二 尾張の輿

 斯波義銀。

 織田信長に擁立された、傀儡の尾張守護であったが、先年、今川義元らと手を組んで、尾張を実効支配しようと企んだところを、信長に追放された。

「あの時、殺しておけば良かったか」

 だが、斯波家の家来から信長の家臣になった者も多くおり、信長はそれを考慮した。

 目の前にいる簗田政綱もまた、かつては斯波家に仕えていた。

「いや、今さらか。それより、輿を探すのだ。探してそれを」

「討つのですか」

「そうだ」

 信長としては、織田を討ってのちの尾張をどうするか、という点に着目した。

「三河を見よ」

 政綱は信長の父、信秀の時代から織田家の三河方面の諜報に携わってきた。

 それゆえに、その一言で理解した。

「三河の松平のように、今川の御輿みこしとして使うわけですな、斯波を」

「そうだ」

 今川義元が、もし上洛するならば、後方となる尾張に人をく余裕は無い。仮に上洛しないとしても、尾張を今川が直接支配するのは、さわりがあろう。

 そこで斯波義銀を、という見立てだ。

 よくぞそこまで今川義元の心理を分析したものだ、と政綱は半ば呆れた。

「で、どうだ?」

 もうここまで来たら、細かい説明は不要とばかりに、信長は視線をれた。

「たしかに、三河に斯波義銀らしき者がいる、との噂が」

「そこを義元に見出されたようだな。の乱入よ」

 今川家はたびたび尾張に食指を動かしていたが、このような大規模の乱入は初であり、その理由が織田家中で取り沙汰されていたが、信長は清洲から一歩も出ることなく洞察していた。

 政綱は立ち上がった。

「ならば話が早い。闇討ちを」

「待て」

 信長は目で制した。

「合戦の最中にて討たねば、無意味」

 信長としては、現段階で義銀を亡き者にしては、次は義銀の影武者を立てるやも、と危惧した。

「その時にはその御輿、二度と表に出すまい」

 そうなれば、御輿を壊して、今川の目論見を叩き潰すなど、夢のまた夢。

「ゆえに、合戦にて討ち果たすのだ。たれの目にも判るように御輿を壊す。壊せば、あの義元のこと。退こう」

「退きますかな」

「退く」

 信長の脳裏に、海道の勢力地図が浮かぶ。

 いかに同盟を結んでいるとはいえ、武田と北条が、今川の直接の尾張支配に物申すだろう。

「それにだ。予とて先に公方くぼうさま――足利義輝さまに京にて拝謁し、すでに尾張守護を仰せつかった身ぞ。それを引っ繰り返そうというのなら、それこそ斯波という御輿が要ろう」

 信長はふと隣室の方に目を向けながら語った。

「あと、思いついたが、予が一色と手を組む、という噂を流してやれ。さすればますます、斯波が、となる」

 隣室で、濃姫が立ち上がるような気配がした。

 そして隣室から異様な迫力を感じる。

 全裸の濃姫が、襖越しにこちらを睨みつけているような迫力を。

 濃姫にとっては、一色義龍は兄というよりも、父・斎藤道三の仇である。

濃姫あれには、あとで話しておく」

 早く行け、という信長の目線だが、そもそもこの閨を出るには、向こうに濃姫が立つ襖を開けて行かなければ。

 信長は破顔した。

 そこまでは思い至らなかったと、頭を掻いた。

「許せ、濃。一色とねんごろにするは、噂じゃ、噂。予が懇ろにしたいは、おぬしよ」

「…………」

 衣擦れの音が聞こえた。

 着直したのであろう。

 下手な牢獄よりも抜けにくい檻であった……と、後に政綱は述懐した。

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