第21話 水の泡

 「では、まだ何も変わったことはないんですね?」


 「はい、私は特に気になるようなことはありませんでしたが、法月さんと蓮見さんは大丈夫なんでしょうか?」


 「まだ実害は出ていません。しかし、危険であることに変わりはないので、天白さんも十分気をつけてください」



 昼休憩前に突然心晴を訪ねて来たふたりの男は、まるで借金取りのような雰囲気で鋭い眼つきをしていた。


 すぐに自己紹介で茅ヶ崎と山下が刑事だとわかったものの、心当たりがない話に不安だったので先輩である古宮に同席してもらった。


 彼らに見せられた動画は、その場にいなかった心晴と古宮でさえも気分が悪くなる内容だった。


 しかし、現実的にそういった問題はたくさん起こっている。


 それを堂々と否定して悪しき考えを持つ人間を成敗したのが弥勒と陽世だった。現代の言葉でいうこの動画が『バズった』理由は、勧善懲悪を好む人が多いことと、誰しもが映像の中でビジネスマンがしたことは間違っていると感じたから。


 その投稿に書き込まれたコメントは、ほとんどが称賛だった。


 しかし、本題はそこじゃなかった。特定されたビジネスマンのアカウントに心晴が弥勒と一緒に映っている写真があったのだ。


 その男が逆恨みをしているのは弥勒と陽世だが、同じ写真に映った彼と親密に見える心晴にもその感情が向けられることはあり得る。


 だから、こうして刑事がわざわざ会いに来たのだった。



 「外出はできるだけ控えて、通勤は人通りが多い場所を。それでも万が一身に危険が迫ったときは、こちらまで連絡をください」



 そう言って茅ヶ崎は名刺を一枚心晴に渡す。これまで仕事でたくさんの人から名刺をもらったが、警察官から受け取ったことはなかった。



 「わかりました。ありがとうございます」


 「それでは、我々はこれで失礼します」



 茅ヶ崎と山下を見送った心晴は、オフィスに戻った。


 「なんだったの?」と部長の新宅に訊かれたが、なんとなく話を誤魔化しておいた。


 例の件で新宅は頭がいっぱいだろうし、部長である彼女は他にもいろいろな悩みを抱えているはずだ。プライベートなことで心配をかけたくなかった。



 「大丈夫?」



 古宮がデスクについた心晴に問いかけた。



 「大丈夫です。きっと何も起こりません」


 「金曜日予定ないって言ってたけど、法月さんと会ってたんだね」



 そうだった。


 金曜日の退勤時、古宮に食事に誘われたが断った。


 弥勒と会うのかと訊ねられて否定したものの、その後彼と食事に行った。古宮に訊かれたときはまだ弥勒との食事が決まっていなかったので、嘘は言っていない。


 それでも、彼からしたら騙されたという解釈になるのは当然だ。



 「あの後、法月さんから電話があって急遽決まったんです。すみません、騙すつもりはなかったんですけど」


 「別に責めてるわけじゃないよ。ただ、天白さんはどうして法月さんとふたりきりで会いたがるんだろうって、そう思っただけ」



 古宮の問いに答えることはできなかった。


 その答えは心晴の胸の中にある。


 彼は忘れられない人だから。


 だけど、それを古宮に明かすことはできない。だって、まだ当事者である弥勒にすら話していない。


 心晴と古宮の間を気まずい空気が流れていく。昼休憩はいつも通りデスクで食事を取ったが、会話は一切なかった。


 心晴が本社に配属されてから、ふたりが昼休憩に話さないことはこれまで一度もなかった。


 昼休憩が終わり、心晴は隣にいる先輩と会話がないまま業務を開始した。茅ヶ崎と山下が来たことで、午前に終わっているはずの業務がまだスクリーンに張り付いたままだ。


 風早七海との契約の件はいまだに進展せず、頼みの綱だったコンサルタントの陽世はストーカーのせいで仕事どころじゃない。彼女の上司である弥勒も同じ悩みで頭を抱えているはず。


 邪念を振り払うように頭を振ると、デスクに置いたスマホに着信があった。画面に表示されている名前はまさかの弥勒だった。


 このタイミングでの電話ということは、おそらくストーカーの件だろう。


 心晴はスマホを持って足早にオフィスを出て、空いている会議室に駆け込んだ。



 「天白です」


 『法月です。お時間よろしいでしょうか?』


 「はい」



 弥勒の声はやはり元気がなかった。


 ストーカーに追われて疲れているのか、もしくは部下を心配して疲れているのか。彼なら後者の方が可能性が高いかもしれない。



 『もう刑事さんから聞きましたよね』


 「はい、お昼前に来られました。法月さん、大丈夫ですか?」


 『俺は大丈夫です。だけど、天白さんに迷惑をかけることになってしまって』


 「まだ迷惑をかけられていません。ストーカーに追われたこともないですよ。鈍感だから気づいてないだけかもしれませんけど」



 彼を元気つけようとした冗談も、今は逆効果のようで、彼は一切笑わない。



 『通勤はいつもおひとりですか?』


 「そうですね。毎日電車で通ってます」


 『よければ、一緒に通勤させてもらえませんか?』


 「え? 一緒にですか?」


 『朝家まで迎えに行って、帰りは家まで送ります。俺のせいで天白さんに何かあったらと思うと、自分のことなんかより心配で・・・。気が狂いそうなんです』



 弥勒の元気がないのは、自分のことも陽世のこともあるが、何より心晴のためだった。



 『金曜日の食事の後、不審な男が俺たちを見てました。だから、巻き込まないためにあなたから離れたのに、手遅れだった。あの日、会っていなかったらこんなことにならなかったのに』



 電話口の弥勒は泣き出しそうに弱々しい声で語り続けた。そんな彼の声を聞いていたら、なぜか心晴まで泣き出しそうになる。



 「あまり自分を責めないでください。私は法月さんに会えて嬉しかったです。それに、こんなことになるなんて誰も予想できなかった。あなたは悪くない」


 『会社にいる時間は外に出ることもないでしょうから大丈夫だと思います。だけど、通勤だけは天白さんが無事でいることを俺が一緒にいて確認したいんです』


 「わかりました。お願い・・・」



 心晴が彼の気持ちに感謝して、彼の言葉に甘えようとしたところでスマホが取り上げられた。


 会議室に乱入した古宮は、彼女のスマホを耳に当てて宣言した。



 「天白さんは僕が守ります。法月さんはもう彼女に近づかないでください」



 怒りに満ちた彼の表情は、心晴から呼吸を奪った。


 古宮は、一方的に通話を終えてスマホを彼女に差し出した。

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