第6話 救出の狼煙

「そうですか、兄上が」


 無数の傷を負ったマレーの言葉に耳を傾けながら、オレリアは思考を巡らせた。

 宮宰が急な知らせを受けてこの宮廷を離れたこのタイミングで、兄から兵を引き剥がした上で拐かす手際の良さ。計画的な犯行だ。

 計画的であるならばそこには道理があり、教会の道理とはすなわち教義だ。彼らが犯行を正当化するために使える大義名分は限られている。

 魔王に関する噂の流布。

 シャルルを運んでいったという担架。

 馬丁を殺し、マレーに傷を負わせ、シャルルに諦めさせた短剣。

 そこから逆算すれば、自ずとやるべきことは見えてくる。

 オレリアは瞬時に決断し、そして行動に移した。


「アンナ。近衛の詰め所に向かってください」

「……お傍から離れることになります」

「すぐに合流できます」

「姫様、それは――」

「私の臣下はあなただけです。……頼めますね、アンナ」


 瞳に心配の色を浮かべながら、それでもアンナは頷いた。

 オレリアにとって最大の弱点、それは私兵を持たないことだ。母方の家は母が逝去して以来、下賜された田園で静かに暮らしており、宮廷から離れている。自ら3歳の女児に登用されることを望む変わり者もいない。

 だから、オレリアは王族の安寧を守る警護兵、近衛を使うことにした。


「妨害もあるでしょう。私と父の名を出して押し通れない者は誰であろうと痛めつけて構いません。責任は私が負います」

「お任せください。合流地点は」

「聖堂街です。あなた達が気づけるように動きます」


 アンナがまるで弾丸のように部屋を飛び出していくのを見届けて、オレリアは膝をついた。

 浅い呼吸を繰り返しながら、兄の従僕が跪いている。倒れそうな身体を必死に押し留めているのは、忠誠心だろうか。


「マレー。フロワサールのマレー、でしたね」

「は……」


 きっとここまで執念だけで走ってきたのだろう、従士として与えられた簡素な麻の制服は血で濡れ、その肌に張り付いている。

 震える膝で、壁に手をついて、それでもマレーは屈さずに体を起こしていた。

 見上げるような大男がオレリアを前に、浅黒い頬に涙を伝わせている。悔しさ、不甲斐なさ。その気持ちはオレリアにもわかる。

 シャルルが彼を大事に扱っていることはオレリアも聞かされていた。本当なら今すぐにでも追いかけて主を取り返したいだろう。それができないから、こうして頼ってきたのだ。


「よくぞ伝えてくれました。あなたは正しい判断をしました。私は今の宮廷において唯一確実に兄上の味方である人物です」

「罰は、いくらでも……殿下を……どうか、殿下をお助けください……!」

「ええ、もちろんです」


 彼はよく頑張った。

 それでも、彼にはまだ果たしてもらわねばならない役割がある。


「あなたには鍵になってもらいます」

「鍵……」

「ええ。兄上が連れ去られたのは聖堂街です。宮廷内に建造された屋内の街、聖職者のみが越えられる白亜の門の向こう側にいます」


 ただ拐われたのであれば、オレリアはシャルルを探すのに人海戦術であたる必要があった。抱える家臣が皆無なオレリアにとって一番困った状況になっただろう。

 しかし、彼らが聖職者として担架でシャルルを隠して運んだのなら、行き先はたったひとつしかない。

 宮廷の内側に、聖職者だけが踏み入ることを許される聖域がある。聖堂街と呼ばれるその地には聖職者が奇跡を学ぶための大聖堂があり、大聖堂で奇跡を学ぶ聖職者たちのために様々な施設が街を構成している。

 聖職者が人を隠すにはうってつけの場所だろう。


「世俗の民に対して聖堂街が解放されるのは、その民が救護の対象として聖療院に運ばれるときのみ。これは教会法で定められた原則です」

「では、殿下はそこに」

「ええ。どうせなら正攻法で門を破りましょう。治癒すべき患者は異教徒であっても拒まず、慈悲の心をもって受け入れねばならない。これも教会法で定められていますからね」


 もちろん、そんなものは建前に過ぎない。

 しかし、この宮廷にいる聖職者はシャルルを誘拐した連中だけではない。教義に忠実な者も、オレリアの王族という威光に屈する者も、目星はついている。

 オレリアは何も奇跡というシンプルな実益のためだけに日曜の礼拝をサボらなかったわけではない。緊急時に切れる札を用意しておいたのだ。


「一緒に兄上を助けに行きますよ、マレー」


 オレリアが微笑みかけると、マレーは微かに頷いて、そのままゆっくりと崩れ落ちた。限界だったのだろう。もしくは緊張の糸が切れたのかもしれない。

 倒れたマレーの姿勢を整え、気道を確保したあと、オレリアは修練場の扉を開け放ち、あらん限りの大声を上げた。


「誰か! 誰か来て! 人が血を流している! 死んでしまいます!」

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