傀儡子は祭りのような楽しみで、それが来たという噂は一夜のうちに伝わっていた。


みやびいた傀儡子がいるぞ」


 見物人の注目は、並んだ傀儡子の端に立つ美しい白拍子に集まった。烏帽子を頭に乗せ、純白の水干に緋色の袴、細身の刀を腰におびた姿は京の若侍にも見えたが、長い髪を背中にたらし、肩幅が狭く腰のくびれた姿は女に違いなかった。


 楼門ろうもんの内から澄ました宮司ぐうじ禰宜ねぎがやって来ると、まるで強風に稲穂が揺れるように、傀儡子たちが首を垂れた。宮司は祝詞のりとをあげ、禰宜が傀儡子たちの頭をさかきの枝でなでて回った。


「お前は傀儡女ではないな?」


 宮司が静に尋ねた。


「さようでございます。白拍子の静と申します」


「シズカとな……、静御前か?」


 宮司が驚き、力蔵に眼をやる。


「その名を口にするのはお控えください。鎌倉殿に聞こえたら、お叱りを受けましょう」


 耳元で力蔵が教えると、宮司は半歩下がった。


「それにしても美しい……。どうだ、舞ってもらえまいか……。舞を奉納してくれ」


「よろこんで」


 静は男たちと楼門をくぐった。その後をぞろぞろと見物人が続いた。


 拝殿の前でうやうやしく神を拝んだ静は、紙人形を奉納した。舞う準備をするのを、三方を囲んだ観衆が固唾をのんで見守っている。


「私が鼓を打ちましょう」


 ひとりの禰宜が力蔵に申し出る。静は小さくうなずいて了解した。


「勝蔵。笛を吹け」


 力蔵が命じると、勝蔵が懐から横笛を出して唇に当てた。


 ――トーン……、トントントントン……。鼓が打たれ、ヒョーと涼しげな笛の音が鳴った。それは、人どころか獣さえも癒すような神々しい調べだった。


 笛の音を耳にした瞬間、静の魂は別の何かに変わる。


 ――しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな――


 まるで運命に操られるように謡うと、腕が、腰が、足が……、意識を離れて動いた。細い指の動きは散る花弁のようだった。扇子が蝶のように宙を舞い、肢体が柳の枝のようにしなる。そのたびに扇子や刀に着けた鈴がリンリンと鳴った。


 境内に集まった人々は、舞を見逃すまい、声を聞き漏らすまいと、瞬きも呼吸も忘れた。


 ――吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき――


 義経と共にあったころを懐かしむ二つの歌は、頼朝の前で謡って激怒させたものだが、それを知る者はその場にはいない。力蔵や百姓はもとより、教養人である宮司や禰宜まで、澄んだ声と雅な舞に、ただただ酔いしれている。


 舞を終えると静の魂は元に戻る。彼女は笛を手にした勝蔵の横顔を見つめた。その調べの美しさは、奏者の魂の写し鏡に違いない。傀儡子の中にそんな男がいることに驚いていた。


「お見事。神々も感涙されておるだろう」


 宮司が言うように神々が喜んだかどうかわからない。ただ、その場にいた人々が喜んだのは間違いなかった。静御前らしい白拍子がいる、といった噂が遠方まで広まり、その日の午後には、静をひと目見ようと地侍たちも集まった。


 月神社に逗留する間、静は朝と夕に舞を奉納した。それ以外の時は、鎮守の森で熊蔵や伊之介の奏でる音曲に合わせて踊った。静の舞を見た男たち、とりわけ地侍は静を抱きたがったが、「あの者は白拍子ゆえ」と熊蔵が断り、他の傀儡女を斡旋した。


 傀儡女たちも静の今様を覚えて謡うようになった。そうして静と傀儡子たちは親密さを深めていったが、その間、力蔵が静の様子を見に来ることはなかった。彼は朝食を済ませると、勝蔵を連れて馬に跨り、どこかへ消えてしまうのだ。


「長者さまは、どこへ行かれるのです?」


 ある日、静は2頭の馬が北へ向かうのを見ながら白女に訊いた。


「さあねぇ。男の考えることなど、ワシには分からないよ」


 白女は関心を示さず、鏡を見たまま櫛で髪をすく。


「それより、夢香の子がもうすぐ産まれる。おそらく、後ひと月だ。身の回りの世話をしておやりよ」


 白女の顎が、水場で洗い物をするうなじの細い女を指した。


 静は夢香の丸い腰に眼をやった。その腹の子の父親は勝蔵だろうか?……彼の笛の音を思い出し、夢香の子が彼のものであって欲しいと祈った。


 力蔵の一党は月神社に七日間逗留し、再び荷物をまとめた。村の者たちは「来春まで……」「せめて、あと二三日……」と引き留めたが、力蔵は譲らなかった。


 傀儡子の列が歩くと人々が惜しみながら後を歩き、利根川の前で足を止めた。川辺りに並ぶと、傀儡子たちが舟に乗るのを見守った。


 ひとりの禰宜が静の耳元に顔を寄せた。


「この先は頼朝公に滅ぼされて彷徨さまよう亡霊も多い。義経公は平家の者からは敵、鎌倉からは裏切り者と見られている。十分、気をつけて行きなさい」


 彼がいう亡霊とは、かつて常陸ひたちの国を支配していた佐竹さたけ一族とその家臣のことだ。1180年、佐竹秀義ひでよしは頼朝の決起に呼応しなかったために滅ぼされた。主は逃亡し、生き残った家臣の一部が山野に隠れて野盗と化していた。


 乗船した静は、京の都と義経を思い、伊勢物語の和歌を口ずさむ。


 ――名にしおはば いざこと問わむ都鳥 わが思う人は 在りやなしやと――


 それを聞いたある者は、「やはり義経殿を捜しているのだ」と疑い、別の者は「次は、いつ来るものか……」と惜しんで、舟が岸を離れるのを見送った。

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