第10話 茨の道を歩むより

 曇天の午後。

千明ちぎら米穀店」と墨で大書された看板の前に、冬馬は立っていた。黒ずみ表面がざらついた看板は店の歴史を物語っている。

 サッシガラスの向こうには米袋が山と積まれ、精米中なのか米ぬかの臭いが漂う。小袋の米は見当たらない、大口の受注に特化した店なのか。


 中に入ると、出てきたのは光だった。いきなりのことで緊張する。

 想像していた、そのままの姿。年の割には若々しいが、光は四十六歳になっているはずだ。

 光もすぐに冬馬だと気づいた。

「久しぶりだな」

 と冬馬は言った。

 光は黒のポロシャツにデニム、紺の前掛け姿。

「ああ」

 普通に光は答え、冬馬の、

「ぜんぜん変わってないな」

 には、

「そっちこそ。意外に劣化してない」

 と応じた。

「ちょっと話があるんだけど、今いいかな」

 光は、うんと答えて前掛けを外した。

「隣に行ってくる」

 奥に向かって声をかけると、

「はーい」

 女性が応え、冬馬はドキッとした。

「奥さん?」

「弟の嫁だよ。俺が結婚するわけないだろ」

 ゲイなんだから、と、やっと聞き取れる声で付け加えた。

 俺のせいなのか。

 光が気になる、付き合って、などと言わなければ、こんなことには?

「ただいま」

「おう、お帰り」

 冬馬が顔を上げると、真新しいランドセルを背負った男の子が店に入ってきていた。

 冬馬に、こんにちは、と挨拶する。

「こんにちは」

 冬馬は笑顔で返した。

 可愛い子だ。光に、どことなく似ている。

「甥だよ」

 光はぶっきらぼうに言った。


 隣は「純喫茶 古城」、重厚なドアには曇りガラスが嵌められている。

「いらっしゃい」

 店内は閑散としていた。年老いたマスターがカウンターにいるだけ。

 レトロな雰囲気で、奥の壁にヨーロッパ風の城のステンドグラスが掲げてあった。

 最奥のボックス席に腰を下ろすなり、光が尋ねた。

「今頃、何?」

「謝りたくて」

 冬馬はなかなか顔を上げられなかった。

「謝ったじゃん、二十年も前に」

 皮肉たっぷりの声がする。冬馬は一旦顔を上げ、深々と頭を下げた。

「済まなかった」

 光を傷つけ、裏切ったことを冬馬は詫びた。

 二十年前は、ほとんど何も言えなかった。光がブルーグレイのシャツを着てきたことに動揺して。凪子と違って自分は、まだ気持ちの整理がついていないことを痛感した。

 光は黙ってコーヒーを口に運んでいる。

「俺には覚悟がなかった。何があっても光と離れない、そういう覚悟ができていなかったんだ」

 本気で光と生きる気でいたら、親の反対に屈することはなかった。凪子にもはっきりと、俺に構うな、俺は光と生きる、と告げるべきだったのだ。

「ごめん、ごめんって言うだけで。冬馬は優柔不断だったもんな」

 痛いところを、光はずばり突いた。


 そうだ。優柔不断で、楽な道ばかり歩いてきた。

 大学だって、本当は美大に行きたかったのに、将来のためには経営だ、という父の言いなり。

 婚姻届の失敗、凪子の懐妊。結婚式や披露宴までやらされたが、何処でも誰もが祝福してくれた。おめでとうと言われるのは気分がいい。

 光と生きるのはは茨の道だ。

 表立って関係を公表できす、世間から批判され、時には冷笑される。


 冬馬はふーっと息を吐き、

「このシャツ、覚えてる?」

 大事そうに取り出したのは、思い出のブルーグレイのシャツだ。

「覚えてるよ」

「あの日、これと同じ色のシャツ着てきたよな」

 凪子と三人で会った「和解」の日。

「いつも一枚はこの色のを持ってる」

 光はシャツを見つめて言った。

「わざわざ、この色を選んで着てきたんだね」

「ああ。冬馬が覚えてるか、試したんだ」

 もちろん覚えていた、激しく動揺し、何も言えなくなった。

「冬馬は、葬式みたいな恰好だった」

 白いシャツに黒のベスト。意識はしなかったが、確かに葬儀に通じるモノトーン。

「改めて、もらってほしいんだ」

 シャツを光に差し出したが、

「いらない」

 冷たい声だった。

「捨てちまえば、そんなモン」

 冬馬は黙ってシャツを袋に戻した。

「話はそれだけか、そろそろ行かないと」

 うんざりしたように光は言い、冬馬は、

「いや、本題はこれからだ」

 本題tとやらを聞いて、光は思わず笑ってしまった。

 あまりに驚き呆れると、人は笑うしかなくなる。

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