兄と弟

早野香織

兄のトマトの面倒を見る

 トマトの調子が悪いから家に来て見てくれ、と兄から連絡がきて、何かの間違いかと思った。


 父が事故で死んでから、兄は実家に一人で住んでいる。田舎と言うには微妙だが、都会と言うには山に近すぎる我らが故郷だ。俺はあの家に住みたい理由もそこまでなかったし、車の免許がないと不便な街だったから、大学の近くに住むことにした。

『トマトの調子が悪いから、家に来て見てくれ』

 休日の夜、唐突に電話がかかってきてそんなことを言われた。

「それ、なんか比喩? それとも詐欺?」

『どっちでもない、トマトの調子が悪いんだ。良いから来いよ、夏休みだろ?』

「ゴールデンウィークだよ、まだ春だっての」

『いいから』

 兄はめちゃくちゃだった。


 逆らっても面倒なことになるとこの二十年で学んでしまったので、俺は駅からバスに乗って兄の住む家へと向かう。夏休みはまだ先だけれど日差しは強くて、もう車内は冷房が効いている。

 バスに揺られながら見慣れた街や山をぼんやり見つめる。兄に何を聞いても、ただ、トマトを助けてくれというような事しか言わなかった。トマトなんか口実で、本当は俺の顔が見たいだけなんだろう。兄がそんな可愛い性格をしているとは思えないが、とりあえずそれで納得することにした。

 トマトを育て始めたことは知っていた。野菜を育ててみたかったんだ、と浮ついた声で俺に報告してきたことは覚えている。

 でも兄はお世辞にも面倒見がいいとは言えないほうで、興味や愛情のあるなしに関係なく――いやむしろ、興味や愛情があるほうが放置してしまうタイプだ。気持ちがあるからいいだろうとか思っているんだろうか。あいつぜったい熟年離婚するタイプだよな。宿題の朝顔は、義務だからかちゃんと育ててたし。

 とにかくトマトをなんとかすればいいんだろう。とっとと治すなり諦めて枯らすなどして、さっさと気楽な一人暮らしに戻ればいい。



「ほら、早く見てくれよ」

 お帰り、も久しぶり、もなしに兄は俺を見てそう言った。

「その前に荷物置かせろ」

「いいから」

「重いし暑いんだって」

「こっちのプランターだ」

 兄に逆らっても無駄だ。俺は荷物を持ったまま引っ張られてしまう。俺は兄に背中を押されるようにして、トマトとご対面する。プランターには確かにトマトらしい緑が伸びていて、けれど先端の葉が弱々しく丸まってしまっていた。

「な、かわいそうだろ。なんとかしてくれよ」

「……なんで俺が」

「なんとかしてくれるから、来てくれたんだろ?」

 本気で不思議そうな声が聞こえて、俺は兄の顔を睨んでしまう。彼の黒髪はだらしなく伸びて跳ねていて、肌の色は記憶より濃い。ぼんやりした表情の中で、昔から、目だけがやけに澄んでいる。概ね変わらないままだった。

「このトマトが育たないと、夏の俺が飢えちゃうんだよ。頼んだぞ」

「トマトだけで夏をしのごうとすんな……」

 見たところトマトの調子は確かに悪そうだったが、おそらく肥料のやり過ぎだろう。水を多めにやっていれば、きっとなんとかなるはずだ。

「……なんとかなる?」

「たぶんな」

「どんくらいで?」

「さあ、一週間くらいじゃねーの」

「そっか」

 少しだけ嬉しそうな声がして、兄が後ろから、荷物ごと俺を抱きしめた。

「暑い、」

 俺の文句は全部出る前に兄の唇に塞がれた。

「じゃあ一週間、頼んだ」

 兄は家に戻っていく。

 少しの間茫然としてから、俺も追いかける。





 夕飯のメインは、トマトと卵の炒め物だった。分かってるじゃねえか、トマトは買えば食べられるってこと。トマトの苗を諦めて俺をさっさと解放してくれ。風呂上がりで髪を濡らしたままなんとも言えない気分になっていると、兄は飯や味噌汁をよそい始める。

「米、どんくらい食う?」

「えー、普通くらい……」

「味噌汁、自分でアオサ入れて」

「おー……」

 割と手際良く、食卓が整えられていく。兄が家事をする印象はなかったが、一軒家での一人暮らしを続けていれば嫌でも身につくものなのかもしれない。

「いただきます」

「いただきます」

 二人でお行儀よく手を合わせる。箸は俺が使っていたものがそのまま残っていた。今となっては逆に、手に馴染まない黒い箸。

 味は普通と言うか、まっとうに美味かった。兄がちゃんと料理をできるなんて不思議だ。

「ねえ、本当に俺がトマトの面倒見なきゃダメなの」

「俺、わかんねーもん」

 トマト育ててるのにわかんねーとはなんなんだ。ちゃんと責任持てよ。

「ていうか昼間、俺にキスした?」

「した」

 白昼夢ではなかったらしい。

「トマトとか口実で、俺を呼びたかっただけ?」

「…………」

 返事はなかったが兄は無言のまま目をそらして赤面した。まるでトマトのように真っ赤、とか、そんなつまらない表現をしてたまるかと思った。俺の推理、当たってたのかよ。嘘だろ。

「なんなの、俺のこと好きなの?」

「………………」

 無言、そして赤面。


 俺は兄と微妙な距離感になりつつも一週間でちゃんとトマトを復活させてあげたが、夏休みにまた収穫とか草むしりをしてくれというようなことを帰り際に言われた。

 兄の要請や好意に応えてやってもいいというか、兄に逆らっても無駄だとは思う。

 でも俺が兄のものになって、あの肥料をやりすぎたトマトみたくしおれてしまったらどうするのだろうか。一週間で復活できるとは思えないし、誰も助けてくれないだろうな、と思うと嫌だった。

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