第15話 深淵をのぞく
空腹を憶える匂いが、その商店街にはあった。
市内の中心街にある、全長620mもあるショッピングストリートであり、1日平均約9万人の人通りがある。
商店街はアーケードに覆われており、雑貨、ファッション、アクセサリー、薬、衣料、 生活用品、文具など老舗から、全国規模の最新店舗までずらり立ち並び、最も賑わいのある通りの一つだった。
特に飲食店は多く、お好み焼き屋、ラーメン、カレー、牛丼、その他諸々。
この道を通るといつも、どこからともなく漂ってくる香りがある。
それは何とも食欲を刺激するもので、佐伯公恵も例に漏れずその一人だ。
仕事帰りにここに立ち寄ったので、日は暮れ始めている。
そう言えば、今朝は何やら慌ただしかったし、昼食もあまり摂らなかったから、余計に胃袋が刺激されてしまっているのかもしれない。
そんなことを考えながら、公恵は歩いていた。
ハンドバッグから、一枚の紙を取り出す。
『浪漫古書店』と書かれたメモと共に、手書きの地図が書かれていた。
千鳴寺の法信に書いてもらったものだった。
法信に
青年は牙を生やした魔人について、
そして、
公恵は、人通りの邪魔にならないよう道の端に寄ると、地図を凝視する。
「この辺りのはずなのだけれど……」
少し歩く速度を上げ、辺りを見回してみるが、目印となるものが見つからない。
「うどん屋さんって、書いてあるけど。ここ、三件もあるのよね」
法信の地図は、ややアバウトな上、スマホも持っていない公恵は店名から検索もできなかった。どうしたものかと公恵が考えていると、ふいに視界の端っこで何かが動いたような気がした。
足元に視線を向けると、そこには一匹の三毛猫がいた。
人懐こそうな瞳をして、こちらを見つめている。首輪などは無いようだが、どこかの家の飼い猫だろうかと思った。
しかし、それにしても……。
と、公恵は三毛猫との出会いに不思議なものを感じる。
三毛猫は、ひょいひょいと軽やかな足取りで、脇道に行く。立ち止まると公恵に向かって鳴く。
まるで、ついて来なさいと言っているかのように。
公恵は誘われるように、思わず脇道に入った。三毛猫は公恵の方を振り向き、ついてきているのを確認すると、道の先に行く。
脇道に人影は無く、先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返っている。
公恵は、不安になりながらも進んでいくと、前方に一軒の建物が見えてきた。
店名を示す看板は無かった。
古びた二階建ての木造建築で、一階部分の店舗部分からは、橙色をした光が洩れている。
三毛猫は迷うことなくドアに取り付けられたキャットドアを通り抜けて中に入っていった。
公恵は一瞬、
店内に入るとそこは薄暗く、古い本の匂いが立ち込めていた。
天井から吊り下げられた古い洋風の照明器具が、柔らかな光を放っている。壁一面を覆うように並べられた本棚には、大量の本が収められ、天井まで届く高い棚には所狭しと本が並べられていた。
中には背表紙のタイトルだけでは内容が想像できないものもあった。
公恵は歩を進める。
そして、本棚に隠れたカウンターの奥では一人の女性が本を読んでいた。
ドレッシーな黒いワンピースに、黒のカーディガンをコーディネイトした20代の若い女性だ。
丸形をしたメガネをかけ、フレームにはネックチェーンが付いている。必要に応じて遠近を使い分けているところを見ると、遠視かも知れない。
メガネをかけてはいたが、きついイメージや顔の輪郭のズレによる違和感はない。知的な印象に色香がからみ、教育者のような威風を持った女性であった。
カウンター横の棚には先程の三毛猫が寝そべり、あくびをしている。
「お帰り、ヨミコ」
女性は三毛猫・ヨミコに声をかける。
すると、ヨミコは鳴いて返事をする。
「そう。迷ってらしたのね」
女性は納得した。
まるで会話が成立しているかのような光景だった。
その様子に驚いていた公恵だったが、すぐに我に帰ると口を開いた。
「あ、あの……」
女性は、公恵の存在に気付くと読んでいた本を閉じ、微笑んだ。
口元に浮かんでいる笑窪がチャーミングだった。
女性は座ったまま言った。
穏やかな口調で。
落ち着いた声音だったが、よく通る声で聞き取りやすい。
「こんにちは。公恵さん、かしら?」
公恵は驚きつつも、軽く会釈しながら答える。
女性の目を見ながら。
知的な雰囲気が漂っていた。
それはどこか神秘的で、不思議な力を持っているような感じがする。
見つめられているだけで吸い込まれてしまいそうだった。
「そ、そうですけど。どうして分かったんですか?」
公恵が訊くと、女性は続けて言う。
とても嬉しそうな表情を浮かべながら。
「千鳴寺の法信さんから連絡を受けていたのよ。私が好きそうなお客さんが訪ねて来るって」
それを聞いて公恵は納得した。
それと同時に少し恥ずかしくなった。
自分があまりにも単純すぎて嫌になったのだ。
女性は続ける。
「そちらに、どうぞ」
公恵にカウンター前にある丸椅子を勧める。
優しい眼差しで。
子供をあやす母親のように。
慈愛に満ちた表情で。
公恵は、そっと腰掛けるとハンドバッグから名刺を取り出した。
それを両手に持ち、目の前の女性に差し出す。
女性は、それを受け取ると言った。
丁寧な言葉遣いで。
大人びた態度で言う。
凛とした佇まいで。
美しい姿勢を保ちつつ。
そして、静かに口を開くのだった。
ヨミコの頭を撫でながら。
艶やかな黒髪を揺らして。
優しく語りかけるように。
穏やかに笑いかけながら。
少しだけ、寂しげに呟いて。
何かを思い出しているかのように。
「そう」
と。
魅惑的で神秘的な女性だと感じた。
公恵は三毛猫を見る。
「こちらの猫ちゃんでしたか」
三毛猫も公恵の方を見上げる。
「えぇ、そうなの。この子の名前は『ヨミコ』。家の看板猫なの」
女性はヨミコの喉を指で撫でると、気持ち良さそうな顔をしていた。まるでマッサージを受けているかのように目を細めている。
そんなヨミコを見て、公恵はクスッと笑う。
先程までの不安げな態度とは打って変わって、楽しそうに。
その様子を見て、女性もまた微笑む。
二人の視線が交わり、ほんわかとした空気が流れるのであった。
「ヨミコちゃんに導いて貰いました」
「猫はねスピリチュアル的な意味は《ネガティブエネルギーの浄化》《癒やしと幸運の引き寄せ》《家族の守護》。つまり幸運をもたらす存在であり、ヒーラーとしても傍にそっと寄り添うの」
女性は、ふいに話題を変える。
話の流れを変えようとする。
それは、これから話すことへの心の準備を整えるためでもあった。
公恵は、それに気付きながらも何も言わずに続きを待つことにした。
「そして、猫に偶然出会うことのスピリチュアルな意味は、幸運・大きな癒しの訪れ」
女性はヨミコを撫で終わる。ヨミコは、まるで自分の役目を終えたとでも言いたいのか、安心しきっている様子だ。
「迷っている時に、ヨミコちゃんにじっと見つめられ、何か不思議な気持ちになりました」
ヨミコは心地良さそうに、棚の上で眠っているのを公恵は見た。
「猫がじっとあなたを見つめている時は、《魂の成長の機会が訪れている》ことを示しているの。精神世界の門番である猫は、あなた自身が今抱えている悩み、問題を見抜く力を持っていると言われているわ」
女性は小さく息を吐くと、真剣な顔つきになって話し出した。
「お医者様なのね。申し遅れたけど、私は
古書店の女主人である摩耶は、公恵から受け取った名刺を眺めると、感慨深げに息を吐く。
そして、おもむろに視線を上げると、真っ直ぐに公恵の目を見据える。
公恵は真剣な眼差しで、ここに来た目的を伝える。
「実は、悪口という言葉について法信さんから訊いたのですが、仏教における十悪という大罪についてお聞きしたんです」
公恵の言葉に、摩耶は一瞬、目を丸くしたが、すぐに冷静さを取り戻す。
ゆっくりと首を縦に振るのだった。
それは肯定を意味していた。
しかし、同時に疑問も抱いていた。
一体全体、何のためにそんなことを聞きに来たのだろうかと。
摩耶にとって公恵の行動は全くの謎であった。
だからといって不快に思うことはなかった。
むしろ興味を抱いたくらいだ。
摩耶は口元を緩める。
好奇心旺盛な子供のような瞳をして。
どこか楽しげに。
公恵は問いかけた。
「摩耶さん。大罪とは何ですか?」
公恵は訊くと、摩耶は少し楽しそうにした。雰囲気からして、この手の話が好きなのが分かる。
「大罪というのは宗教において、絶対にしてはならないとする禁則よ。『旧約聖書』にあるモーゼの十戒のようにね」
「モーゼの十戒。映画で見たことがあります。確か、神が山の上でモーゼを通して民に授けた十ヶ条の戒めですね」
公恵は自分の中にあった知識を口にした。
「そう。そして、大罪で有名なのは、中世ヨーロッパのキリスト教でも、もっとも悪しき行為とされた七つの行為で、《七つの大罪》があるわ。
摩耶の言葉を、公恵は現実的に考えた。
「昔の人は、そうして罪を一つの形にすることによって禁則にし、社会秩序を作ったんですね。今で言えば、警察に逮捕され刑務所に行く」
公恵の言葉に、摩耶は苦笑した。
公恵は分からなかった。摩耶が苦笑したことに。
「摩耶さん。変ですか?」
「そうじゃないわ。古風なことを調べている割には、発想が現実的って思っただけよ。罪を犯した人間がどうなるか、もっと恐ろしいことを昔の人は考えたの。何だと思う?」
訊かれて、公恵は困った。
すると、摩耶はヒントを出した。
「文化や宗教によって多彩な内容になっているけど、この世に生きる人々が関心を寄せた別の世界」
公恵は解った。
「あの世。ですね」
「そして、罪人が堕ちるのが……」
摩耶は、わざと言葉を切った。それは、公恵の口から回答を引き出すため。
公恵が答えた。
「地獄」
「あたり」
摩耶は、ほくそ笑んで続けた。
「人は苦しい時、《地獄》という言葉を使うわ。でも、本当の地獄ってどんな所か知ってる?」
「……いえ」
公恵は、正直に首を横に振った。
「仏教に八大地獄という八つの地獄があるけど、最も地表に近い地獄に等活地獄があるわ。そこで罪人達は、互いに殺し合うことで殺戮の苦しみを味わうの。
罪人達は、鋭く長い鉄の爪を生やし、その爪で互いにつかみ合い肉をそぎ落として死ぬ。あるいは刀剣で斬り合って殺し合う。そうでない者達も、獄卒という地獄の鬼が金棒で罪人の頭から足先まで打ちつけて粉々にする。肉も骨も……」
公恵は職業柄、病人やケガ人を見て来ただけにリアルな想像をした。
思わず身震いする。
そんな様子を摩耶は観察していた。
「……怖い所ですね。地獄って」
「あら。これで終わったと思っているの?」
摩耶は軽く言い、公恵は意外な顔をした。
公恵は困惑しながら言う。
どういう意味なのかと。
摩耶が微笑みながら言った。
とても優しい口調で。まるで子供をあやす母親のように。
しかし、同時に残酷な言葉でもあった。
それは死刑宣告にも似た響きがあったのだ。
「そこは地獄よ。死んだから出所できる刑務所とは訳が違うわ。罪人達は冷たい風が吹くだけで生き返るのよ。風が吹かなくても獄卒が《活きよ、活きよ》と言うだけで生き返り同じ苦しみを味わい続けるの。等活地獄の時間で、500年」
「500年……」
口にして、公恵は気がついた。
「等活地獄の時間……? ということは、こことは異なる時間なんですか?」
訊かれた摩耶は、生き生きとした妖艶な笑みを唇に浮かべる。公恵との会話を楽しんでいた。
「公恵さん。良いところに気が付いたわね。じゃあ、今から人間の時間で教えてあげるわ。
人間の50年が四天王天という天にある世界の一日。この四天王天の500年が等活地獄の1日にあたるのよ」
公恵は、直ぐに理解も想像できなかった。だから、携帯電話の電卓機能を呼び出した。
「人間の50年が四天王天の一日。
まずはこれを一年にすると、50掛ける365で、18250年。
その四天王天の500年が等活地獄の1日になるから、500を掛けて、9125000年。これに365を掛けて等活地獄の1年にすると、3330625000年。
最後に、500を掛けると等活地獄の500年になるから……。え?」
公恵は驚いた。
携帯電話のディスプレイに《E》の文字を見た。
最大10桁までの計算量をオーバーしたのだ。
困っていると、摩耶が答えを教えてくれた。
「等活地獄の500年というのはね、人間の世界では1665312500000年よ」
「1兆6653億1250万年……」
公恵は言葉を失った。
それは、あまりにも長すぎる時間だ。
地球の寿命よりも。
太陽を構成する物質は、ほとんどが水素で、これがエネルギー源となっている。
すなわち、水素原子が四個結合して一個のヘリウムになるが、水素原子四個分の質量とヘリウム原子一個分の質量の差額がエネルギーとして放射されている。
今から50億年程すると、ヘリウムが10%も溜まるために、太陽は赤色巨星へと急速に膨張し地球を飲み込んでしまう。赤色巨星はやがて大爆発を起こし超新星となり、太陽系は最期を迎える。
どんな大予言よりも科学的な最期だが、不安を感じる必要はない。地球の最期を迎える、その前に人類の歴史は終わっているとされる。
人類は誕生してから500万年程度とされる。
それに対し、かつて地球の王者であり生態系の頂にあり続けていた恐竜の歴史でさえ、1億6250万年の繁栄なのだから。人類などは、まだまだ生物の種としては若いと言える。
それを踏まえた上で、公恵は驚いたのだ。等活地獄の時間は、地球が宇宙から消えた後でも、罪人は地獄で苦しみ続けることになる。
だが、驚くのは早過ぎた。
「でもね。等活地獄というのは、八大地獄の中でも最も軽い地獄なのよ」
「い、今のが軽い……」
驚きを隠せない公恵に、摩耶は教えた。
「地獄は縦に等活、黒縄、衆合、叫喚、大叫喚、焦熱、大焦熱、無間の八つの地獄が重なっていて、下に行く程恐ろしい地獄になっているの。最下層の無間地獄ともなれば……」
摩耶は唇を薄く開いた。
公恵は息を飲んだ。
摩耶は述べた。
「夢のような幸福に思えるほどよ。他の地獄が……」
と。
公恵は言葉が無かった。
寒気から、沈黙があった。
静かさが気持ち良いはずの書店で、静けさが、
嫌だ。
と、公恵は感じた。
「怖い所でしょ。地獄って」
「はい……」
公恵は応え、《地獄》は《地にある獄(牢屋)》だから、《地獄》というのが分かった。
そして、公恵は疑問に思った。
「罪人は、そんな恐ろしい世界で生き続けるんですよね。死んでも生き返り、永劫とも思える時間を。それはもう人間を超えてしまった。ということでしょうか?」
公恵の言いたいことを、摩耶は察した。
「公恵さん。やっぱり、あなた面白いことを考えるのね。つまり、罪人は地獄に堕ちることで《力》を得た一種の超人になってしまったと言いたいのね」
「……はい」
公恵の脳裏に、牙を持った男の姿があった。
その男を見た青年は、男が十悪の一つ悪口に堕ちたと言った。
何かが分かりそうな。
公恵は、そんな気がした。
摩耶は考えた。
訊いた。
「仙人。というのを知っているかしら?」
漠然としてイメージしか言えない言葉だった。
「物語とかで、名前だけは。不思議な力を持った人で、霞を食べるとしか知りません」
公恵は首を横に振った。
摩耶は目を伏せた。
「仙人は大きく分けて三種類いるの。天仙、地仙、尸解仙。地仙になるものは300善を行う必要があるとされ、天仙になる者は1200の善行を積む必要があるの。1回でも悪事をすれば、御破算になる。
ということは、善を積むことで《力》を得ると言えるわ」
公恵は耳を傾ける。
摩耶の言葉は続く。
「なら、その逆もあるかも知れないわね。地獄に堕ちるということは、悪という罪を積むことで《力》を得る。罪人はある意味そうかも知れないわ。苦痛を受け続けるとは言え、その苦痛においても簡単に死ねない生命力は人間とは呼べない存在ね……。
少し話が変わるけど、西洋のデーモンを知っている?」
「悪魔のことですか?」
公恵が答えると、摩耶は残念な面持ちをした。それはまるで、誤答をした生徒を見る教師の表情に似ていた。
「……そうね。本来は違うけど、一般には悪魔という言い方をするわね。その悪魔だけど、悪魔は元々天使でもあったの。神に戦いを挑み、敗北した天使は悪魔になった。そういう話は聞いたことがある?」
「はい。映画とか漫画で見たことがあります」
公恵は答えると、摩耶は疑問を投げかけた。
「天使と悪魔は同じ存在。なら悪魔の姿は天使と同じく美しいはずよ。どうして、悪魔は醜悪で邪悪な姿になったのかしら?」
「そう言えば、そうですね」
存在が変わっても、悪魔は天使だった。
だが、両者がまったく異なる姿なのは、様々な作品で見てきた。
「キリスト教の伝承によれば、大天使ミカエルとの戦いに敗れたルシファーは天界から突き落とされ、地の裂け目に飲み込まれた。追放された他の天使達も彼に従って裂け目に入ったの」
「地の裂け目。……それはもしかして」
公恵は理解した。
「そう地獄よ。天使は天界を追放され堕天使となり、地獄に堕ちて悪魔になった。それにはいくつかの説があるわ。
地獄で怪物じみた姿に変わって悪魔になった。
地獄で自ら姿を変えて悪魔になった。
また、670年に書かれたカドモンの『反逆天使たちの転落』には、こんな記述もあるわ。《サタンとその一味は天上から落ちてきた。三日三晩の長きにわたって天使達は天国から地獄に落ちていった。そして、主は彼らを悪魔に変えられた》とね。
いずれにしても悪魔となったのは地獄が関係しているわ。地獄とは、堕ちた者に邪悪な姿と力を与えてしまう世界かも知れないわね。
ならば、十悪のように地獄に堕ちる大罪を犯した人間はどうなるのかしら。もしかしたら得てしまうのかも知れない。地獄に通じる人ならざる《力》を……」
摩耶は語った。
公恵は摩耶の言う推察に、黙って耳を傾けた。
仮説に至る根拠を、公恵は手にしていた。
だが、それを言葉にすることは出来なかった。
今はまだ……。
摩耶は微笑んだ。
公恵はその笑みを見て、自分の考えは正しいと思った。
それは、摩耶の推論に対する自信となった。
青年が言った悪口と言った魔人は、仏教の十悪の一つを犯した存在であり、その罪を犯すことで超常的な《力》を手に入れた。
というものだ。
そして、摩耶の説が正しいとしたら、あの男は……。
と、公恵は思った。
公恵は、踏み込んではならない世界に
足を踏み入れてしまったと感じた。
見てはならない深淵を覗き込み、知ってしまったのだと悟った。
あの青年は、地獄に落ちるほどの悪を犯した魔人と戦っているのだと気がつく。
だから彼は、あんなにも悲しそうな顔をして……。
と、公恵は感じた。
公恵は、普通に暮らしていれば、自分が知るはずのなかった世界の闇の事実を知ってしまったことに恐怖を感じた。
摩耶は公恵を見た。
そして、言った。
「19世紀のドイツの哲学者・フリードリヒ・ニーチェの格言にこんなのがあるわ。
《深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている》とね」
摩耶は微笑む。
それは、何かを知っている者の表情だった。
「それは、どういう意味ですか?」
公恵は何か愛知の知れない気持ちになる。
「深い場所にいる怪物も自分のことを見ている。という意味よ」
摩耶の言葉に、公恵は何も答えられなかった。
ただ、沈黙するしかなかった。
公恵は席を立ち、摩耶に頭を下げた。
「摩耶さん。今日は、色々とお話をさせて頂き、ありがとうございました。あのお礼は」
言いかけた言葉を遮るように
「良いのよ。それより、またお店に来て。今度は、ゆっくりお茶でもしましょう」
店を出る公恵の後姿を、摩耶は見ていた。
摩耶の視線を感じながら、公恵は店を後にした。
公恵が『浪漫古書店』を出た時、夜空に浮かぶ月が輝いていた。
その光を浴びながら歩く公恵の胸中にあるのは、摩耶の言ったことの意味を考えることだった。
《深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている》
摩耶の語ったことは、あくまでも推測に過ぎない。
だが、それを否定する証拠もない。
もしそれが本当なら、公恵は青年の戦いに足を踏み入れてしまったというのか。
公恵は急に影が濃くなったような気がした。
月が雲に隠れたのだろうと、公恵は空を見るが、雲は無かった。
変だと思いながらも、公恵は家路につくことにした。
そんな公恵を見る者が居た。
建物の最上部。
人影は、怪鳥の様な笑いを響かせる。
ギョロっと剥いた目が、探るように左右に動いていた。
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