第3話 5

 サティを通りかかった侍従に頼み、わたくしは自分の部屋に駆け込んだ。


 扉にしっかり鍵をかけて。


 部屋でひとり、わたくしは袖をまくって、左腕についたミミズ腫れを見る。


 温室で、先生に教鞭でつけられた痕……


 その隣には、だいぶ薄くなってきたけど、一昨日つけられた痕も残っている。


「うっうぅ……」


 ……いたいよぅ。


 声を殺して、わたくしはこっそり涙をこぼす。


 わたくしが悪いのはわかってる。


 サティとの時間があんまり楽しすぎて、わたくしはせっかく教わった礼儀なんて忘れてしまっていたから。


 偶然、温室にやってきた先生に、すぐに挨拶できなくて怒らせてしまった。


 ――コンスタンス・ボルドゥイ。


 お父様のご学友だったのだという先生は、礼儀作法にすごく厳しい。


 少しでもできないと、鞭で叩かれる。


 ……はじめの頃、あまりにつらくて、わたくし耐えきれずにメイドのリズに泣きついたのよ。


 リズも先生に注意しに行ってくれて。


 ――でも……


 気づいたら、わたくしは嘘つきという事にされてしまっていた。


 味方のはずのリズは、わたくしがお稽古が嫌だから、大げさに言っているだけだという先生の言葉を信じて、わたくしの訴えを聞いてくれなくなってしまったわ。


 そして、先生の罰はもっとひどくなっていった。


 鞭で手を叩かれるのは、まだ優しい方で。


 ひどい時は、背中を何度も鞭で打たれたわ。


 リズは背中の痕にも気づいているはずなのに、わたくしが悪い子だからっていう先生の言葉を信じてる。


 あんなに優しかったリズが、今ではすごく冷たくなってしまって。


 お父様やお母様もあんな風になってしまうかと思うと、わたくしはお稽古がつらいなんて、もう誰にも言えなくなってしまった。


 わたくしが良い子になれば……


 先生も優しくしてくれるのかしら。


 一緒にお稽古している先生の娘のルクレールは、わたくしと違ってすごくデキが良い。


 だから、お稽古の最中はいつも先生に褒められていて、罰を与えられるわたくしをいつも蔑むように笑って見ているわ。


 そして、決まって――


『――クラウティアは、辺境伯家のご令嬢に相応しくないのではなくて?』


 って、ひどい事を言う。


 まるで自分の方が相応しいみたいに。


 そんな時は、先生も一緒になって――


『クラウティアは平民のお母様の子供だから、お稽古ひとつまともにできないのでしょうね……』


 って、お母様の事までけなしてくる。


 それが悔しくて、悲しくて……でも、少しでも不服そうな顔をすると、頬をぶたれたり、鞭で叩かれたりするから、いつもなにも言えなくなってしまう。


 わたくしは誰にも聞かれないように、ベットに潜り込んで両手で口を覆う。


 大粒の涙がこぼれ出るけれど、布団をかぶっているから誰にも見られないはずよ。


「……いたいよぅ。もうやだぁ。

 ――誰か助けてよぉ……」


 そんな人なんてどこにもいないのに、そう求めずにいられない。


 この真っ暗な毎日を――誰か壊して……




 どんなに嘆いても、どんなに辛くても、朝はいつものようにやってくるのね……


 わたくしはあのまま、ご飯も食べずに眠ってしまっていたみたい。


 翌朝、リズに起こされて、ベッドから身体を起こすと、ドレスのまま眠ってしまっていたから。


「――お嬢様、ドレスのままベッドに入ってはいけません。

 そんな事もわからないのですか?」


 さっそく朝から叱られてしまったわ。


 ……ああ、こんなことだから、リズに悪い子って思われるのでしょうね。


「……ごめんなさい……」


 呟くようにして謝ると、リズは無言のままわたくしを鏡台の前に座らせて、髪を梳かす。


 前はいろいろと話しながらだったのに、今のリズはそんな風にはしてくれない。


 嫌な事をさせられてるような表情で、仕方なさそうに髪を梳かし、無言のままドレッサーの手前から、今日着る服を用意して。


 ……前は、どの色の服が良いとか、どんな髪型にするかとか、いろいろと訊いてくれたのに、今ではすっかりそんな事なくなっちゃった……


 ……なんでこんな事になっちゃったんだろう。


 リズに助けを求めなければ、こんな風にならなかったのかな?


 思わず涙が溢れそうになって、わたくしはぎゅっと目をつむる。


 そうしている間にも、リズはテーブルに朝食を並べて。


 これも、先生が来てから始まった習慣。


 前はお父様やお母様と一緒に食事していたのに、お妃様になったら朝はみんな別々だからって、わたくしだけ別に朝を過ごすようになったのよね……


 冷めきったスープを飲んで、もそもそとパンを口に運ぶ。


 リズはそんなわたくしの仕草すら不快というように、食べている間ずっと、爪先で床を鳴らしていたわ。


 それがまるで急かされているように感じて。


「……ごちそうさま……」


 わたくしはいつも半分くらいで、朝食を残してしまう。


「またですか。せっかく用意された料理を残すなんて、本当にお嬢様は良いご身分ですよね」


 ため息をつきながら、呆れたように告げるリズに。


「……あのね、リズ。わたくし、リズになにかした?

 なんでそんなひどい事言うの?」


 わたくしはなけなしの勇気を振り絞って訊いてみる。


 ……けれど。


「――ご自身が一番、ご存知なのでは?」


「……わからないわ……」


 呻くような呟きは、リズの耳には届かなかったみたい。


「それにこれは『しつけ』ですよ。

 被害者ぶるのも大概にして欲しいですね。

 コンスタンス先生にも、出された料理は残してはいけないと、言われてませんか?」


 冷たい目でそう言われたら、わたくしは黙るしかない。


「……ごめんなさい……」


 うつむいて、そう言うのが精一杯で。


 リズは鼻を鳴らして、食器をカートに片付けていく。


 と、ドアがノックされて、先生がやってきた。


「――まあまあ、まだ朝食の最中だったなんて。

 本当にだらしない子!

 それともわたくしとのお稽古なんて、遅れても当然と思っているのかしら?」


 扇で顔半分を隠しながら、先生は不機嫌そうに甲高い声で言う。


「そ、そんなこと!

 今食べ終わって――」


 わたくしの言葉は最後まで続かなかった。


「――言い訳しない!」


 ツカツカと早足で歩み寄った先生は、叱責と共にわたくしの頬をぶつ。


 頬が熱くなるのを意識する間もなく。


「――まず挨拶でしょうが!」


 反対の頬もぶたれて、涙が滲んだ。


 その間にも、リズはわたくしの事など気にもせずに、カートを押して部屋から出ていく。


 わたくしは痛みを堪えて、椅子から立って、先生に向けてカーテシー。


「……お、おはようございます。先生」


「腰が高い! 腕の角度もダメ!」


 扇で腰と腕を叩かれた。


「……ごめんなさい」


「――申し訳ありません、だと何度言わせるの!?」


「申し訳ありません!」


 深々と頭を下げると、先生は深い溜息をついたわ。


「本当にグズね。

 まあ良いわ。それじゃあ今日はダンスのお稽古よ」


 そう言って、先生は廊下に向かう。


 わたくしは、無言でそのあとに続いた。


 ダンスホールに向かうまでの間、何人かの使用人とすれ違ったのだけれど。


 みんな、先生に笑顔で挨拶していた。


 そして、わたくしには会釈だけ。


 それも仕方なさそうに、浅く頭を下げるだけよ。


 リズと同じ。


 前は優しくしてくれたみんなが……


 すごく悲しい気持ちになったけど、移動中になにか言ったら、また先生に叱られるから、わたくしは黙ったまま先生のあとに続いたわ。


 やがてダンスホールにつくと、先生の娘のルクレールがもう先に来ていて。


「……ルクレールは本当に良い子ね。

 ひとりで準備して待っていられるのだから。

 それに引き替え、クラウティアは……」


 ……わたくしだって、わざわざ毎朝、迎えに来なくてもひとりで来られるわ。


 けれど、それは口に出さない。


 言ったら、また言い訳するなってぶたれるだけだから。


「……申し訳ありません……」


 ただ心を凍らせて、わたくしは頭を下げる。


 ルクレールがクスクス笑うのが聞こえたわ。


「それじゃあ、始めましょうか?」


 いろいろある先生のお稽古の中で、ダンスが一番辛い。


 少しテンポがズレただけで、鞭のお仕置きが待ってるんだもの。


「……はい」


 それでも逆らうこともできず、わたくしはルクレールの隣に並んだわ。


 ホールの入り口がノックされたのは、その時だった。


「――ボルドゥイ夫人、ちょっと待ってもらえるかしらぁ?」


「――お母様っ!?」


 わたくしはそこに立つお母様に、思わず声をあげてしまった。


「……アレイナ様。ごきげんよう。

 わたくしの稽古には、口出しなさらないというお約束でしたわよね?」


 呻くように、すごく不機嫌そうに、先生はお母様に訴える。


「あらあら、怖い顔。

 そんな睨まなくても、別に口出しするつもりなんてないわ。

 ただ、今日はもうひとり、生徒を連れてきたの」


 と、お母様が半歩進み出ると、その後ろから白銀髪の女の子が姿を現す。


 着ているのは、去年までわたくしが着ていた、薄空色のドレスで。


「――ボルドゥイ夫人、昨日はご挨拶もできずに申し訳ありませんでした。

 ノルド開拓領は騎士ノルド・ルキウスの娘、サティ・ルキウスと申します。

 どうぞ、わたくしにもダンスのお稽古をお願いいたしますわ」


 舌っ足らずながらも、完璧な口上でそう告げた彼女は、スカートを摘んで完璧なカーテシーを決めて見せた。


 昨日、一緒に過ごした時の、天真爛漫といった様子はまるでなくて。


 すごく洗練された、お嬢様のような仕草だったわ。


 そしてサティは――


『――助けに来たよ。クラウちゃん』


 声に出さずに口の動きだけで、わたくしにそう伝えて。


 ……ああ。この子は。


 涙がこみ上げそうになるのを、わたくしは必死に堪えたわ。


 ――誰にも気づいてもらえないと思っていたのに。


 毎日、ほとんど一緒にいるリズにさえ見放されたわたくしを。


 ……助けてくれるというの?


 ほんの数時間、一緒に過ごしただけだというのに。


 感極まって、喉を詰まらせるわたくしの前を通り過ぎて、サティは先生の前で再度腰を落とす。


「……まずはわたくしのステップを見てくださいますか?」


 にっこりと笑みを浮かべ、サティは挑発的に先生に言ってのけた。


 その瞳の色が……深い青から綺麗な琥珀色を経て、金色へと変わっていく。

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