第15話

 その太々しい態度で、ようやく思い起こす。彼女は昨晩、葦屋さんの隣にいた婦警だった。


「ぞ、ゾンビ……?」


 僕がそう呟くと、彼女は一つ欠伸をかいて見せた。そんなに顔色が悪いだろうかと、首を傾げて見せる。

 漏れ出た吐息を感じてか、ハッと葦屋さんがこちらに振り返った。


七竈ななかまど、お前もいたのか」

「人間の首を引き千切る怪異だというから、安全のために僕も同行しろと、先生が」

「英断だな」


 白く滑らかな髪を掻き上げて、女――――七竈さんは再び欠伸をかいた。眠たげな彼女の様子を、葦屋さんは柔らかな目で見ていた。


「紹介が遅れたね。こいつは七竈ハラヤ。昨日は婦警の格好をしてもらっていたけど、本当は警察でも何でもない、捜査協力をしてくれている一般市民だよ」

「七竈さん、ですか……えっと……一般市民が何故婦警のコスプレを……」

「コスッ……うーん、流石に警察に見えない人間があそこでフラフラしてると目を付けられるし、君の叔母さんが来るってなって、急遽ね」


 眉尻を下げる葦屋さんを横目に、七竈さんが大きく舌打ちをしたのが聞こえた。彼女は「戻るぞ」と言って、そのまま屋敷の中へと消えた。その背を目で追う。わざとずらしていた視線が、かちりとハマった。屋敷の中身が視界に入った。電気を点けていないからか、昼間だというのに屋敷の中は薄暗く、視界は狭く感じられた。開いた玄関には、昨晩と同じだけの『手形』があった。

 僕がジッと玄関で立ち往生していると、その体重をずらす様にして、葦屋さんが僕の背を押した。


「見たくなければ、ここで君には引き返してもらってもいいけど」

「……立ち合いが必要なんじゃ」

「あると助かるけどね。普通はさせないけど、怪異事件って、特殊な事例だし。まあ、高校生に無理をさせる程、俺達も冷徹じゃない」


 天井にまで貼り付いた赤い六本指の手形。引き千切られて首部分だけが歪に伸びるヒト型の白いテープ張り。それらを以って、僕は俯瞰する。成程これは確かに、特殊な事件であろう。少しでも情報を得たい彼等にとっては、僕の反応ですら宝に見えるのかもしれない。

 一息吸って、足を前に出した。乾いた吐瀉物に気付いて、咄嗟に重心をずらす。よろけた僕の身体を支えたのは、いつの間にか背後に回っていた波瑠さんだった。


「無理はしないで。僕もこの屋敷についてはよく知ってるから」


 心配は、されているのだろう。けれど何故だかその言葉の一つ一つに、棘があるように思ってしまった。苛立っているとすれば、先程の識さんとの諍いが発端だろうか。それとも、もっと温和に見るのなら、何か焦っていると言った方が正しいか。

 波瑠さんの機微に思考を混ぜていると、彼等は淡々と僕と玄関の隙間を縫うように歩いて行った。赤い手形に目を向ける者、死体のあった場所に目を向ける者。様々に視線が飛び交う。中でも天井を見上げる識さんは口を開けて呆けている様にも見えた。


「これは確かに、人間じゃないな」


 彼は指先で、何かを数えていた。それが手跡の数なのか、指の本数なのかはわからなかった。


「何当たり前のこと言っているんだ。天井に手跡つけて首を引き千切ってんだから、人間では無いだろ」


 そんなことはわかりきっていると、韮井先生が吠える。彼はそれに付け足すように、「それに」と置いた。


となれば、少なくとも人の形すらしていない」


 その言葉に、僕は足元を見た。確かに、昨晩のことを思い出しても、血だらけの足跡は見られなかった。あれだけ血の手形をつけている化け物だ。足があれば、足跡くらい残すはずである。


「目立つ姿をしているだろうに、目撃情報が無いのは、姿を隠せるってことね」


 玄関前で立ち止まる兎月さんは、外を見まわしながらそう言った。その横顔には確かに眉間の皺が目立っていた。


「加えて、一晩明けて他に似たような惨殺事件も無いなら、道人先輩と縁の深い怪異であることに間違いはないだろう。最初に現れたのもこの屋敷の筈だ」


 彼女の言葉に反応するように、韮井先生が屋敷の奥を睨んだ。その視線の先には、暗い廊下が続いていた。僕の記憶では、この廊下を真っ直ぐ行けば、父の書斎がある。ふと、足元を見ると、床板には小さな丸い血痕があった。


「その現れた場所っていうのも、見当がついてるって顔だけど」


 識さんがそうやって、声を落としながら笑った。韮井先生の顔を伺いながらも、彼はその先に進みたいという好奇心を隠せていなかった。そのきらきらとした精神を否定するかのように、韮井先生は深く溜息を吐くと、首を振った。その瞬間、パッと視界に白い光が灯る。既に廊下を歩いていた七竈さんが、僕達に向けて懐中電灯を向けていた。


「一応聞くが」


 一歩、廊下を進んで、韮井先生が呟いた。


「綾人君と溝隠は、ここに住んでいたことはあるのか」


 彼はそう言って、緑眼の反射色を僕に向けた。無意識に僕は首を縦に振っていた。


「僕が小学校高学年になる頃まではここが自宅だったんです。学校が近かったので。中学に通うには少し遠くなってしまったのと、丁度、波瑠さんがうちから出ていくことになったので、二人暮らしに丁度良い物件へ引っ越しを」


 そう語る間に、廊下を何度か軋ませて、点々と続く血痕を辿った。視界に書斎の畳が入る頃、韮井先生はぽつりと言った。


「成程、通りで子供部屋が二つあるわけだ」


 その反応に、僕は一瞬、息を止めた。彼の認識を正すべきか、それとも。そうやって一秒ほど悩んでいる内に、波瑠さんが僕の後ろから声を上げた。


「僕は子供部屋を使ってませんよ」


 僕の代わりに彼はそう唱えて、畳を踏んだ。


「いつもここで寝かせてもらっていました。ここが一番落ち着いたので」


 蝶の羽ばたきを目で追う。それに導かれるように、僕は波瑠さんの足元を見た。彼は書斎の中央、黒くぽっかりと開いた四角い穴の後ろに立っていた。


「狭くて、冷たくて、落ち着いたんですよ。本当に」


 それはかつて、波瑠さんが眠っていた小さな地下倉庫。いつ作られたかは知らないが、波瑠さんがいなくなってからは、父が「酒を置いておくのに使える」と言っていた場所。

 途切れた血痕は、どうやらその地下倉庫に続いていた。


「それに、いざとなれば色々、隠せましたからね」


 そんな波瑠さんの言葉を合図に、七竈さんが倉庫内を照らした。暗い空間を、全員で覗いていく。照らされたそこには、きらりと光る三つの白い壺があった。


「――――骨壺?」


 ふと呟いた識さんの言葉で、それが本来墓の下に埋まっている筈のそれであると認識する。しかし、それらを囲んだ円状の文字や数式には、理解が及ばなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る