第4話

 喉の肉が前と後ろとでくっついて、息が出来なかった。数秒の無声に、守道さんと兎月さんが訝し気に顔を見合わせた。僕が示す目線の先を、兎月さんが見る。けれどそこには、廊下の暗闇があるばかりで、既に何者の気配も無かった。


「何かいた?」


 守道さんが問うと、兎月が首を横に振る。僕は動けないままに、やっと喉に唾を通した。そうして、肺から出た冷たい空気は、咳となって空間へと流れ込む。何故だか、胸が痛かった。落ち着いた筈の横隔膜は一瞬だけ跳ね上がって、声にならない悲鳴のようなものを上げる。


「言えないなら、良いよ。大丈夫。とりあえず、道人さん……お父さんの様子を伺いに行こうか。丁度、車持ちが来てくれたし」


 僕の肩を叩いた守道さんは、そう言って兎月さんに「よろしく」と笑った。既に何かしらを察していた兎月さんは、少しだけ困った様に肩をすくませながらも、その手で車のキーを弄んでいた。そんな彼女は、笑って僕の背を叩く。立ち上がれるかと問う守道さんに支えられて、痛みの引いた足をしっかりと地につけた。


 借りたサンダルをそのままに、何事も無いまま、僕は兎月さんの車に乗り込んだ。駐車場は閑散としていた。建物から漏れる光が無ければ、その静寂さに、僕は再び頭が真っ白になって固まっていただろう。それでもなお、僕の四肢は冷たく固まっていた。その代わりに熱を帯びる頭は、街の小さな暗闇を目敏く見つけ出す。黒い隙間が目に入る度に、僕の脳裏には赤い唇が浮かんだ。それは何枚にも焼き回したフィルム写真のようにして、劣化を繰り返した。終ぞ、僕が目を瞑って蹲った時には、その唇と白い顔だけが残っていた。それ以外の姿形も、声も、忘れていった。


「だ、大丈夫?」


 僕の隣に座っていた守道さんが、そうやって僕の背を撫でた。前方から「もう着くわよ」と兎月さんが言うので、僕は何とか顔を上げた。運転席に見えるバックミラーには、僕の顔が映っていた。唇は青く、頬は白んで、血色を失っていた。乾いた笑いが込み上げて、喉から出そうになった。それを口の中に押さえ込んで、僕は「大丈夫です」と笑って見せた。僕を落ち着かせる手段なのか、ふと目に入った守道さんの膝には、彼のデスクにあったあの白い猫のクッションがあった。彼の中では、僕はまだ幼い中学生の少年のままらしい。それが少し、おかしくて、僕はまた笑った。勝手に心穏やかになる僕を不審に思ってか、当の守道さんは眉を顰め、困惑の表情を浮かべていた。


 そうしているうちに、風景は黒を湛える。住宅やビルの立ち並ぶ街から、山の中に入ったのだ。父が職場として使っていた別荘は、少しだけ人里から離れたところにあった。とはいえ、道はきちんと舗装されていて、車であれば山の入り口から五分足らずで辿り着くことが出来る。ただ、夏真っ只中にあった今時期は、木々が生い茂って、青臭さと共にその枝が道を阻んでいた。それらを無理矢理なぎ倒しながら、兎月さんは別荘の玄関にライトを当てた。ハイビームに照らされた別荘は、一人の成人男性が使うには広すぎる平屋建ての日本家屋だった。


「綾人君はここに来るの久しぶりじゃない?」


 兎月さんが、シートベルトを外しながらそう笑った。「そうですね」と僕は口角を引き伸ばす。


「部屋荒れてるから、びっくりするかもしれませんね」

「そうなのよね、道人先生って、案外自分の身の回りに無頓着っていうか」

「でもご自宅は綺麗ですよね。そういうしっかりしたところは、お母さんに似たのですかね、綾人君は」


 健康的な声色で言葉を選ばず笑う兎月さんと、それを穏やかな口で拾い上げる守道さん。彼らは僕に悩む隙間を与えないようにするかの如く、日常会話を続けた。ただ僕はそれを、笑うしかなかった。しっかりしているという自分と亡き母への賞賛は、僕の頭蓋骨の裏側を滑っていった。


「そうね、先生、不摂生だもの。中で倒れられてても困るわ。入っちゃいましょ、中に」


 そう言って、兎月さんは車のドアを開いた。ガコンという音を立てて、外の生暖かい空気が入り込む。

 その瞬間、先程まで感じていた、二人の無理矢理にでも朗らかな雰囲気にしてやろうという気合は、車の扉を開けた瞬間に打ち消された。


 むわり、鼻を包むのは、錆びた鉄釘と魚の切り身を混ぜたような、鮮度を伴った生臭さ。それを感じた頃には、無意識に僕は屋敷の玄関へと走っていた。

 耳にこびりついた、あの電話越しの肉の音。それが嫌な方向に想像を掻き立てる。鶏肉から皮を剥ぐときの音。または、ささみ肉の筋を抜き取るときの感触。あの妙な水っぽい音は、そんな肉を手で割くようなそれに似ていたのだ。だが今までにそんな想像を巡らせなかったのは、そんななどということが、現実にあり得る筈がないからだ。

 有り得ない。本当に、あり得る筈がない。食肉ですら手で引きちぎるのは難しいというのに、骨のついた生きた人間を、などと。そんな夢物語が、現実になる筈がない。この鼻に纏う血の匂いは、きっと、何か、別のものなのだ。多分、父が、資料か何かで、動物の血を買って、ぶちまけたのだ。きっと、そんな、描写研究の一環だ。これは。


 整合性の失われた現実への拒否感を、僕は胃の中へと飲み込んだ。玄関の引き戸は僅かに開いていた。妙だった。山の中と言えど、街は近く、不審者が入り込む可能性はある。何より作家が使う仕事場と言うには広すぎる日本屋敷だ。強盗が入ってきてもおかしくはない。だから、少し抜けたところのある父でも、必ず戸締りだけは徹底している筈だった。


「父さん」


 僕は玄関の隙間から、そう声を通した。足が前に出なかった。立ち竦んでいると、守道さんが僕の背後を取った。更には玄関の隙間に手を入れて、彼はゆっくりと戸を開けた。

 開けた視界には、ただ暗闇が続いていた。玄関のタイルが、僅かに月明かりと車のライトを反射させていた。そこに妙な赤みと、人工物からはかけ離れた凹凸を認識する。


「……玄関の照明、点けない方が良さそうね」


 僕の隣に身を置いた兎月さんが、そう言って、スマホを取り出した。カメラのフラッシュ部分が光る。小さな丸い光は、玄関のタイル一枚を照らした。そこには確かに、赤黒い液体が広がっていた。僕が大きく息を吸った瞬間、守道さんの手が口を塞ぐ。


「まだ近くに犯人がいるかもしれない。騒がないで」


 耳元で、鋭く重い声が響く。いつもの守道さんからは考えられない声色だった。

 その隣では、全てを察した兎月さんがスマホを耳に当てていた。一瞬見えた画面には、救急車を呼ぶ一一九――――ではなく、『葦屋』という人名があった。警察ですらない電話口を見て、額に力が入るのがわかった。


「とりあえず、綾人君は車に戻ろう」


 目を瞑って。と言う守道さんは、僕の顔に手を当てた。その次の瞬間には、電話の向こうから何か言われたのか、兎月さんが慌てて玄関の照明スイッチに手を当てていた。

 指の隙間から薄らと見えたのは、目を見開いてこちらを見つめる父の顔だった。その顔の下、喉は赤く腫れ上がっているように見えた。否、それは頭に繋がっただけの肉と、僅かな食道。その先が収まっているだろう父の体は、玄関から少し離れた廊下の上で、仰向けに倒れていた。


 胃の上で、酸が躍る。粘着く唾液と共に、口の中を酸味と刺激が蹂躙する。咄嗟に僕は顔を前に出して、両手で口を押さえた。その僅かな抵抗で、守道さんの手から逃れる。開かれた玄関の前、僕は膝をついて屋敷の中を眺めた。はっきりとした視界には、が父の血液をインクにして、縦横無尽に広がっていた。

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