第9話 正義の始まり

 水滴は果実が実るように大きくなった。

 音もなく水滴は大きくなり、その身が育っていく。

 ある時、落ちた。

 水滴は空気抵抗により、底を潰し水饅頭のように形を変える。形こそ歪みを見せるが、削り磨き上げられたかのような表面は、光を湛え秘めたかのよう。

 ただの液体にも関わらず、その鮮やかさは宝石にも匹敵する。

 しかし、地で弾けた。

 雫が落ちた場所にも同じ液体があり、小さいが深い残響音が響く。音は、聞こえる者の、鼓膜を震わせ、脳にまで深く浸透した。

 不意に、男は意識を戻したのは、その音によるものだったからか。

眠っていたか。

 そんな疑問さえも男は沸かなかった。視点が定まらない先が少しずつはっきりしてくる。

 濡れた床。

 そこに雫が落ちる。弾けた。

 間があって、男は思い出すように分かった。

 自分が下を向いていたことに。

 そして、雫は自分の鼻先から落ちていたことに。

 鼻水?

 いや、雫の色は赤かった。

 それで男は分かった、弾けていたのは血であることに。

 男は生気を失った眼で、その出来事を見ていた。自身の血であるにも関わらず、血溜まりができているにも関わらず、危険が生じているにも関わらず、男はテレビや映画の画面を眺めるように見ていた。

 自分には関係のないことの様に。

 瞼が重さを伴って閉じかける。

 疲労、

 睡魔、

 苦痛。

 それらが男の意識を深淵へと飲み込む。どことなく心地よいものを男が覚えた瞬間、男は突然顔を上げた。

 男の身体は骨が抜かれたか蕩けたように崩れているにも関わらず、重力に逆らって頭だけが起き上がったのだ。男にとって、それは不自然極まる出来事ではあったが、傍から見れば決して不自然なことではない。なぜなら、男の髪を雑草を掴むように持ち無理やり引き上げられていたからだ。

 男は暗いながらも、ぼやけていた視界が少しずつ焦点を合わせていく。

 人が、そいつ立っていた。

「お前の名前は?」

 そいつが訊いた。威圧的で高圧的な畏怖を感じさせる含みのある声で。

 訊かれて男は考えた。

 考えると言っても、なぜそんなことを訊かれるのか。どうして自分がここに居るのか。訊いてきた人物が誰なのかという疑問について考えた訳ではない。自分の両親が付けてくれた名前が何というのか考えたのだ。

 名前という自身を認識する言葉は、幼児であって認識することができるのに、見た目にも30歳程の大人であるにも関わらず、男は考えたのだ。

名前を。

 自分の名前をだ。

 考えて思考して、素直に答えた。

「……いしか、わ。けんた、ろう」

 男・石川健太郎いしかわけんたろうは、口内に糊が塗られたように固く舌が張り付くなかを、何とか答えた。

 そして、自分の名前から健太郎は自分という存在を思い出す。

「仕事は?」

 健太郎の髪を掴んだ、そいつ。いや男は、更に訊く。

 この問に対して、健太郎は数瞬の間を置いて答えた。その間に健太郎が考えたのは自分のことを思考してであった。

「……し、しんぶん。きしゃ」

 答えて健太郎は嘔吐した。吐くほど胃の中に何かあった訳ではないが、胃液と唾液を絞り出すように吐いて、身を捩った。

 すると健太郎の髪を掴んでいた男は、放り捨てるように健太郎の頭を放つ。健太郎の首は糸が切れたように一切の力を失い項垂れる。

 自分の頭の重さに、健太郎は首に痛みを感じた。

 感じた。

 痛い。

 思い出す。

 健太郎は自分が新聞記者をしていたのを思い出す。

 小学生の時、卒業の寄せ書きに書いた言葉は、

 ペンは剣よりも強し

 だ。

 19世紀の作家エドワード・ブルワー=リットンの戯曲『リシュリュー』の一節。

言論の力は武力よりも強いと解釈された言葉。

 健太郎は、その頃から新聞記者というものに憧れを抱いていた。特撮のヒーローに憧れる様に、健太郎は正義の味方になりたかった。大学に入ると新聞奨学生として働き、新聞社で働くならばアルバイトも新聞関連の仕事をしたいと考えた結果だった。

 新聞奨学生とは、新聞社の奨学金制度を使用する学生。

学費の一部もしくは全額を新聞社が肩代わりする代わりに、在学中新聞配達業務を行う。業務を行う場所は学生側が選択することは不可能で、新聞社側が学生の通学時間を配慮し、人材募集の販売店の中から選択する。多くは齢具の新聞販売店に斡旋される。自立した生活ができ、経済的問題を解決できる利点の反面、労働環境は決して良好とは言えない場合もあり、時に奴隷と呼ばれるほどの重労働が課されるケースが発覚することもあるなど、問題点もある。

 健太郎は憧れの職業の一端を担うことになって、希望に燃えると共に新聞の現実を知ることになった。

 それは、うず高く積まれ読まれない余った新聞。

 残紙だ。

 毎日、新聞社から送られてくる大量の新聞の2000部の内、残紙として900部も廃棄していたのだ。

 読まれもせず廃棄されていく大量の新聞に、健太郎はすぐに疑問に感じたのは自然なことであった。無駄にするくらいなら注文部数を減らせば良いのに、販売所の所長はそれをしようとしなかった。

 ある時、自分の思った疑問を先輩に訊くとあからさまに嫌な顔した。禁忌に触れたように言葉を濁し、周囲の状況を見てから一言、教えてくれた。

 それは《押し紙》だと。

 新聞社から押し付けられる新聞紙、《押し紙》は新聞社の発行部数の水増しなのだ。

 2016年前期の大手新聞社の発行部数は、次の様になっている。

 読売新聞900万部

 朝日新聞650万部

 毎日新聞300万部

 日経新聞270万部

 産経新聞150万部

 読売新聞は、販売部数1000万部超をセールスコピーとして用いていた時期もあった。

 だが、発行部数などというものはウソ。販売部数を確保するために血道を上げる新聞社の卑劣なビジネス流儀があった。

 それが《押し紙》だ。

 新聞社は販売店が必要とする、それ以上の新聞を刷り上げ、販売店に押し付ける。捨てられると分かっていても、その部数を発行部数に加えている。

 広告主からすれば扱っている部数が多ければ多いほど宣伝効果が高いと判断する。健太郎が居た販売店は2000部を扱っていたが、その内900部は破棄していたにも関わらず。

 販売店は新聞社に対し《押し紙》にも料金を払っている。それでは損益生まれるが、水増しした部数を含めて販売実績として広告主から広告代を得ているので利益はある。

 それでも相殺できない場合は、新聞社が《押し紙》を買い取らせるための資金を補助金として支給。

 発行部数が多ければ多いほど紙面広告の媒体価値が上がり新聞社は、より高い広告収入を得ることができる。

 しかも、その補助金は新聞社に卸代金として販売店から新聞社に戻ってくるので新聞社の負担にはならない。

 広告料を取ってチラシを捨てていてもだ。

 これは、明らかに詐欺である。

 健太郎は、新聞は社会の不正を正す正義の味方だと思っていただけに、新聞に失望した。程なくして新聞奨学生も辞め、新聞記者になる夢も消え失せた。

 健太郎は学校を卒業し、ごくありふれた会社員となった。通勤電車に揺られ自宅と会社を往復する毎日。

 仕事の要領が悪くて上司に怒られたこともあった。それでも、必死になって働き、いつしか仕事の流れが解るようになり、新人に仕事を教えることもできるようになった。仕事にやりがいはあった。

 けれど、ふと健太郎は思った。

 自分が本当にやりたかったことを。

 ある時、職場で同僚が読んでいる新聞が目に入った。見慣れない新聞のことを訊いてみると、市民プレスネットという地域新聞だと知った。

 試しに読んでみると、取るに足らない記事だった。

 猫の保護活動、小学校の運動会、農家の収穫、地域風景の観光記事、民俗文化の郷土史、寺の石楠花が開花、地域の交通危険箇所の知らせ。

 本当に、取るに足らない記事であった。

 社会正義でも世の不正を暴く目的も方針も、何も感じない新聞だった。一応、地域の事故、事件を取材し、社会問題や地域の危険情報を発している箇所も見受けられた。

 だが、読んでいて温かみを感じた。

 健太郎が自宅で取っていた新聞を思い起こせば、まるで正義そのものであり、読んでいて自分もそれが正義であると思い込むものがあった。注意深く読めば記者の推論、勝手な解釈、読み手に対する同意を求める文章。

 全国紙と呼ばれる大手5紙を読み比べてみると、同じ事件を書いているにも関わらず、内容も結論も全く違う記事になっていた。

 あった事件、起こった出来事、発生した事実をそのまま書き、それをどう読み解き何を感じるのかは一人一人の読者である。真実とは結局、自分の目で見て、その場で聞いたこと、確かめたことしかない。

 健太郎は、何が正しくて正しく無いかはまだ分からなかった。

 でも、自分の見聞きしたことを多くの人に伝え広める役割をしたいという気持ちになった。入社して10年近い会社を辞めて、市民新聞の編集者になるには決断がいった。当時、結婚を考えていた女性がいたこと、収入は減少するのは分かっていたこと、今の会社には現状の不満があったこと。それらが転職で解消されるかは分からなかった。それでも、健太郎は挫折した夢を現実にしたくて市民新聞の編集者になった。

 社会人の一からの出直しは楽なものではなかった、新しい仕事、新しい人間関係、新しい環境。全てが新しいが故に何をすれば良いのか分からない。

 だから少しずつ確実に何をしてよいのか、何をするべきかを考えて仕事を覚えていった。地域に住む人々の為に地域における情報を伝えることで、人々の役に立つ情報を発信する役割を行うために。

 3年の勤務をし、少し昇給があった。税金や社会保険料を引かれれば手取り20万を切ってしまう薄給ではあったが、結婚した。妻となった女性は健太郎が付き合いを続けていた女性だ。

 こんな薄給新聞記者であるにも関わらず、妻は自分の事を愛してくれた。夫婦共働きとなって家計を支えてくれた。結婚して2年すると子供が生まれた。女の子だった。

 病室に入った時のことは、死ぬまで忘れ得ないと思った。少しやつれた様子の妻の傍らで泣く我が子の姿を見た時、言葉が出なかった。喉の奥に餅が詰まったかのように言葉が出ないでいると、看護師が赤子を抱き上げ健太郎に差し出した。

 腫れ物でも触るような震える手で赤子を腕に抱いた。白いおくるみに包まれた赤子を抱いた時、小さな体とは思えぬ重さと体温の熱さに驚くと共に、初めて生命の尊さを、五感を通して知った瞬間でもあった。

 健太郎は、涙を流した。

 嬉しくて。

 幸せであることに。

 全ての人々に感謝せずにいられないことに。

 泣いている夫に妻は言った。

「健ちゃん。今日から、お父さんよ」

 妻の言葉に健太郎は頷いた。

 ありがとうと伝えた。自分を幸せにしてくれて。

 だからこそ、妻を幸せにしなければ、子供を幸せにしなければならないと思った。自分の生命にかけて。

 あの時の幸せを思い出しながら、健太郎の意識は眠るように沈んで行こうとした瞬間、拳が襲いかかった。健太郎の首が千切れるかと思える程の強烈な一撃は、夢から現実に引きずり戻す。

「せっかくいい感じに仕上がったのに、寝るんじゃねえよ。あ?」

 男は健太郎の髪を掴むと、顔を覗き込んだ。男のギラギラとした瞳に写り込んだ健太郎は、その瞳に写ったモノを見た瞬間、身の毛がよだつのを感じた。

 全ての物を凍らせる白い腕が健太郎の身体を背中から襲いかかる。背中の中程から震えが走り、間髪をいれずに喉を締め上げる。

 息が止まった。

 健太郎が人生の中で初めて見る怪物は、見るに堪えない醜悪な顔を取り憑くような勢いで襲いかかった。

 怪物の顔は、目の周辺には及ばず絵の具を塗りたくった様に皮膚が変色していた。右の眼窩の凹み目玉がはみ出し、絵本で見た魔女様に曲がった鼻筋。不気味に歪んだ 口から覗く歯は幾本も抜けていた。

 何人もの人間を食らい返り血を浴びたかのように口に及ばず、鼻や目や耳に至るまで顔中の穴からは血が樹液のように流れ出ていた。

 健太郎は怪物の顔に恐れおののいた。

 すると、怪物も同様の反応を見せた。

 理解ができなった。

 分からなかった。

 知り得なかった。

 数秒の間を置き、健太郎は怪物の正体が分かった。それが自分の顔であることに。

 涙が滲んだ。

 自分の顔を手で触ろうとしたが、触れることができなかった。手は後ろ手に手錠で繋ぎ椅子ごと縛り上げられ、両足首も椅子の脚に括られていた。

 朦朧とする意識の中、健太郎はどうしてこうなったかを考えた。

 勤務を終えた。

 帰宅していた。

 残業はしないで帰るという予定だったのに残業しなければならなくなった。

 妻にお詫びのチーズケーキを買った。

 帰宅したら妻に謝ろう。

 早く子供の顔が見たい。

 そんな思考が入り乱れた。

 帰宅中に突然現れた普通自動車。

 跳ねられるのではないかというスピードと急ブレーキに驚いていると、自動車から男たちが降りると健太郎を無理やり自動車に押し込んだ。手錠をかけられ頭には袋が被せられた。訳の分からない状況に抵抗すると、顔や腹を殴られた。

 どこを走ったかも分からない状況が終わると、どこかに閉じ込められた。

 薄暗い空間。

 コンクリートの乾いた臭い。

「誰なんだ、お前らは。僕は新聞記者だぞ!」

 健太郎は子供の頃に思った新聞記者は社会の不正を暴く正義の味方という論理で、自分の職業を高らかに叫んで拉致を行った男たちを恫喝した。何の目的かは知らないが、男たちは自分を開放すると思っていた。

 なぜなら、ペンは剣よりも強いのだから。

 だが、現実はペンが暴力に勝てる訳がなかった。

 男たちは言葉が通用しない生き物の様に、健太郎に無言で暴行を加えた。

 顔面に何度も殴打を加え、健太郎が問おうものなら腹部に拳がめり込んだ。

 血とともに胃の内容部をぶちまける。

 それでも男たちは暴行を止めない。

 健太郎が問うても、男たちは答えない。

 男は、健太郎を殴りつけた。

 頬骨が折れる音と共に、口の中に鉄錆の味が広がる。

 殴りかかろうとすると、脚を引っ掛けられ転倒する。

 男は健太郎を見下ろす。男が脚を上げた健太郎は、咄嵯に腕でガードしたが、ガードの上からでも鼻骨が折れる音が響き、激痛が走る。

 鼻を押さえると、指の間から血が滴り落ちた。

 手錠をかけられたまま、椅子に固定された。

 そして、今に至る。

 もはや健太郎には、どうして自分が、こんな酷い目に合わなければならないのかという思考はなかった。

 男達の目的は、これであった。

 意識を朦朧とさせる。

 自白させるための準備であった。

 通常、自白を強要するための手法としては、不眠状態、絶食状態、拷問などの方法がある。

 これは、嘘をつくためには意識が判然としている必要があり、疲労状態や脳の機能が低下した状態では正常な判断が出来ず黙秘することが困難になるとの論理からである。

 男は一枚の新聞記事を取り出した。

 それは、通り魔事件を取り上げた記名記事であった。

 新聞記事には、文末に記者の名前が記された記事を見かけることがある。これは記名記事、または署名記事と呼ばれるものだ。

 日々起きている事件や事故を伝える場合、記者は警察や消防、目撃者や現場周辺の住民などに取材して、事実のみを記事にまとめるが、状況によっては、記者会見や報道機関に配布される発表資料(プレスリリース)などをまとめて記事にすることもある。当然、新聞の使命は、客観的事実を報道することだから、書き手である記者の意見や心情、個人的見解を混同させないのが原則だ。

 しかし記事の内容によっては、同じ事実であっても、さまざまな視点や考え方によって、いろいろな解釈ができるケースもある。そんなとき、記者や有識者、専門家などの意見・視点を加え、解説や分析を行なったり、記者本人の視点や考えから記事を書いたりした場合には、その記事に対して責任をもつという意味で記者の名前を入れる。

 これが記名記事(署名記事)だ。

 通り魔事件について、犯人は逮捕されておらず、警察が捜査を続けていると書かれていた。

「この記事を書いたのは、お前だな」

 男が訊くと、健太郎は、そうだと答えた。

「お前はこの事件現場の近くにいたことから、現場を目撃した言わば当事者だそうだな。ここの書かれている被害者・志水洋美が病院に搬送されたとあるが、どこだ?」

 健太郎は考えるように首を横に振った。

 すると、男は懐からナイフを取り出すと、健太郎の太股に躊躇うこと無く突き刺した。

 健太郎は声にならない悲鳴を上げる。

 男のナイフを持つ手が震えていた。自らの残虐行為に震えているのではない。ナイフをねじ込むために力を加え続けているのだ。

 痛みが全身を駆け巡った。

 健太郎は歯を食いしばり、脂汗を流しながら耐えた。

 男の震えが止まる。

 健太郎の太股にナイフを突き立てたまま、男は言った。

 男の表情が醜悪に歪む。

「もう一度訊く。どこだ?」

 健太郎は、あえぐように口を開く。

「ひ、ひぃ……が」

 男は耳を近づけて言葉を拾う。その言葉を隣に居た男にスマホで検索させる。男が画面を見せると、そこには大きな病院が映し出された。

「ここじゃねえすか」

 健太郎を拷問していた男はスマホを見る。

「独立行政法人 日ヶ崎総合医療センター。なるほど、距離や救急体制からしても妥当だな」

 男は健太郎の顔面を引っ叩く。

「そうだな」

 健太郎は、返事をした。

 男は満足そうに笑みを浮かべると、健太郎の脚からナイフを引き抜いた。傷口から鮮血が湧き水のように溢れ出る。

 出血は止まらない。

 健太郎は、激痛に耐えかねて絶叫した。

 男達が笑う。

 健太郎は必死に堪えた。

 まだ、死ぬわけにはいかないのだ。

 妻が待っている。

 子供が居るんだ。

 だから、死ねない。

 死んでたまるか。

 だが、拷問によるダメージが蓄積しており、もう身体を動かすことが出来なかった。

 不意に男の手からスマホが取り上げられた。

 男は、取り上げた男に食ってかかった。

「おい。テメ……」

 言いかけて男の顔が見る見る青ざめる。

 男の正面に頬に刀傷のある男が、スマホをいじっていた。

青年があの夜に戦った、悪口あっくと呼んだ大橋信おおはしのぶであった。

「す、すみません。組長だと。し、知らなかったんです……」

 男の言葉を余所に、信はスマホの画面を見ている目の瞳孔が開いた。

 そして、あるページで止まった。

 それは、病院の医療スタッフの紹介ページであった。

「ほう。知っているぞ、この女。外科医長・佐伯公恵か。死亡報道が無いということは、なるほどこの女が助けたって訳か……」

 信は、呟くとフツフツと怒りが込み上げてきた。

 志水洋美は信が殺りそこねた女だった。その女が命を助けらた。命を救ったのは、あの夜に会った佐伯公恵ということを理解した。

「……ふざけた女だ。許せねぇ。こいつは俺が殺す。殺しても飽き足らねぇ。必ず殺してやる」

 信の怒りの声に、その場に居た男達は全員が震え上がった。

 信はスマホを空き缶のように握り潰すと、その場に投げ捨てた。

「よう。どうして俺が、こんなに怒り狂っているのか理解できるか?」

 信は、健太郎を拷問した男に訊いた。

 男は首を横に振る。

 他の男達も、何故、ここまで信が怒っているのか分からなかった。

「命を生む。命を助ける。命を救う。これが、どんなに許しがたいか理解できねえのかよ」

 男は意味が分からず困惑する。

 信は笑った。

 いや、正確には笑いではない。

 唇が剥かれ、肉食恐竜のような凶悪な牙が姿を表す。

 歯を剥き出すという行為が、笑いに近い表情だっただけ。

 男は泣きそうな顔した。

 男の頭部に向かって、信は蛇が獲物を呑むように喰らいつく。男の顔面が一瞬にし失われた。顔の断面が男の新たな顔となって出現する。信は男の顔面を不味そうに吐き出し、口元を手で拭った。

 顔だけを失った残った死体を見て、地下室に居た男達の顔から生気が消えていく。

 その様子を見た信は、狂気じみた笑みを浮かべた。

 男達に信の恐怖が、新たに植え付けられた瞬間であった。

 白菱組のただの準構成員兼、運転手でしかなかった大橋信は、白菱組組長・菅村篤を殺した後も逆らうものは全て粛清を行うことで白菱組の組長へと居座ったのだ。

 今や白菱組の構成員は、信の私兵と化していた。

 顔無し死体となった男は、顔から滝のように血を流して倒れる。

「片付けろ」

 信が言うと、男二人が動き死体の脚を引っ張って部屋の端に引きずっていく。血がワックスとなって床を血で染め上げる。

 恐怖に支配されていた他の男達に、その光景が目に焼き付く。

 もはや、誰一人として、その場から動けなくなっていた。

 その中を、信はゆっくりと歩き健太郎に近づく。

「ありがとうよ、兄ちゃん。お陰で助かったぜ」

 信が言うと、健太郎は訴える。

「が、えして」

 と。

「ああ。帰りてえよな。おい、送ってやんな」

 信は気持ちを察したように仰々しく言うと、後ろに向かって声をかける。

 闇の中からナニカが伸びて健太郎の顔に巻き付く。まるでカメレオンの舌のような、折り畳まれた筋肉が一瞬にして伸びるように、ソレは健太郎の顔に巻き付いた。

 健太郎は何が起きたか理解できない。

 周囲に居た男達も、それは同じで、ソレが一瞬にして引き戻された瞬間、健太郎の首は世界の中心となって周囲の風景が回る。

 そこに残っていたものは、できの悪いろくろで作った壺のように捻れた首をした健太郎の姿であった。

 送られた先。

 それは、愛する家族の待つ家ではなく、あの世だった。

「良い仕上がりだ。俺同様に力を上手く使いこなしてるじゃねえか」

 信は背後の闇に語りかけた。

 闇に眼光が光っていた。

 そこに潜んでいる存在に気づいた男達全員が、おののいたのは自然なことであった。

 健太郎の口から、大量の血液が床に流れ出す。

信は、血だらけになった健太郎の死体を見下ろした。

 その瞳孔は開ききり、口は大きく開いている。

「予定を変更する。まずは、日ヶ崎医療センターの佐伯公恵という女からだ。網を張れ。ただし、そいつは俺自身が殺る」

 信は恐竜のような牙を噛み鳴らし言うと、男達が返事をする。

 すると信の近くに居た若頭の雄島崇裕おじまたかひろが、声を震わせながら進言する。

 若頭とは、ヤクザの組織のNo2に位置する役職だ。組長不在時など、組長の代理を行う。

「……組長。例の男の方は、どうしますか」

 信は頬の刀傷を撫でながら忌々しい表情をした。

 あの日本刀を持った青年の強さは、信が一番見知っていた。

「ヤツか。あの男も狩り出すさ、《王》に逆らう者は生かしてはおけねえからな。だが、ヤツを確実に殺るには俺と同じ力を持った兵隊が、もう2人は必要だ。俺は、そいつの仕上げにかかる」

 信は野望と殺意を秘めた目で言うと、崇裕はその言葉の意味を理解し、震え上がった。

 大橋信と同様の力を持った魔人が、あと二人も誕生することになるのだ。この男の本気の怒りに触れたら、自分の命はないと悟った。

「では、男の探索の方法はどのようにしますか?」

崇裕の進言に、信は顎に手を当て考える。

 その方法を思いつくまで時間はかからなかった。

 そして、その方法を信は口にした。

 崇裕は顔色を変え、他の者達は動揺を見せる。

 しかし、信は気にしない。

 なぜならば、自分が決めた事は絶対であり、それに従わない者は殺すだけだからである。

「いい方法だろ。何しろヤツは、イイ男だからな。そっちは別のチームを作り任せておけ。まずは許しがたい罪人を殺る為の準備だ」

 一度言葉を切って、信は高らかに宣言した。

 男達の身体が硬直した。それは命令だった。

「さあ。正義を始めよう」

 そして、次の瞬間には、男達は一斉に走り出していた。

 残されたのは、血まみれになった信だけであった。

 信は、血だらけになった健太郎の死体を見下ろした。

 その瞳孔は開ききり、口は大きく開いている。

 信は垂れ流される血を掬って飲む。

 人を殺すことは犯罪だ。

 だが、それは誰によって決められている。

 それは国が、権力が判断するのだ。

 事実として戦時において、軍隊が人を殺しても犯罪にはならない。

 そして、勝った方が正義なのだ。

 信が率いる反社会勢力は得たのだ。

 国や権力などとうちゃちなものではない。

 超越した絶対的な権力を。

 信は血だらけの手で顔を覆い、天を仰ぐ。

「《王》よ」

 指の間から血が零れる。

 信は止まらない。

 止まる訳がない。

 何故なら、彼の心はあの夜から《王》の物となり正義に基づいて行動しているのだから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る