第13話 十悪

 そこは少し、楽しげな所だった。

 病院という所は、清楚で無機質な白い所だったが、そこだけは暖かな日差しを感じる所だった。

 壁には可愛らしいポップなクマ、ネズミ、ウサギが笑顔で描かれている。窓には綺麗に花も飾ってあり、まるで保育園にいるかの様な場所だ。

 ここは病院の中でも小児病棟と呼ばれる所だ。

 治療や手術にあたって子供の恐怖心を少しでも和らげるために、子供達の好きな音楽を流し、状態に合わせて安全面に配慮したケアに努めたものとなっている。

 佐伯公恵は、自分の患者となった子供の経過を見るために訪れ、病室に入った途端、そのあまりの愛らしさに言葉を失った。

 そして、その子のベッドの横に立ち尽くし見つめていた。

 その子の名前は、菊池きくち亜里沙ありさ

 まだ小学2年生の女の子だ。

 髪の色は栗色で、大きな瞳はとても澄んでいてキラキラと輝いている。肌の色はまだ健康的な小麦色をしており、将来は美人になること間違いなしの顔立ちをしていた。

「あ、先生」

 亜里沙は公恵の姿を見つけると、嬉しそうに手を振りながら駆け寄ってきた。彼女は嬉しそうに微笑んだ。それはまるで天使の様に可愛い笑みだった。

 公恵はその声を聞き、ハッとして我に帰る。

「あらあら、ダメよ亜里沙ちゃん。まだ走っちゃ」

 公恵はしゃがみ込み、亜里沙の頭を優しく撫でた。すると、亜里沙は頬を膨らませて拗ねてしまった。

 その様子を見た公恵は、クスリと笑う。

 表情がコロコロ変わって見てるだけで飽きない愛らしさに、思わず公恵の顔が綻ぶ。

 盲腸の手術を終えて昨日まで痛がっていたのが嘘のように元気になり、走り回っている姿を見るとホッとする。

 亜里沙は、この病院で入院している子供たちの中で、トップクラスのやんちゃっ子だ。

 だが、それが彼女の魅力でもある。

 子供は大人よりも痛みを感じやすいため、普通なら麻酔から覚めた後はしばらくは動けない事が多いのだが、亜里沙に限って言えば違った。

 亜里沙は麻酔から醒めて、すぐに動き回り始めたのだ。

 そんな亜里沙を見ていると、公恵の心の中には暖かい気持ちが広がる。

 本当に良かった。

 公恵は医師であることの喜びを噛み締めていた。

 自分が担当した患者が元気になり無事に退院できる事は、何にも代え難い達成感を与えてくれる。

 亜里沙は、その事を教えてくれた大切な存在なのだ。

「ねえ先生。あたし、暇」

 亜里沙は、口を尖らせて不満げな顔をする。

 どうやら、遊び相手が欲しいようだ。

「お母さんは、どうしたの?」

「お母さんは、お家に洗濯物を取りに行ってるの」

 公恵の言葉に、亜里沙は少し寂しげに答えた。

 公恵は困った顔をしながら、辺りを見渡す。思い出す。

「そうだ。今日はプレイルームで昔話を聞かせてくれるボランティアの方が来ているの、行ってみない?」

 公恵の提案に、亜里沙の顔がパッと明るくなる。

 亜里沙にとって絵本の世界も大好きだ。

 特に、昔々あるところに……。

 で始まる物語を聞くのが何より大好きだった。

 亜里沙は目を輝かせながら大きく首を縦に振る。

 それを確認して、公恵は手を引いてプレイルームへと連れていく。

 プレイルームでは数人の子供達が集まっており、その先に作務衣姿をした老人が居た。

 年老いてはいた。

 高齢にしては、背筋は伸びている。

 ただ、ひどく痩せていた。頬骨が高く突き出し、顔全体が尖った印象を受ける。眉間に深い縦皺があり、それが老人の顔に凄みを加えていた。

 恐ろしいという意味ではない。

 むしろ、威厳のある面構えだとさえ言える。

 千鳴寺の元住職で、法信ほうしんと言った。

 この病院には週に一度程度、ボランティアで民話を話してくれる人だ。

 公恵は、この老人の話が好きだった。

 法信の話す物語は、どれもこれも素晴らしく、そして面白い。

 時には、その話に涙し、時には笑い転げたりしていた。

 公恵は、席に着くと、亜里沙と一緒にワクワクしながらその時を待つ。

 すると、前の席に居た男の子二人が言い争いを始めた。どうやら男の子の一人がお菓子を持ち込み、食べているのを、もう一人の男の子が注意したようだ。

「うるせえよ。お前に関係ないだろ」

「関係なくない。マナーを守れっての。このバカ」

「何だよ偉そうに。お前こそ、バカじゃねえの」

 お菓子を食べていた男の子が言うと、法信が一喝した。

「これ!」

 それはまるで雷が落ちたかの様な衝撃だった。

 ビリっと空気が震える感覚を覚える程に迫力があったのだ。

 男の子二人はビクッと体を震わせて黙ってしまった。

 公恵と亜里沙も驚きで言葉を失う。

 だが、それは一瞬の事だった。

 次の瞬間には、皆が笑顔になった。

 法信が、まるで孫に接するような優しい笑みを浮かべ、語りかけたからだ。

「二人共、そんな汚い言葉を使ってはいけないよ。悪心をもって人に悪言を加え、相手を悩ませ傷つけることは、悪口あっくに通じてしまうからね」

 そして、ゆっくりと諭すように続ける。

 法信は、二人の目線に合わせて腰を下ろした。

 その目は慈愛に満ち溢れている。

 それを見た男の子達は、互いに見つめ合い、気まずそうに頭を掻いている。お菓子を食べていた男の子はお菓子を片付け謝り、注意をした男の子も謝った。

 すると法信は、ニッコリ笑った。

 緊張した空気は、もうそこにはない。

 場は和やかな雰囲気に包まれる。

 だが、ただ一人公恵だけが、驚きと戸惑いを抱えていた。

 先程、法信は《あっく》と言った。

 その言葉は、あの夜、青年が牙を生やした怪人に言った言葉でもあったからだ。

 公恵は思わず、隣に座っている亜里沙の手をギュッと握ってしまう。

 亜里沙は、不思議そうな顔をして公恵を見上げた。

 だが、すぐに視線を戻し、目の前にいる法信の話に集中する。

 法信はゆっくりと、そして丁寧に物語を語り始める。

 それは、誰もが知っている昔話だった。

 桃太郎という有名な物語である。

 子供の頃、一度は聞いた事があるだろう。

 内容も知っている。

 展開も知っている。

 結末も知っている。

 知っている話なのに、何故こんなにも胸を熱くするのは、語り手による力なのだろう。

 落語は落語家の演技力、間、リズムによって、同じ演目でも上手い、下手がはっきりする。話し上手な人は、知識や情報が豊富だ。会話のネタは多岐に渡るため、相手を見て上手に話題を選択する。

 法信の話が面白く感じるのは、そんな理由からだろう。

 公恵は不思議な気持ちで耳を傾けていた。

 ふと横を見ると、亜里沙が引き込まれている事に気づく。

 きっと自分も同じ顔をしているに違いないと思った。

 話が終わると拍手喝采だった。

 公恵も精一杯の拍手を送る。

 その音で我に返ると、亜里沙がキラキラした瞳をしてこちらを見ていた。

 そして、興奮気味に話しかけてくる。

「先生。面白かったね」

 その様子は、いつもの亜里沙だった。

 公恵はプレイルームの出入口に、亜里沙の母親を見つけた。

 病室には、『プレイルームに居ます』という札をかけていたので、娘が居るのを知ったのであろう。

 亜里沙は母親に駆け寄ると、母親は公恵に娘の面倒をみさせてしまったことの礼を言い、軽く会釈をし、亜里沙の手を引いてプレイルームを出ていった。

 公恵は法信に礼を言う。

 法信は、照れたように笑いながら、お辞儀をする。

 そんな法信に公恵は訊いた。

「和尚様、先程言われていた言葉についてお聞きしたいのですが、よろしいでしょうか?」

 なぜ法信は、あんな事を知っているのか?

 あれはどういう意味なのか?

 真意は何なのか?

 それが知りたかったのだ。


悪口あっく、か……」


 あの夜。

 青年は牙を持つ男に、そう言った。

 《あっく》

 それが何なのか公恵には理解できなかった。無論、知ったからと言って、できることがあるとは思えなかった。

 だが、精神を病んでしまった志水洋美の姿を知っている医師としては、何もしないでいることは公恵にはできなかった。精神科医の見立てでは、後遺症を残す衝撃や体験をしたことによる精神的外傷(トラウマ)によるもの。

 との見解だ。

 《あっく》という言葉の意味が分かれば、もしかすると洋美の精神を病んでいる糸口を掴めるかもしれない。藁をも掴む思いで、自分が遭遇した現実と正面から向かうことにした。

「あっく。……とは、何なんですか?」

 公恵の思い詰めたような言葉に、法信は目を丸くする。

 そして、困ったような表情を浮かべた。

 だが、少し考え込むと、静かに語り始めた。

悪口あっくというのはですね。悪い口と書いて、悪口あっくと読みます。仏教における十悪の一つで、人をあしざまに罵ることですよ」

悪口あっくとは、人をののしること。でも、十悪とは、何ですか?」

 すると、法信が言った。

「十悪というのは、仏教の十の大罪。身・口・意の三業が作る十種の罪悪のことです。

 殺生せっしょう偸盗ちゅうとう邪淫じゃいんの〈身三〉。

 妄語もうご両舌りょうぜつ悪口あっく綺語きごの〈口四〉。

 貪欲どんよく瞋恚しんい邪見じゃけんの〈意三〉……」

 法信は続ける。

「つまり、仏教における人間の体や心が作り出す十の大罪の一つが、悪口あっくという訳です」

「大罪……」

 公恵は重い口調でこぼした。

 《悪口あっく》という言葉について今まで何のことか分からなかったが、公恵は何かに近づけた気がした。

 口が作り出した大罪ならば、青年が牙を持った男のことを《悪口あっく》と言ったのが、何となく繋がるものを感じたが、それであんな怪人になってしまうかと考えれば現実的ではなかった。

 公恵の疑問を察してか、法信が答える。

 その顔は、とても穏やかだった。

 まるで孫を見る祖父のようだなと公恵は思った。

 だが、公恵は言葉を続ける。その声色は、次第に重苦しいものに変わっていく。

「あの。十悪が仏教の罪というのは分かりました。それを犯すと何かなるのでしょうか? そう、例えば怪物のように……」

 公恵の脳裏に、あの夜が思い出される。

 目の前に居た、牙を生やした男。

 針のように尖った先端に、枝のように太い根を持った肉食恐竜のような凶悪な牙が、上下に乱立していた。

 暗い口内の奥は、光の届かぬ地底にでも通じているように。

 あの時、感じた恐怖が公恵を襲う。

「佐伯先生。どうかされましたか? 今日は、いつになく変ですよ」

 法信の、その言葉に公恵はハッとする。

 無意識のうちに、拳を強く握りしめていた。

 そのせいで爪が掌に食い込み、血が滲んでいた。

 その痛みに気づき、我に返る。

「その……。何でも、ありません……」

 公恵は、慌てて笑顔を作り、何でもないと言うと、法信は心配そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。

 そして、法信は、話題を変えるように言う。

「私は、少々お務めがあるので寺に帰らなければなりませんが、先程のお話について詳しくお聞きしたいのであれば、良い方をご紹介しましょうか?」

 公恵は、法信の言葉に是非と答えていた。

 法信は、にっこりと笑う。

 そして、その人がいる場所を教えてくれた。

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