【彩愛】-ユキナ=ブレメンテ-

【彩愛】第一話「いやぁ可愛い名前だ」

 私、ユキナ=ブレメンテの人生はぬかるんだ泥道どろみちだった。


 私はドイツ人の父と日本人の母のもとに生まれたが、しっかり者だった父は、私が誕生する前に失踪しっそうして行方ゆくえをくらませた。


 母は母で頭が不出来ふできな女だったから、父にだまされているとも知らず、よくわからないまま私を育てることになってしまった。


 失踪した父からの偽愛ぎアイに気づくことなく、籍も残したまま。


 私は見たこともない父の『ブレメンテ』という忌々しい名を外せずにいた。



 ボロボロのアパートで私が母の世話をし、幼い頃から色んな人に感謝の言葉を言い、社会福祉の恩恵おんけいを受けて生活をしていた。


 世間的には役所とは困った人が行くところだと大人になってから聞いた。


 道理で私は毎週のように役所に通っていたわけだ。


 私の担当をしていた役所の人は、私を年齢以上にさとい子供だと思っていた様子だったが、学ばなければ母を守ることも、そして自分自身が生きていくこともできなかったのだから当然だ。


 幼い頃から母を守り、色々なものを背負って過ごしたせいか、様々なことを学び、心も自然と強くなっていった。一方で、世間から見た自分という存在を理解して、自分に対する自信は無くなっていった。


 高校卒業後の進路についても、当初は就職を希望していたが、単純に就職難であったこともあってか、担任から「君は自信を持つために、もっと見識けんしきを広めた方が良い」と言われたこともあった。


 別に担任の言葉があったからと言うわけではないが、地方から東京のとある大学へ進学することにし、大学の近くのアパートで一人暮らしを始める事となった。


 出来の悪い母をおいていくのは心配だったが、役所の方が母のことや私の進学についても親身になってくれた。


 幸い、頭の出来は良い方だったから学費に関しては困ることも無かった。


 しかし、生活費となると話は別だ。同期の子達が遊んでいる間も、毎日のようにバイトをしてお金を稼いでいた。


 大学という場所は夢や希望に満ちてキラキラとした若者たちであふれかえっていて、嫌でも自分と見比べてしまう。どうして私は私なのだろうか……。


 おそらく、入学したての頃の私ならそう思っていただろう。


◇ ◇ ◇


 色々と過去を振り返りながら、借りているボロアパートのドアを開けて外へ出ると、左隣りの部屋から声が聞こえてきた。


「ユキナちゃーん!」


 アパートの共用廊下部分に面する窓を開けて、【ルーラシード】が小さく手を振っていた。


 彼の名前は【ルーラシード】。私と出会う前にどういうことをしていた人物かは知らないし、私も自分の過去を進んで話してはいない。


 尋ねられてもいないことを話すことはないし、無闇矢鱈むやみやたらに人の過去を聞くこともない。私が知っているのは、私と出会ってからの彼だけだ。


 かといって、今はどこかの大学院で何かの研究をしているらしいのだが、こちらに関しては尋ねるとはぐらかされてしまった。どうやらあまり言いたくない様子だったから、それ以来尋ねることはなかった。


 つまり、私は彼についてよく知らないままなのである。


「ユキナちゃん、今日のご飯なーにー?」


「今日は余ってる豚肉で唐揚げを作って、あとはチャーハンあたりにしようと思ってます。たまには牛肉も買いたいんですけどね」


 【ルーラシード】がのぞいていた窓を閉め、玄関を開けて廊下に出てきた。


「僕の分もある?」


「もちろん大丈夫です。ちゃんと二人分作りますよ! あっ……でも今日もバイトがあるから、今から大学に行って、バイトして帰ってくると多分午後九時くらいになっちゃうかも……?」


「問題ないよ、食べさせてもらえるだけで十分だよ」


 【ルーラシード】が微笑ほほえむ。

 私は持っていたかばんごと腕を真っ直ぐ伸ばし、大の字になった。


「ん! ほらっ!」


 【ルーラシード】は照れ笑いをしながら私の身体をギュッと抱きしめた。


「いってらっしゃい、ユキナちゃん」


◇ ◇ ◇


 彼、【ルーラシード】との出会いは二年近く前に遡る。


 当時十八歳だった私は、大学の近くでもっとも家賃の安いアパートへ転居てんきょをした。


 そして、そのアパートの隣の部屋に住んでいたのが【ルーラシード】だった。


 入居当初に挨拶回あいさつまわりをした際に会って以来、三ヶ月以上は何も交流がなかったのだが、ある日の夜、バイトが終わってアパートに着くと、【ルーラシード】が彼の部屋のドアの前に捨てられた犬のように座っていたのだった。


 流石にそのまま無視して通り過ぎ、自分の部屋に入りづらかったので「どうかしたんですか?」と声をかけてしまった。


 すると彼は「家のかぎを失くしちゃって……」と落ち込んだ様子で語ってくれた。


 どうやら玄関前で家の鍵を失くしたことに気づいた後、来た道を戻ってみたり、知り合いに探してもらったりしても見つからないので、不動産屋へ連絡したら夜間で対応できないから直接大家へ連絡してくれと言われ、大家へ連絡するとお嫁さんが電話に出て、義父おとうさんの管理されているものだからどの鍵かわからないと言われ、結局今は隣町にある鍵屋かぎやさんの到着とうちゃくを待っているようだった。


 わかりやすいタライ回しで思わず笑ってしまった。


 私は今まで色んな人に同情的な親切ばかり受けて卑屈ひくつになっていたけれど、もしかしたら本当は他人からしたらこの程度のことだったのかもしれない。


 だからというわけではないけど、私はこの人に少しだけ親近感が湧いてしまった。


「えっと……部屋、隣ですし、鍵屋さんが来るまで私の部屋にいますか……?」


「いいの?」


 男の人を部屋に入れるという行為を躊躇ちゅうちょなくしたことについて、今思えば軽率だったのかもしれない。


 でも、この人なら何も問題がないだろうという安心感も不思議とあった。


「構いませんよ、困ったときはお互い様っていうじゃないですか」


「ありがとう……ついでにお腹も空いてるから何か食べ物も……」


 実質初対面であったが、なかなか図々しい人だなというのが最終的な第一印象となった。


◇ ◇ ◇


美味うまい! めちゃくちゃ美味うまい!!」


 彼は私の作った料理を、それはもう美味おいしそうにかたぱしから食べ尽くした。いただきますすら言わずに、もちろん私の分まで。


 しかし、ここまで美味しそうに食べてもらえるのであれば、ある意味で気持ちの良いものだった。


「いやぁ、本当に助かったよ。このお返しはいつか必ずするよ。えーっと……その……」


「ユキナ=ブレメンテです……」


「そうそう、ユキナちゃん。ユキナちゃんか、いやぁ可愛い名前だ」


 彼はうんうんと感慨かんがい深そうにうなずいている。


 でも、私はブレメンテという名前は嫌いな名前だった。


「あ、そうそう僕はね――」


「【ルーラシード】さんですよね、私はちゃんと最初挨拶に行った時に憶えましたよ……」


 彼が食べ終わった皿を片付けながら、目線を合わせず嫌らしく返してみた。


「あはははは……申し訳ない……」


 背後からバツの悪そうな声が聞こえてくる。


 今思えば、私はこの人に名前を憶えていてほしかったのかもしれない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る