忙しい一日の始まり

 気が付くと夜の海辺にひとりで立っていた。


 満月に照らし出された真っ白な砂浜は、すぐ後ろから波の音さえ聞こえてきさえしなければ、まるで中東かどこかの砂漠のようだった。

 月明かりと砂紋が作り出した淡いコントラストが彼方まで続いており、そのあまりの美しさに踏み跡を付けてしまうのが申し訳なく思えた。

 なるべく足を動かさないように身体を反転させ海側に向き直り、視線は遥か水平線へと向ける。


 十数メートル先にある波打ち際の、さらに十数メートル離れた海の上で、少女が上半身を海面から生やし手招きをしていた。

 満月を背にしたその姿はとても恐ろしく、そしてとても美しくもあった。

 呼ばれるがままに海の方へ一歩を踏み出すと、少女は雪のように真っ白な顔を綻ばせてニッカリと笑ってみせた。

 続けて数歩前進すると、生ぬるい波が足首に纏わりつく。

 次の一歩ではすね、次の次には膝と、急激に深さを増す海に僕は入っていく。

 ついにヘソが海中に没するまで進むと、手を伸ばせば触れられる至近にまで迫った少女とようやく対面した。

「おまたせ」

 少女の海藻が絡まった腕をきつく握り、そのままどんどん沖へ向かい歩みを進め、そして――。



「……っ」

 寝覚めとしては最悪の部類だった。

 我ながら何と悪趣味な夢を見たものだろうか。

 声を上げて飛び起きなかっただけまだマシな方なのかもしれないが、寝汗によって寝間着が背中にベッタリとくっついていて気持ちが悪い。

 隣で休んでいたはずの母はすでに起床していたようで、部屋の隅には布団が畳まれ置かれている。

 寝汗を吸って重くなったシーツを布団から剥がすと、同じくじっとりと湿った寝間着を脱ぎ捨てて普段着に腕を通す。

 時計を見るとまだ七時少し前だったが、今朝は予定があったので丁度いい時間であるともいえた。


 玄関へ向かう途中に台所を通り掛かると、母と伯母が楽しそうにお喋りをしながら朝食の準備を進めていた。

「あら夏生。ご飯まだ一時間くらいかかるよ」

「うん。朝ご飯の前にやることあるから」

 そう言い残し玄関から外に出て、物置から軍手を一双拝借し庭の外れにある藤棚の下へと向かった。


 花が終わり実が生るにはまだ早い今の季節の藤棚は、只々深緑の葉を覆い茂らせてそこに存在していた。

 軍手をはめながらその場にしゃがみ込む。

 そしてすぐ目の前の地面に生える名も知らぬ雑草を片っ端から掴んで引っこ抜く。

 そうしていると何時間か前に火がついたばかりの太陽が、低い位置から顔や腕を攻め立ててくる。

 これならば昼前にでもやったほうが日陰で作業出来る分、却って涼しかったかもしれない。

 だからといって一旦中断しようという気にはなれなかったので、お天道様に背を向けながら作業を継続する。

 学校で強要されてやる草取りは苦痛でしかなかったが、自発的に行うそれはまた様子が違ったようで、みるみるうちに積み上げられていく雑草の山が気持ちよかった。


 開始して三十分で藤棚の下はすっかり見違えて、赤黒い土の地面がはっきりと見えるまでになっていた。

 腰の高さまで積まれた成果を見下ろしていると、玄関から出てきた祖母が不思議そうな顔でやってきた。

「夏生がやってくれたんか」

「うん。昨日、お小遣い貰っちゃったから」

 そうとでも言っておかなければ僕の財布はまた厚みを増してしまうだろうし、実際にそういう側面もあったのであながち嘘でもなかった。


 祖母と一緒に家の中に戻ると、ちょうど母と伯母が朝ご飯の配膳を始めたところで、朝餉あさげのいい匂いに思わず腹が鳴ってしまう。

 居間の座卓の上には二枚の大皿に大量のサンドイッチが盛られており、味噌汁の代わりにコンソメスープが添えられていた。

「おばさんちの方だと朝はサンドイッチが多いけど、夏生ちゃんちのほうは違うだね」

 部活の朝練の時などは朝食でサンドイッチを食べることはあるが、家族の食卓でお目にかかる機会はうちではあまり無かった。

 食パンの耳が落とされていないそれには、これでもかというくらい大量の具が挟まれており、味だけでなく食べごたえも大満足だった。

「おばさん、これすごく美味しいよ」

 僕の褒め言葉に気をよくした伯母は「明日那にもこの味を仕込んでおかんとね」と、突然張り切り出す。

 あっちゃんは口が小さいから、きっとこの大きなサンドイッチを食べるのには大変な困難が伴うのではないだろうか?

 ボロボロと具を下に落としながら必死に食べる彼女を想像して、その滑稽さに自然と笑みがこぼれてしまった。

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